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4 イブの林檎

こんなことは、よくある事さ

要は受けとめ方次第

選ぶのは、僕




「この部屋が気に入った?」

 寮長はテールコートの内ポケットからシガレットケースを取り出し、僕を見て柔らかく微笑んだ。

「きみ、寮にいる時よりも、ずっと楽しそうな顔をしているよ」


 ローテーブルに身を屈め、寮長は取り出した煙草に火を点けた。胸いっぱいに吸い込んだ息と共に肩がゆっくりと上がる。細かな灰がポロポロと崩れて落ち、白い煙が立ち上がる。甘い匂いが鼻をつく。このソファーに染みついているのと同じ匂いだ。彼は目を眇め、口の中に貯めた煙を唇をすぼめてフーと静かに吐ききった。


 その様子を僕がじっと見つめていると、間を置いて、茫とした面をおもむろに傾け、「吸ってみるかい?」とあの青いガラス玉の、蛇のような目をすっと細めた。


 寮長は僕の肩に腕を廻し、軽く僕の唇に煙草の吸いさしを銜えさせた。僕は催眠術にでもかけられたようにされるがまま従っていた。

「ゆっくり。少しづつ吸うんだ。……ああ、駄目だよ、そんなに急に吸い込んじゃ」


 喉の奥に焼けつくような熱を感じ、僕は寮長にしがみついてゴホゴホと咳き込んでしまった。息が出来ない。苦しくて涙が滲む。

「大丈夫?」

 寮長は、自分のために入れておいた冷めた紅茶を飲ませてくれた。喉の熱が一気に引いていく。

 お礼を言おうと面を上げると、天井がぐらりと揺れた。


 視界はゆらゆらと、真っ直ぐに身体を保てないのに、身体の芯から圧倒的な幸福感が沸き起こっていた。僕の内側で火花が飛び散る。心臓が早鐘のように打っている。合格通知を受け取った時だって、ここまでの喜びはなかった。


 身体を支えていられなくて、寮長にもたれ掛かってしまっていた。頭だけはふわふわと宙を漂い、身体は地面にどろりと溶けてしまったみたいだ。寮長は優しく僕の髪を梳いて、背中を撫でてくれていた。それがひどく気持ちが良かった。


 視界に入る蝋燭の、眩しい金色の光が幾重にも揺らぎ、金の粉を撒き散らすように粒子が踊る。



 学年代表にしてあげようか――。


 耳許でそう囁かれた。

 僕の野心はあっけなく見抜かれ、彼の手の内で転がされ、放り投げられ、弄ばれている。



 それなのに――。

 どうだって良かった。


 何も考えられなかった。


 自分のものではないようなこの身体を捩るように動かし、寮長の肩に頭を擦りつけた。なぜそうしたのか判らない。多分、上手く動かせなかったからだ。

 寮長は僕にキスして、僕のネクタイをさらりと解いた。


「きみ、スラブ系なんだって? ストラヴィンスキーは好きかい?」


 ソファーに転がった僕の耳に、イヤホンが差し込まれた。『春の祭典』が、僕の中にうねりをあげて流れ込んできた。


 音が七色に弾ける。その光彩の海に溺れる。落ちて、沈んで、漂っていた。


 どこまでも、ずぶずぶと沈んでいきながら理解した。




 この人は、蛇だ。僕は蛇の林檎を齧ったのだ。イヴと同じように。きっと僕たちはイブの子孫だったんだ。イヴと蛇の子ども。きっとそうに違いない。

 蛇の細い目が僕を見つめる。酷薄な、冷ややかな青なのに、僕はこの目を受け入れていた。嬉しくてクスクス笑った。蛇も同じだ。

 僕は蛇の巻きつく林檎の木。大地にしっかりと根差している。大地のエネルギーが沸々と僕の細胞を満たしてゆく。


 僕の身体を蛇が這いずる。蜷局(とぐろ)を巻いて襲いかかり、巻きつき締めあげ、骨を砕く。僕はこの蛇に食べられたんだ。頭からすっぽり丸呑みだ。




 僕はすっかり悟ってしまった。僕は祭壇の子羊だ。春の祭典で捧げられた生贄の乙女だ。


 蛇が二匹に増え、三匹に増え――。


 僕は身動きもできないまま転がった残骸。食い散らかされた、ただの残飯に成り下がっていた。





「ずいぶんとあっけなかったな。お高くとまったこいつが泣き喚くのを楽しみにしてたのに」

「だから言ったろう? この子は従順ないい子だって」

「まぁ、いいじゃないか。久しぶりの上物だ。そりゃあね、ちょっとくらい彼に似ているからって、中身までは望めないよ」

「全くだな。あんな奴は二人といない」

「僕としては、痛い思いをしてまで彼を追いかけるよりも、こんな素直な子の方が可愛くていいけれどねぇ」

「僕もこの子が気にいったよ。今にも壊れそうな、ガラス細工の美貌じゃないか」


 そんな会話と忍び笑いが、頭上を通り過ぎていく。甘い香りが、また僕を包んでいる。甘い、甘い、甘美な芳香。全てを忘れさせてくれる柔和な芳香――。





 残された選択肢は? 誰か、僕に教えてくれ。


 ――学年代表にしてあげようか。


 これが、答え。

 プレップ・スクールでは教わらなかったこと。

 これは、僕が望んだ答えなんだ。






「僕が、僕が、戻って来るのが遅くなったから……。寮監を呼んで来るから、待っ、」

「頼むよ、誰にも言わないで。こんな事が知られたら、僕はもう生きてはいけない」


 蝋燭の灯りをぼんやりと見つめていた。差し替えられた蝋燭はまだまだ長く、僕は不思議な気分で見つめていた。哀れっぽく泣きじゃくる鳥の巣頭が、朧に揺れる。ポタポタと僕の上に落ちてくる涙を受けとめるように手を伸ばした。紅潮した頬が熱を帯びて――。


 鳥の巣頭の、どんぐりのような茶色の瞳が迷っている。その首筋に指を滑らせると、びくりと彼の肩が痙攣した。僕は添えた掌に力を入れて身体を起こし、彼の肩に頭をもたせた。鉛のように身体が重い。ついさっきまではふわふわと羽のように軽かったのに。そこかしこ、バキバキしてちょっと動くだけでもひりひりと痛んだ。強ばって、眉をしかめ、浅い息を繰り返した。


「きみだけが頼りなんだ」


 彼の耳許で、声にならない声で囁いた。

 鳥の巣頭が僕の剥き出しの背中を、おずおずと、けれど、ぎゅっと抱きしめた。小刻みに震えている。止まらない嗚咽を繰り返す彼の首筋に、僕はそっと唇を当てた。






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