152 卒業セレモニー5
夜の静寂に
溶ける熱
表彰式、卒業セレモニーに続く晩餐会を終えたらすぐに、と言っていた鳥の巣頭は、その後、卒業生同士の打ち上げだかなんだかに引っ張って行かれたらしく、戻って来たのは夜中を廻っていた。もちろん門限は過ぎている。だが、この日ばかりは無礼講。そういうものだ。
静まり返った廊下を微かに軋ませ、足音を忍ばせて部屋に入って来た鳥の巣頭からは、甘いポルトワインの香りがした。
消灯時間は過ぎていたので、カーテンを開け仄かな月明かりの照らす窓枠に腰掛けていた僕を、そっと抱き締める。小さな子どもがするみたいに、頬擦りする。
「どうしたの? 酔っているの?」
首筋に当たるこいつの巻き毛がくすぐったくて、僕はくすくす笑って身を捩る。
「幸せだな、て」
僕の横に腰を下ろし、半身を捩じって肩に顎を載せ、壊れ物を抱え込むように僕を抱き締める。
「きみがここにいる。僕を待っていてくれている。奇跡みたいだ」
「馬鹿だなぁ。約束したじゃないか」
僕はこいつを抱き締め返した。少し躰を離し、こいつの額にかかる髪を掻き上げた。
やっぱり。涙が滲んでいる。とろんとした瞳が潤んでいる。目尻に溜まる雫を唇で吸ってやった。
「たくさん飲んで来たの?」
いつもより熱いこいつの頬を、揶揄うように掌で擦ってやる。
「そんなにだよ」
途端に口ごもる。
「ごめんよ、マシュー。こんなに遅くなってしまって」
こいつは僕に謝ってばかりだ。
「構わないよ。解っていたもの。早いくらいだよ」
一学年、二学年生の時の僕は、この日、部屋に戻って来なかった。一晩中……。甘い香りが立ち昇る。ポートワインの香り。ジョイントの香り。それから……。
白濁した記憶に、胃がきりきりと痛んだ。
「ここできみを待っていた僕も、幸せなんだって思えるよ」
鳥の巣頭を抱き締める腕が、小刻みに震えていた。何とか止めようと思っているのに、止まらない。
僕はこいつにしがみ付いたまま、震える声で言った。
「今夜は冷えるね。いい天気だったからかな。あんなふうに晴れ渡った日の方が、夜は冷え込むんだ。窓辺に長く居過ぎたよ」
纏い付く記憶を追い払い、こいつの腕を引いて立ち上がった。
「ベッドへ」
「マシュー、」
薄闇の中、鳥の巣頭はやはり不安そうに視線を虚空へ漂わせている。僕と目を合わすと、哀しそうに唇を震わす。それでも、まるで諦めたかのように僕を強く抱き締めた。
「僕は怖いんだよ。きみは、こんなに綺麗で、まるで僕の創り出した幻のように思えてしまうんだ」
僕の髪を梳き上げながら、僕の額にキスを落とす。
「僕はずっと長い長い夢を見ていて、いつか、急にこの美しい夢は終わってしまうんじゃないかって」
僕の首筋に頭を埋める。
「きみはいつもどこか朧で……。こんなに温かくて、しっとりとしていて、確かにここにいるのに、それなのに、きみは僕の夢でしかなくて、本当のきみは、」
僕はこいつをしっかりと抱き締めた。
「これが僕だよ。きみを抱き締めている。きみにキスしている。これが僕だよ」
僕は霧に溶けたりしない。消えたりしない。ここにいる。ここにいるのが僕だよ。
首をもたげた鳥の巣頭の瞳の中に、僕がいる。
僕は泣きそうになりながら、微笑んだ。こいつの頬を両手で包んでキスをあげた。優しく包み込むキスをあげた。こいつが安心できるように。
僕はここにいるんだって、解るように。
今なら僕にも解るよ。鳥の巣頭の熱が、僕はここにいると教えてくれようとしていたってこと。
ジョイントの煙に溶け、霧散する僕にずっと呼び掛けてくれていたってこと。
ずっと、こいつの手は、僕を探して彷徨っていたんだ。
白い煙に掻き消され、虚ろに揺蕩う見つけられない僕を探して。ずっと、こいつを見ようとしなかった僕を探して。
躰に落ちる一つ一つのキスが、僕の名を呼ぶ。白い彼の影じゃない。他の誰の名前でもない。僕の名前を、こいつはずっと呼んでくれていた。
僕は必死で呼び声に応えた。僕はここにいると。僕を掬い上げるこいつの手を必死で掴んだ。僕も一緒に。きみと一緒に。
「きみが、好きだよ」




