35 晴天の霹靂
霧の中に門が浮かぶ
僕を包み守ってくれる
僕にだけ開かれた異境の門
夏期休暇は、オックスフォードのGCSE試験対策カレッジ・スクールで大半を過ごすことになった。イースターの時と同じ。やっぱり、鳥の巣頭がくっついている。
でも、僕にはジョイントが必要だ。例え薄い、薄い、空気のような奴でもね。あれがないと眠れない。スクールが始まるまでの一週間は自宅で過ごしたけれど、苦しくて堪らなかった。イライラして、夜眠れない。僕はもうベッドにいるのが嫌だったから、毎日、一晩中テレビかDVDを見ていた。どうでもいい番組を。もう、気絶するように意識を失う方が、我慢して眠ろうとするよりもマシだって解ったんだ。
だから、オックスフォードで鳥の巣頭の顔を見た時は、柄にもなくほっとした。
「あれ、持って来ている?」
すぐに訊いたよ。こいつは判らないほど小さく頷いた。
「眠れなかったの?」
解っているだろ。いちいち訊くなよ。
「待ってて。必ず楽にしてあげるから」
鳥の巣頭は、ふわりと僕を抱き締めた。
部屋でジョイントを吸っている間、鳥の巣頭はずっと傍にいた。僕はやっと安心できて嬉しくて、こいつを誘ってやった。こいつは僕の横に転がって僕を抱き締めた。何もせずに。僕はそのうちに眠ってしまった。温かかったから、すぐに眠れた。
週末、カレッジの傍のカフェテリアで梟に逢った。
鳥の巣頭もいたから、こいつに気付かれないように気を使ったよ。飲みたくもない紅茶を、「買ってきて」と頼んで、やっと席を外させた。
「相変わらず、顎で使っているんだな」と、梟はくすくすと笑っている。僕はちょっとふくれっ面をしてやったよ。
翌日に蛇のいる赤い部屋の家に行くことになった。前と同じだ。あそこはいい。幾らでも上等なジョイントをくれる。
梟が煙草に火を点ける。僕も人差し指と中指を揃えて差し伸ばす。「馬鹿だな」と笑われた。「気を抜いて人前で吸ったりするなよ」って。
鳥の巣頭が戻って来た。僕の紅茶を持って。「もう、いらない」と僕はそっぽを向いて言った。
梟はすぐにこいつと、ボート部の夏期練習には顔を出すのか、とか僕のことはそっちのけで内輪の話で盛り上がり出した。仕方が無いのでその間、僕は鳥の巣頭が買ってきた紅茶を飲んでいた。
あの郊外の家に、今回は蛇はいなかった。百足もいなかった。でも多分、前にいた奴らと同じだと思う。僕のことを知っていたし。別に誰だっていいんだ。ジョイントをくれるのなら。
赤い部屋で、僕はジョイントを燻らせる。白い煙で天井が霞む。赤と白がまだら模様に交じり合う。僕とこの白い霧のように。
蕩けそうな快感に身を任せて僕は霧に包まれ官能の海を泳ぐ。たった一人で。漆黒の波間に溺れ、息ができなくなるほどに喘いで。力尽きて水底に沈んでしまうまで。
ウロボロスの渦の中、僕は螺旋に堕ちていく。ぐるりぐるりと永遠に。
騒がしい……。
朦朧とした意識の遥か彼方を、声が飛び交っている。悲鳴のようにも、叫び声のようにも聴こえる罵声。足音や、乱暴にドアを開け閉めする音……。
「マシュー、マシュー、しっかりして、マシュー!」
鳥の巣頭……、煩い。邪魔するなよ……。
白い天井が僕を見下ろしている。白い壁が僕に迫る狭い部屋。開け放たれた窓のカーテンが大きくなびいている。当然のように、鳥の巣頭がいる。赤と青の滑稽なチェックのシャツを着て。こいつのこのセンスのなさ、どうにかならないものか……。
「マシュー、」
こいつを視界に入れた僕に気付いて、鳥の巣頭の口元にほっとしたような笑みが浮かんだ。
「もうじき、きみのお父さまや、お母さまも来て下さるからね」
どういう事だ?
「きみは被害者だから。心配しないで、マシュー」
眉根を寄せた僕に、鳥の巣頭は視線を落とした。が、すぐに気持ちを固めて僕を見据えた。
「警察に相談したんだ。きみだけは見逃して貰う約束で」
青天の霹靂ってやつだ……。
流石に、二の句が告げなかったよ。おが屑頭に火がついて放火に走り廻ったってことかい?
「寮長を警察に売ったの?」
未だ立ち込める濃い霧の彼方に、かろうじて梟が垣間見えた。
「寮長? なんで? 寮長は関係ないよ。きみに酷い事をしていたのは、元ラグビー部の奴らじゃないか。寮長も、勿論きみのことを心配していらっしゃるよ」
「警察って、きみは、大丈夫なの?」
僕はちっともこいつの話についていけなかった。
僕にジョイントをくれていたくせに、まさかあれが何なのか知らなかった、なんて言い出すんじゃないだろうな。このおが屑野郎は。
鳥の巣頭は、僕の質問には答えなかった。
「……僕はね、色々調べてみたんだ。きみが深く傷ついていて、ジョイント無しでは生きていくのも辛いってこと、解っているつもりだよ。でも、今のままじゃ駄目だ。ちゃんと治療を受けないと、きみはいつまでも苦しいままだ。ね、マシュー」
鳥の巣頭は両手で僕の掌を持ち上げ包み込んだ。僕の瞳をまっすぐに見つめ、薄らと涙を浮かべて、一言一言、噛んで含めるようにゆっくりと言葉を繋げた。
「僕の父がちゃんとしてくれるから、きみは何の心配もしなくていいんだ。まずは病気を治して、それから学校に戻って来ればいいんだよ。大丈夫。ちゃんと戻って来られるように頼んであるからね。薬物依存症の治療だなんて、学校には知らさない。ただの病気療養だ。僕の父は、うちの学校の理事だからね。病院も秘密厳守のちゃんとした処を探して貰った。何の心配もいらないんだよ、マシュー」
僕の手を握り締め、手の甲にキスを落とすこいつをぶん殴ってやりたかったけれど、そんな気力も、体力も、今の僕にある訳がない。
深い霧の中の、どこからか聞こえる木霊に過ぎないこの声に、怒りに似た何かが湧き上がったことに驚いたくらいだ。
「きみの為なんだ。僕はもう、見ていられなかったんだよ。マシュー、きみが傷付けられるのを……。解って、マシュー。愛しているんだ。きみが誰の事を想っているかは知っている。でも、きみを想う気持ちでは、決して彼に負けないつもりだよ」
寝言は寝て言え。
僕はこいつの愛とやらのせいで、一年近く、窓のない、白い箱のような病院の一室に監禁されることになった。
僕をこんな処に押し込んだこいつのことを、一生涯、許すものか……。