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29 四月 赤い部屋

黄昏色が紺青に呑み込まれる時、

ウロボロスの牙が覗く。

ほら、飛び込むんだ。禍時の今。





 イースター休暇の二週間、オックスフォードのGCSE試験対策コースを受けたいと両親に相談すると、二つ返事で喜んでくれた。講義は父も通ったオックスフォード大学のカレッジ・スクールだし、宿舎も近くて綺麗な処だ。それに、両親ともにお気に入りの鳥の巣頭も一緒だから。


 全く、冗談じゃない! どうして、こいつまでくっついて来るんだ!


 って、解っている。オックスフォードにはアヌビスがいるからだ。鳥の巣頭は、僕がアヌビスに逢いに行くと疑っているんだ。そんな訳ないだろ。僕はあいつの携帯番号すら知らないのに。でも、その方が返って好都合。疑り深い鳥の巣頭、せいぜい自分の兄貴を見張っているがいい。




 宿舎は個室だったし、僕は文系で鳥の巣頭は理系だから選択科目が違う。隣の部屋だからって、構うものか。そう思っていたのに、梟からはなかなか連絡が来なかった。


 そうなると、僕は眠れない。


 こんな奴でもいないよりはマシ。梟がジョイントをくれるまでの我慢だ。昼間は講義を受けて、夜は鳥の巣頭と過ごす。これじゃ、学校にいるのと変わらない。頭が変になりそうだ。




 一週間が過ぎた頃、やっと梟から電話があった。丁度、授業が終わった頃だったから、梟はきっと近くにいて僕を待っていてくれているんだ、と、そう思うと嬉しかった。


 僕は呼び出された場所へ行った。よく判らなかったのでタクシーを使った。街の中心地から離れた郊外の一軒家だった。

 呼び鈴を押す。ドアを開けてくれたのは、梟ではなく蛇だった。


「やぁ、マシュー、久しぶり。きみ、随分と綺麗になったね」


 蛇があの青い月のような目で、にっこりと、冷ややかに笑う。


 その時、僕は思ったんだ。今日は、上等のジョイントが吸えるって……。





 その場に何人いたか、覚えていない。赤い部屋だった。きらきらした、艶のある赤い壁。写真がたくさん飾ってあった。


 ああ、百足の男がいた。あの不気味な百本の細い足が、僕の上を這っていた。


 僕が横たわっていたのは、赤いソファーなのか、赤い絨毯なのか、赤いシーツなのか、それとも、僕の心臓から流れ出す赤い血の上だったのか、覚えていない。




 蝋燭が揺れて、美しい指が僕に別れの合図を送る。


 ――じゃあ、僕はもうそろそろ行くよ





 透明の赤が黄昏色に呑み込まれ、僕はやっと僕を見つける。微睡む僕。心を亡くした微睡む僕。心地良い闇。優しい闇の底深くで。


 僕は微睡む僕を抱きしめて、恐る恐る天を仰いだ。揺れる水面に歪んだ誰かの像が映る。三日月のように切れ上がった笑みは仮面みたい。くすくす、くすくす、僕を嗤う。


 嗤い声が響く度、とっぷん、とっぷんと水面が揺れる。赤い水面。揺れる水面はやがて凍りつき、アフターエイトを包む薄紙のように、カサカサ、音を立て始めた。


 カサカサ、カサカサ……。


 破れていく。ウロボロスの鱗が。綻びから僕が溢れ出す。


 さらさら、さらさら、赤い灰になって。



「ジョイントを、もう一本頂戴」



 早くウロボロスを繕わなければ。白い煙で。この闇を満たして。破れた鱗を貼り付けなければ。


 もっと。もっと。もっと。

 足りない、足りないよ。


 もっと僕をどろどろに溶かして。僕の血で膜を作るんだ。僕がこれ以上溢れてしまわないように。もっと、もっと、僕を赤く染め上げて。



 ――じゃあ、僕はもうそろそろ行くよ



 行かないで。

 凍りついた僕に上着を掛けてくれたじゃないか。

 僕に陽だまりをくれたじゃないか。



「ジョイントを頂戴」


 白い彼はどこ?

 僕を隠して。この赤い想いを溶かして、分解して、消し去って。


 もっと。どろどろに……。





 目を開けた時に横にいたのは、やはり、梟だった。

 僕には何故だか解っていた。だって、梟は優しいもの。


「お前が泣くなんて珍しいな」


 梟は、親指で僕の頬を拭ってくれた。

 僕は泣いてなんかいないのに。それは、赤い灰だよ。零れ落ちた僕の欠片。




 タクシーで宿舎に戻ると、僕の部屋の前で、鳥の巣頭が口をへの字にひん曲げて待っていた。

 梟は、僕に部屋に戻るように言うと、話がある、と言って、二人して鳥の巣頭の部屋へ入って行った。


 僕は疲れきっていた。

 今日のジョイントはきっと安物だ。

 ちっとも楽しくなれなかった。


 でも、眠い……。


 また急激に襲って来た眠気に、笑みが溢れた。


 そうだよ、ジョイントがあれば眠れるんだ、僕は……。





 翌朝、僕は講義を休んだ。起きられる訳がなかった。

 鳥の巣頭も、講義に出なかった。ずっと僕の傍らで、あれこれ世話を焼いていた。


 部屋に入って来た時から、何故だかこいつは機嫌が良かった。

「僕は寮長を誤解していた」と、嬉しそうに笑って言った。


 そうだよ、お前の頭はおが屑だからね。薄汚い嫉妬ですぐ燃え上がる。


 梟が何を言ったのかは知らない。けれど僕は、ぼんやりとした頭の中で、鳥の巣頭のこの変化にほっと胸を撫で下ろしていた。







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