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13 六月 アフターエイト

 天のいと高きところに、神に栄光、地には善意の人に平和あれ…


 蛇が笑っている

 僕の平和は蛇次第




 僕は蛇に見捨てられた。

 

 僕は毎日曜、朝の礼拝に行く。鳥の巣頭が礼拝堂の聖歌隊でオルガンを弾いているから。

 礼拝の間は退屈で苦痛だけれど、ステンドグラスの輝きと、聖歌隊の聖歌(アンセム)を聴くのは好きだ。

 僕は柔らかな歌声に身を浸し夢を見る。

 穏やかな時間が流れていた。



 (ふくろう)は僕に優しかった。


「顔色が良くなったな」

 梟が僕の頭をさっくりと撫でてくれる。そして内緒で僕の好きな『アフターエイト』を数枚ポケットに入れてくれる。

 僕はにっこりと微笑み返す。

 早めに食べなくちゃ、気温が高くなってきているからチョコレートが溶けてしまう。




 五月のハーフタームは久しぶりに帰省した。

「学校、とっても楽しいよ。僕は学年代表だからいろいろ忙しいけれど、勉強も頑張っているから心配しないで」

 と報告して、A評価を貰った、鳥の巣頭に書いて貰った歴史のレポートを父に見せた。父は、良く書けている、と言って褒めてくれた。僕はとても嬉しかった。母もとても喜んでくれて、お茶の時間のケーキをひと切れ余分に食べることを許してくれた。いつもは、夕食が食べられなくなるから駄目よ、と言ってくれないのに。

 僕は家にいる間ずっと笑っていた。笑顔が張り付いて、もう剥がれないんだ。早く学校に戻りたい。




 学校に戻ったら直ぐに創立祭の準備で忙しくなった。

 創立祭は年間通して一番重要な行事で、二日間に渡って行われる。前夜祭はコンサート。当日は、文化部の様々な発表と、クリケットの寮対抗戦と、それに続くOB戦だ。そして、ボートの儀式。父兄を招いて学校を開放し一日中お祭り騒ぎに明け暮れる。生徒も、父兄も一番楽しみにしている行事だそうだ。

 僕は学年代表だから、勿論忙しい。全てを鳥の巣頭に任せて置くわけにもいかなくて、必死になって頑張った。二学年や、三学年の学年代表も僕に優しくて、凄く丁寧に教えてくれ、面倒をみてくれた。




 創立祭当日は凄い人出だ。午前中は学校を両親に案内して回った。と言っても、父の方がずっと詳しいから、僕と母は父の思い出話の聞き役だ。

 お昼は、寮ごとに、クリケット広場に貼られたテントでビュッフェ形式の食事を取った。今日はお天気も良かったから、僕たちは芝生に広げたシートに腰を下ろした。勝手知ったる父がいるから、この辺の準備は抜かりがない。

 鳥の巣頭には朝から会っていない。きっとアヌビスの方で食事しているのだろう。「僕もご両親にお会いしたいな」て言っていたくせに。



 寮長と、副寮長が並んで歩いているのが見えた。ストローハットを色鮮やかな生花で飾り、この日の為だけに着るボート用のユニフォーム姿だ。僕らの寮は紺のジャケットに赤のストライプのシャツ、赤いネクタイ。それに白のトラウザーズ。寮ごとに異なった、選ばれた漕ぎ手だけが着ることの出来る華やかなその服装が、長身で威厳のある二人にとても似合っている。

 二人は僕たちの前で立ち止まった。僕は既に両親に告げていたので、両親とも直ぐに立ち上がって、にこやかに握手を交わしている。


「彼はとてもいい子ですよ。学年代表の雑多な仕事も積極的にこなしてくれ、とても助かっています」

 寮長が、僕の肩を抱いてにこやかに言った。

「そうだろう。解るよ、私もここの出身だからね」

 父が嬉しそうに相槌を打つ。

「マシュー、」

 人前では苗字で呼ぶのが慣わしなのに、寮長は親しげに僕を名前で呼んだ。

「食事が済んだのなら、僕たちの寮のボートの準備を手伝ってくれるかい?」

 僕は父を振り返る。

 父はにこやかに、「しっかりな」と、僕を送り出した。



「マシュー、きみ、なんだか垢抜けたね」

 蛇が肩に置いた手を滑らせて、僕の首を下から顎にかけて撫で上げた。

「試験も済んだし、また遊んであげるよ。きみも、いい子にしていたしね」

 梟は何も言わない。




 ボート小屋を通り過ぎた。もっと川上まで進んで行く。老朽化して、使用禁止になった旧ボート小屋の中に入った。中は、がらんと空っぽで、壊れたボートが幾つか積まれているだけだ。天窓から差し込む光の中、埃がきらきら舞っている。

 更衣室から数人の男たちが出て来た。


「先輩、どうです? 似ているでしょう、先輩ご執心のソールスベリーに」

 梟が目を細めて言った。

 声を掛けられた相手は、返事の変わりににっと笑った。整った顔だちなのに、顎の下に酷く引き攣れた疵があり、笑うとその疵が百足(むかで)のように蠢いて見える。そいつの青白い手が伸びて、僕の頬をゆっくりと撫でた。指の何本かだけ、死人の手のように血の気がなく冷たかった。


「同じ疵をこの顔につけて遣りたい」

「先輩、それは勘弁してやって下さい。この子のせいじゃないんですからね」

「そうだな。怪我さえさせなければ、好きにしていいのだろう?」

「どうぞ、ご自由に」


 その男はポケットから折りたたまれた分厚い札束を出して、梟に渡した。

 蛇は別の奴と、雑談している。今年は人出が多い、とか、そんな話。


 僕は、梟を見上げた。

 梟は、煙水晶の瞳を細めて、

「いってらっしゃい」

 と、笑って手を振った。





 吹奏楽隊の演奏する、儀式のためのボートの曲が流れている。


 もう、そんな時間なのか。


 いつのまにか、ボートの儀式が始まっている。別格の奨学生たちのカレッジ寮を先頭に、十二の寮の十二のボートが一列に並んでテムズ川を下る伝統の儀式。


 僕も本番が見たかったな。ずっと窓から練習を見ていたのに。


 今頃、蛇も、梟も、細いボートの上でオールを立てて順番に立ち上がり、優雅に帽子を脱いで飾りの花を、川面に振り散らしているのだろう。

 歓声と、力強いボートの曲を伴奏に、澄んだ川面を、赤や、黄、青の、色取り取りの花々が、それは綺麗に舞い散って、ゆるやかに流れているのだろう。

 その中をボートは漂うように、狂って身を投げたオフェーリアのように、花に囲まれ、流れ、流れて……。


 僕の値段は何ポンド?



 踏み潰されたポケットの中の『アフターエイト』のせいで、僕のテールコートはチョコレートとミントの入り混じった、爽やかでねっとりとした甘い匂いがした。





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