166 隙間
闇が囁く
沈黙の声は
さやけき影の
うねる水面
死んでしまいたい、と、初めて思った。
寮の窓枠に凭れて、闇を泳ぐテムズ川を見つめていた。曳きこまれそうな艶やかな漆黒が安寧の色を湛える。僕を誘う甘美な幻惑。
ここからあの川に身を投げて消えてしまえば、楽になるよ。
そんな囁きが耳を擽る。
でも、現実はそう甘くない。ここから飛び降りた処で、僕の躰は地面に叩きつけられるだけだ。遺体が汚くなるのは嫌だ。鳥の巣頭が悲しむから。川に飛び込んでも同じ。水にふやけてぶくぶくになった躰であいつとさよならなんて、冗談じゃない。それに、僕が死んでいなくなった処で、狼が大鴉を諦める訳がない。僕は、僕が引き起こしたことの責任を取らなければならない。
僕のせいで、大鴉は、狼に目を付けられることになったのだから……!
事の発端は何だったのだろう?
安易に大鴉のことを狼に告げたから? それとももっと前、梟に彼のレポートを見せたことが原因なのだろうか?
どちらにせよ、きっかけは僕。その事実だけは変わらない。
狼は、彼の情報を集めて来いと言ったけれど、そんな事をしてどうしようというのだろう? 大鴉を脅して、また投資レポートを書かせるつもりなのだろうか? あの大鴉が、他人の言うことなんて聞く訳がないのに。
彼が投資サークルを閉鎖した時、サークル継続の嘆願書が生徒会に出されて大変だった。サークル顧問の経済学の先生や、校長先生にまでお願いして大鴉を説得していただいたのに、無駄だった。彼がいきなりサークルを辞めたことで、投資ブームに沸いていた校内は騒然となっていた。それと前後して彼の受けた冷遇は、詐欺事件のせいだけではなく、この時の冷淡な彼の対応も一因じゃないのかと、僕は思う。
彼はお金を稼ぐ為にあのサークルを作ったのではない。レポートを書くデータ収集の為だ。だから、幾ら頼まれたってもう投資助言は一切しないって噂なのに……。ここまでつらつらと考えていて、僕ははたと思考が止まった。
確か銀狐と鳥の巣頭は、大鴉は友人の小遣い稼ぎを手伝ってあげていて、その手数料だけで大金持ちだって、言っていなかったっけ?
皆が言っている話と違う……。
なんだか頭がこんがらがってきて、もう何もかも放り出してしまいたくなった。
いったいどうすればいいのだろう? 嘘も本当も分からない彼の噂話を狼に伝えればいいのだろうか? そんな事で、彼は満足するのだろうか?
答えなんて分かりはしない! 僕は狼ではないのだから!
彼の思考も、欲望も、僕とはかけ離れ過ぎていて想像することすら難しい。
どうすればいいのだ? どうすれば?
窓から離れベッドに俯せると、枕に顔を埋めてむせび泣いた。
もうこうして泣いていたって、「どうしたの、マシュー?」と、声を掛けてくれるあいつはいない。僕の髪を優しく梳いてくれるあいつの手も。「大丈夫だよ」と、抱き締めてくれる腕もない。
未だにあいつの香りの残る寮長室は、以前の僕の部屋よりも広い。寮生が相談事を持ち込む為の簡易応接セットも置いてある。部屋でお茶を沸かすことだって許可されている。以前の自分の部屋と変わらないくらい既に馴染んだ部屋なのに。あいつはいない。
鳥の巣頭のいないこの部屋で、この一年を過ごすなんて!
どれほどぐずぐずと泣き伏していたのだろう……。
ドアをノックする音に、僕は仕方なく顔を上げた。
「どうぞ」
のろのろと立ち上がり、掌で涙を拭った。
「寮長、点呼の前に少しお話が、」
部屋に入って来た副寮長は、暗がりにぼんやりと立っていた僕を見て息を呑んだ。
「大丈夫ですか?」
僕はそんな酷い顔をしているのだろうか?
「電気を点けて、座って待っていて」
部屋の隅の洗面台の鏡を覗き込んだ。青白い生気のない顔が虚ろに僕を見つめている。
冷水で顔を洗い、髪に櫛を入れている間に、副寮長は、僕の為にお茶を淹れてくれていた。
「ありがとう、美味しいよ」
ソファーに座ってお礼を言うと、彼はほっとしたように白い歯を見せた。
「僕で良かったらなんでも言って下さい。話を聞くくらい、いつだってしますから」
僕はちょっと微笑んで頷いた。
今優しい言葉を掛けられると、それだけで泣いてしまいそうだ。
そんな僕の心を見透かしたように、副寮長は向かいのソファーから、僕の横に席を移した。
「何でも言いつけて下さい。何だってしますから」
僕の膝に、ゆっくりと手を這わす。狂おしく僕を見つめる瞳は、鳥の巣頭の瞳を思わせる。
あいつに逢いたくて、僕は瞼を瞬かせ、吐息を漏らした。
「寮長……」
伸ばされた腕が僕の肩に回された時、時計のアラームが鳴った。
「行こうか、点呼の時間だ。話はまた明日にでも聞くよ」
僕は深くため息をついて立ち上がった。
もうじき、ハーフタームだ。鳥の巣頭に逢える。僕は寮長としてちゃんとやれている、と報告して、あいつを安心させなければ。それから、生徒会のことも。話したいことが山ほどある。
あいつが喜んでくれる話を、たくさん出来るように……。
部屋を出て、もう後ろを振り返ることもなかった。副寮長は、僕から数歩遅れて、いつも通りの点呼の記録を付けていた。




