195 その日1
ひたひたと迫る
運命の足音は
銀の軌跡を
弧に描く
朝から今にもひと雨きそうな、どんよりと厚い雲に覆われた日だった。
土曜日の午前中は、課外授業や部活動が任意に充てられている。生徒会に入ってからは馬術部を辞めていた僕にとって、自由のきく貴重な時間帯だ。
朝の点呼を済ませて寮生を送り出し、身の回りのものを整理した。元々私物は少なかった。着替えと、学用品。洗面具。それにコロン。
鳥の巣頭、きみはまだこれを使ってくれているだろうか?
まさか、そんなはずはないよね……。
鞄にしまう前にこの香りを吹きかけた。きっとこれからの僕は、きみとの想い出の香りを身に纏うことは出来なくなるから。
こうして僅かな荷物を見廻していると、僕という人間が、本当に何もない、空っぽの人間に思えた。
鳥の巣頭が寮を出た時には、大量の荷物があった。
きみには趣味がたくさんあって。好きな本も山積みで。誕生日やクリスマスに贈られたガラクタが山のように箱に詰まっていて。
僕が卒業セレモニーにあげたブートニアさえ、家に戻ったらプリザーブドフラワーに加工して大切に飾っておく、と言って持ち帰った。
僕はこの学校で、いったい何をしていたのだろう?
大半の時間を、ジョイントの作る白い夢の中で過ごしていた。
この学校に入学した他の生徒が、未来を夢見、現実を生きていた同じ時間、僕は時の停まった微睡みの中。
僕がこの場所で、培ってきたものは?
爛れて、腐り落ちてしまった未来だ。
心地良い夢から覚めた僕に残されたのは、それだけ。
僕という空っぽのぺらぺらの紙人形と共にいながら、鳥の巣頭は現実を生きていた。僕の痛みをあれほどに共有してくれていたにも拘わらず。
きみは、僕のように夢の中に逃げ込むことをしなかったね。いつだって、前を向いて。僕に手を差し伸べ続けてくれていた。
きみの夢見る未来の話を聴くのが好きだった。
だって、そこにはいつだって、僕がいたもの。
きみの横に、いつだって。
叶うことのない夢でも、きみが夢見てくれることが嬉しかったよ。
きみは今、何をしている?
僕を忘れて、ちゃんと元気に過ごしているかい?
机の上の目覚まし時計に目をやった。
もうじき課外授業の時間が終わる。
もうする事がない。待つだけだ。
携帯の呼び出し音が鳴るまで、僕は窓枠に腰掛けてテムズ川を眺めていた。
未だ冬枯れたままの樹々の枝に、当然ながら大鴉はいない。
彼の愛した樹々を見ていた。その枝先に留まる黒いローブの翼を思い描きながら。
その狭間に、花開き始めている小さな黄や紫のクロッカスを見ていた。
蛇行するテムズ川を。澱むことなく、流れ続けるこの川を。
未だ肌を刺す冷気に晒されながら。
やっと、携帯が鳴った。
ボート部の子たちからだ。
「了解。絶対に彼を傷つけるんじゃないよ。マクドウェルさんは、そんな卑しい真似を何よりも嫌うからね」
計画通り、馬術部の練習直後の天使くんの誘拐に成功し、ボート小屋まで運んだという報告だ。
興奮気味の彼らに釘を刺し、電話を切った。
程なくして、ドアがノックされた。
僕の顔を見て、銀狐は素早く後ろ手にドアを閉めると、緊張した面持ちで呟いた。
「ジョナスが来ている。街のパブできみを待っている。きみが警察へ行く気なら自分が付き添うって」
思いがけないこの連絡に、僕は頭が真っ白になっていた。
動転しきって、気が付くと両手は彼のローブに掴みかかっていた。
「なんだって喋ったんだ! 約束したのに!」
ドアに叩きつけるように押し付けてしまった僕を、銀狐は押し戻すのではなく、その両腕で抱き締めた。
「彼は気付いていたよ、きみの気持ちに。きみが自首するつもりなのなら、自分も法廷に立ってきみを弁護するつもりだって。彼の誠意を無下には出来なかったんだ」
「そんな……! あいつが知れば、そう言い出すのは判っていたから……、だから、あいつを止めてくれって頼んだんじゃないか! あいつがそんな馬鹿な気を起こさないように止めてくれって!」
「きみが彼を巻き込みたくない気持ちは解るよ、マシュー。でもね、きみが僕の友人なように、ジョナスだって僕の大事な友人なんだ。黙っている訳にはいかなかった。僕だって、彼に一生恨まれるのは嫌だからね」
茫然と立ち尽くす僕を、銀狐はますます強く抱き締める。
「それじゃ、意味がないじゃないか。あんな酷い言葉ばかり投げつけて、別れたのに。別の奴まで傍に置いたのに」
その場に崩れ落ちてしまいそうな僕を、銀狐はドアに寄りかかりながら震える脚で支えてくれていた。
「ジョナスは伊達にきみと付き合っていた訳じゃないよ。彼は、コンサートの時にはもう、コスナー副寮長のことをかなり疑っていた。あの子、ジョイントを吸っているだろうって。きみをまた、ジョイントに引き摺り込もうとしているに違いないって。それに、コスナーだけじゃないだろうって。……そんな連中ばかりに囲まれて、もう警察を頼るしかジョイントから逃れる道はないと、きみは思ったのに違いないって」
銀狐は、冷静さを取り戻すようにと、僕の背中をとんとんと叩いた。そして、そっと躰を離すと、腕をひいて僕をベッドに座らせた。
「まだ時間はある。先にジョナスに逢うかい?」
銀狐の真摯な瞳に、僕は頭を振った。
「馬鹿な真似は止めるようにきみから伝えて。言ったろう? 僕はもう十九なんだ。未成年じゃない。罪を問われる年齢なんだよ。法廷に立って弁護するだって? あいつ、どこまで頭がおが屑なんだ。自分の立場を解っていないんだよ。そんなスキャンダルが許される訳がないだろ! あんな大馬鹿、大嫌いだ!」
込み上げてくる涙を呑み込み、喉をひくつかせながら、僕は震える膝の上で両の拳を握り締めていた。
「きみはジョナスのことを意外に解っていないね。スキャンダルなんて、彼に取って取るに足らない事に過ぎないよ。そうやってきみが、何度彼を嫌いだと言おうと、遠ざけようとしようと、彼は、きみを愛することをやめはしない」
宥めるように、銀狐は僕の手を包み込んで握り締める。
僕は何度も頭を振った。
「駄目だ、逢えない。きみが行って。あいつを説得して。もう僕のことは放っておいてって……」
「本当にそうして欲しいなら、自分で言うんだよ、マシュー」
携帯がまた、鳴った。
僕は震える手で耳に当てた。
「……了解」
電話を切り、僕は何度も深呼吸を繰り返して息を落ち着かせてから、立ち上がった。
「行こう。マクドウェルが到着した」




