43 アヌビス
旋回するフーガを纏い
僕はひとり
悦楽に揺蕩う
ハーフタームは鳥の巣頭の家だ。
こいつの家なら両親は両手を上げて見送ってくれる。
僕は、……大好きだよ、この家が。
この夏、こいつのお父さま、って奴にお会いした。顔つきはこいつに似ていなくもない。髪色は錆色じゃないし、瞳の色はアヌビスと同じ青だったけれど。鳥の巣頭の錆色の巻き毛は、父方の祖母からの遺伝なのだそうだ。茶の瞳は母方の祖父。見事な程にまずい処ばかり組み合わせて継いだものだよ。金髪碧眼の両親に生まれた、アヒルの子。びっくりしただろうね。
それにしても、鳥の巣頭の一家ってやつは……。駄目だ、可笑しくて堪らない。兄貴も兄貴だけれど、父親も父親だ。これって、エリオットの伝統なのかな。僕の父は至ってノーマルな、全うな人なのに。
とは言え、この休暇中には父親の方には会わなかった。
代わりにアヌビスに会えたよ。最後に会ったのはいつだっけ? 随分と昔のことに思えるよ。
勿論、鳥の巣頭はいい顔をしなかった。毛を逆立てた猫みたいになって、自分の兄貴を警戒している。こいつの母親もそうだ。びくびくおどおどしながら、僕を慇懃にもてなしてくれている。
流石にアヌビスも夜に僕の部屋に来ることはもうしなかった。
なかなか二人きりで逢えなくて諦めかけていた時、やっと機会が巡って来た。鳥の巣頭に幼馴染が訪ねて来たのだ。僕も一緒に、て誘われたけれど、丁寧に遠慮させて貰ったよ。
白樺の林を抜けて、森小屋に向かった。紅葉した木々の落とした重なり合う葉をカサコソと踏み締める。僕の足の下で粉々に崩れていく乾いた音が心地よい。
案の定、アヌビスは小屋の入口で待っていた。ジョイントを燻らせながら。
僕は差し出されたジョイントに、首を横に振った。
「今はいい。ケースごとくれる? 匂いがつくとあいつが煩いんだ」
アヌビスは声を立てて大笑いしていた。
正直、ジョイント無しでこいつの相手をするのは嫌だったけれど、鳥の巣頭にしつこくお説教されるよりはマシに思えた。
僕は硬いラグマットを背中に感じ、擦れて赤くなるんじゃないかと、そのことばかりが気になった。
板張りのこげ茶の天井に蜘蛛が巣を張っている途中だった。忙しく立ち働いているそれを、終わるまでぼんやりと見ていた。
痕を付けるなと言ったのに、やはり直ぐに目に入るあちらこちらに指の痕が残っている。どうせあいつに文句を浴びせられるのなら、ジョイントを吸えば良かった……。
身仕舞いを整えて仕上げに振りかけたコロンに、アヌビスはまた豪快に笑った。
「なんだお前、セディと付き合っているのか?」
まさかアヌビスが、こんな些細なことに気がつくなんて思わなかった。この香りは、モンスーンの庭。初めてお会いした時に子爵さまがつけていた香りだ。
「何のことか解らないよ」
僕はつんと顔を逸らせた。今の子爵さまはこの香りを纏わない。だって、これは白い彼の香りだから。白い彼が転校した時、子爵さまはこの香りを捨てた。それなのに、今になって僕にこの香りを纏わせるのは、多分に子爵さまの自虐趣味のせいだ。まぁ、偽物の僕には、それもふさわしいのかも知れないけれど。
アヌビスはどうでもいいのか、それ以上は追求してこなかった。
それに、面倒くさい対価を支払った以上に、僕の役に立ってくれた。
ジョイントの売主が、やっと解った。聴いて驚きだ。アヌビスが梟から買っていたのは、予想通り。だからオックスフォードでも変わらずジョイントが手に入る。
驚いたのは、エリオット内でのルートは、代々うちの寮の寮長が仕切っているって事だ。子爵さまがジョイントを吸っているのなら、間違いなくその販売ルートは、現寮長に受け継がれているのだろう、ということだった。
「もっとも、あの事件のせいで前ほど簡単には手に入らなくなったがな」
アヌビスは吐き捨てるように言った。
その話によると、あれは単なるゴシップ紙のスクープなんかじゃなく、もっと奥深い政治的な駆け引きの一旦だったのだそうだ。狙いは百足の男の家。政治とは無関係の私生活のスキャンダルを晒して世論の反発を煽り、その父親を始めとする一族の発言権を削ぐ為の格好の的にされたって訳。
「まったく、いいとばっちりだ」
ジョイントのせいか、アヌビスはいつも以上に激しやすくお喋りだった。
僕の意識はもう、ジョイントでいっぱいだ。今の寮長がジョイントを扱っているのなら、手に入れるのは容易い。問題はあの小煩い鳥の巣頭……。
僕はもう服を身に着けたっていうのに、まだしつこく絡んでくるアヌビスを振り切るように立ち上がった。
「そろそろ戻るよ。あなたの弟が探しに来る前に帰らないと。兄弟喧嘩の種になりたくないからね」
くっ、と歪な笑みを浮かべて、アヌビスは僕の腕を引き、床に引き倒した。
兄弟揃って、なんて面倒臭いんだろう。
ああ、そうか、父親譲りか……。
僕は部屋に戻るなり、ジョイントを持ってバスルームに直行した。
顎を反らせ鏡の中を覗き込み、首筋に残る赤い痕にため息を漏らす。
こんなの、二、三日で消えるのかな……。
ヒステリックに目尻を釣り上げるに違いない、鳥の巣頭のことを考えるのは億劫だった。
だから、携帯プレーヤーを窓枠に置いて大好きなフーガをかけながら、たっぷりと張ったお湯に浸かって、ゆっくりと白い煙を燻らせ耽溺した。それは久しぶりに味わえた、僕だけの至福の時間だった。




