176 地下の記憶
逆回転する
螺旋の旋回
渦巻く過去にある未来
秋学期最終日の午後、僕は三方を灰色ブロックの壁に囲まれ、一面だけ舞台の幕のような重厚なカーテンの掛かる、あの地下室にいた。
入り口横の書物机に置かれた燭台の蝋燭に、梟のライターで火を点ける。
ぼうと浮かび上がる仄かな灯に照らされ、闇がりに鈍い臙脂色のソファーが浮かび上がる。
パラパラと、記憶の断面がコマ送りされ流れて零れる。
全てはここから始まった。
僕たちがこの部屋へ下り、ここに置かれていたこの銀のライターで、蝋燭に火を灯した時から……。
凍てついた空間に沁みついた、淫靡な声、くすくす笑い。蛇や梟が僕を呼ぶ。重なり波打つ木霊のように。そして、子爵さま……。
次々と現れては消えて行く幻影を、僕はただ眺めていた。
――為すべきことは何なのか、今ならちゃんと解るのに、あの頃は解らなかった。
鳥の巣頭、きみの言う通りだよ。
もし、時が巻き戻せるなら……、そんなことを考えてみても仕方がない。だが、これから先の未来から、今しなければならない決断から、逃げる訳にはいかない。
この部屋で、ジョイントの見せる心地良い夢に逃げていた僕の時は止まり、今こうして、その失われた時を取り戻そうとすることで、鳥の巣頭、きみの未来まで歪めようとしている。
愚かな僕が、考える、ということから逃げ続けていたばかりに!
閉ざされた、ジョイントの香りの微かに混じる湿ったかび臭い空気の中で、指先に悴むほどの寒さを覚え、僕は無意識に両手を擦り合わせていた。僕が動くたびに蝋燭の焔が揺らめき、朧に伸びる影がすすり泣く。
あの日、真っ赤に冷えた僕の手を見たきみが貸してくれた携帯カイロを、僕はその日の内に失くしてしまった。それなのに、僕はきみに謝ることさえしなかった。
僕はあの頃からずっと、きみの好意の上に胡坐をかいて、きみを踏みにじり続けている。
この場所で、初めてきみが僕を抱き締め泣き濡れたあの日から、未だに……。
狼が僕をボート部の子らに与えない、狼のためにああも細々と働いている彼らに与えない理由に、僕は一晩考え続けてようやく思い至ったのだ。
僕と言う餌をチラつかせて、彼らに大鴉の弱みを握らせる。
彼らの話は、そういう事なのだと思う。
それまで、僕はお預けだ。それは直ぐに納得出来た。
でも、恐らくそれだけではない。僕を見ていた狼の目。傍らの男のあの視線。何度も見てきた、梟の目と同じ。あれは取引している顔だ。僕はもう充分過ぎるほど知っている。交渉成立の満足そうな笑顔を。
狼は気付いたんだ。
細々とジョイントを売るよりも、よほどお金を稼ぐ方法を……。あの子たちに与えるよりも、もっと有益な僕の使い道を。
僕を誰かに売り渡す。そして、次は……。
鳥の巣頭だ。
英国でも有数の銀行家の子息であるあいつを、強請るつもりなのだ。僕のことで。
だからあいつを見ているのだ。僕ではなく、あいつを。
鋭い牙の並ぶ大きな口から、赤く長い舌をだらりと垂らして、計算している。どうすれば一番効果的か? にたにた笑いながら計っている。
僕は銀狐に、ラグビー部の男の事件のことは言わないで、と頼んだ。でも、あいつは知っていた。
銀狐は喋ったりしなかった。けれど、鳥の巣頭の方から確認の電話が掛かって来たのだと言う。
銀狐は、僕の元に飛んで来ようとしたあいつを、必死の想いで止めてくれた。あいつに知られることを何よりも恐れていた、僕の気持ちを汲んでくれた。
銀狐が止めてくれたから、互いの気持ちを落ち着けて、冷静に向き合える時間を持つことが出来たんだ。
でも、それなら、誰が喋った? 誰が取り乱すあいつを見ていた?
狼は値踏みしているのだ。
あいつなら、僕のために幾らまで払うのかを……。
梟は僕をあの鋭い爪と嘴で引き裂き、喰らっていた。けれど、あの柔らかな、茶色の大きな羽で、僕を守ってくれていたのも事実だったと、僕はここに来てやっと気が付いたのだ。
校内でジョイントを売り捌きながら、梟は決して狼にエリオットの生徒の個人情報を漏らさなかった。ジョイントの顧客は、ラグビー部であり、他の各部活であり、受け渡しはあくまでその部の役付き。個人ではないのだ。
だから、あのフラットでの取引相手のOBたちの事を、狼は知らなかったのだ。
狼に漏らしたのは、僕。そして、あの子たち。ボート部の子たちだ。僕の代わりに販売網を託された彼らは、梟の言いつけを守らなかった。あるいは、裏切ったのだ……。
あの狼から、梟がどんなふうにエリオットの生徒を、そして僕を守ってくれていたのかは判らない。
梟がいなくなってから、全てが変わってしまった。僕やボート部の子たちでは、とても彼のようには出来ない。
僕という媒介を通して、狼は、エリオットの生徒や、繋がるOBを喰いものにしようとしているのに。
手始めに、鳥の巣頭を……。
これだけは間違いない。
ジョイントの白い煙は、もう僕を助けてはくれはしない。偽りの夢は儚く消え去り、甘い香りは苦い現実に変わる。
再び取り戻し、刻み始めた時が代償に求めるのは、今を捨てる決意と覚悟……。
燭台の横に、梟のライターを置いた。
これからあなたを裏切る僕に、これを持ち続ける資格はない。
もう一度だけ、僕はゆっくりとこの部屋を見廻した。僕を蝕み、守ってくれた、この冷ややかで温かい子宮のような小さな空間を。
吹き消した蝋燭の刺激臭が鼻を衝く。僕は懐中電灯を点け、この部屋を後にした。
ぎしぎしと軋む梯子を伝って地上へ戻ると、鉛色の空に、ちらちらと白いものが舞っていた。あの日のように。
地面にある四角い縦穴に蓋をして、鍵を掛けた。
そして、鳥の巣頭の待つ駐車場へ続く道に面したフェローズの森へ、鈍い金色をしたこの鍵を、投げ捨てた。永遠にあの地下室を封印したのだ。僕の凍り付いた時間と共に……。




