197 その日3
目を瞑り、耳を塞ぎ、口を噤んでも
世界は廻り続ける
僕を巻き込んで
ざわざわと人声と足音が近づいてきて、僕たちの会話はそこで打ち切られた。
「総監、何なんですか? 打ち合わせって!」
「またボランティアの下見ですか?」
銀狐に気づいた十二の寮の各寮長たちが、口々に駆け寄って来る。銀狐はあっという間に彼らに囲まれ、取って付けた説明を、見事なまでのポーカーフェイスで話している。
そんな彼らから一歩外れて、項垂れて、僕は自分の足元を見つめていた。そこには小さな花弁を開いたばかりの紫のクロッカスが、小首を傾げて僕を見ていた。
銀狐は狼の怖さを知らないから、あんな勝手なことが言えるんだ!
のどかで健気なその花に文句でも付けるように、ぎりっと歯ぎしりをした。理不尽な怒りで、胸が押し潰されそうだ。
僕の人生なんて……。
そんなもの、もうとっくに踏みにじられ、泥にまみれて見れたものじゃないじゃないか。明るい日の光の下を歩いているあいつの今を守るのに、替えられるものじゃないじゃないか。
どうして、解ってくれないんだ……。
僕はトラウザーズのポケットの中の携帯電話をぐっと握り締めた。そしてふと、これが盛んに震えていたことを思い出した。
ボート小屋に向かっている銀狐と寮長連中を尻目に、少し遅れて後に続いた。
数件の不在着信は、ボート部の子たちだ。それに副寮長からも。
そして……。
鳥の巣頭からのメールが入っていた。
僕は息を止め、出来るだけ気持ちを落ち着けてからそのメールを開いた。メッセージはなくて、写真が一枚添付されているだけだ。
でも、それで充分だった。
『きみが来てくれると信じて、
僕はここで待っている。
いつまででも、待っている。 ジョナス』
一緒に何度か通った、あの小汚いパブの名前が印刷された紙のコースター上に、一文字、一文字几帳面に綴られた鳥の巣頭の懐かしい文字があった。
馬鹿な鳥の巣頭……。
どうしてきみは、そんな大馬鹿者なんだ……?
唇を噛み締め俯いたままの僕の肩が、ぐっと握られる。
「覚悟はいいかい? ここから先は、きみに取って本当に辛いものになるよ」
銀狐が僕の耳許で囁いた。
「きみの知らない、銀ボタンくんの本当の顔が見られるよ。きみの夢も、覚めるほどのね」
彼の声はどこか冷たく胸に響いた。
僕が知らないと言う大鴉の、きみの知らない顔を、僕は知っている。
それでもなお、彼は僕の憧れ。僕の夢。
僕は頭を高く上げ、背筋を伸ばした。
大鴉、この扉をくぐる時、僕は初めてきみと対峙する。
せめて今だけはきみに恥じぬよう、誇り高く、エリオット校生らしく、在りたい。
僅かに開かれた横開きの扉から、一人づつ順番に寮長たちがボート小屋に入って行く。一番最後に入った僕が最初に目にしたのは、蒼白な面でガタガタと震えている、あのボート部の二人だった。
その背後の、ガランとした、だだっ広い、薄汚いコンクリートの床の上には、狼が、あの黒髪の小柄な一学年生の手で首許にナイフを突きつけられ、うずくまっている。
その傍に立つ天使くんは、青褪めてはいるけれど、怪我はなさそうだ。
大鴉も……。
僕は静かに胸を撫で下ろした。
「表でお寝んねしている三人は、取り敢えず縛り上げて、見張りを付けておいた。こいつも縛っておくかい?」
黒のローブを翻し、遅れて入って来たプラチナブロンドの監督生代表が、大鴉に向かって声を上げた。
「うん、そうしてくれ。このままじゃ、いつイスハ―クがぶっぱなすんじゃないかと、気が気じゃない」
大鴉は屈託なく笑いながら、顎をしゃくる。示された方向に振り返り、天井近くにある天窓を見上げた監督生代表につられ、僕も、各寮長たちも一斉に同じ方を向いた。
開け放たれた天窓から覗く屋根には、ライフル銃を構えた黒いローブの奨学生が、躰を縮めて身じろぎもせず、おそらく狼に狙いを定めている。
その褐色の肌と独特の雰囲気に見覚えがあった。確か、大鴉の友人の中東からの留学生、皇太子殿下の従卒だ。
大鴉を守ろうと動いていたのは、僕たちだけではなかったのだ!
「それに、まだ交渉が済んでいないんだ」
監督生代表が後ろ手に廻した狼の手首を、その場に落ちていた紐で縛り上げている間に、大鴉はしゃがみこみ、狼の顔を覗き込むようにしてにっこり笑った。
「なぁ、さっきの返事は? この学校から手を引いてくれるか? あんたの部下にも、もう手を出させないで欲しいんだ」
「何の話だ」
狼は諦めたように呟いた。
「あんたがこの学校に敷いた、麻薬密売ルートの話だよ」




