131 創立祭2
記憶の水面を叩くのは
雨だれ
煙草の煙
饐えたような、誰かの臭い
「懐かしいな。そうか、ここはもう使われていないのだったな」
クリケット場からほど近い駐車場で車に乗せられ連れて来られたのは、あの古ぼけたボート小屋だった。もうずっと、僕はここへは来なかった。病院へ入れられる以前の、……そんな古い記憶しか残っていない。
その頃の記憶のまま、埃臭くひどく湿気ていて、薄暗い。高い天井をリズミカルに叩く雨音が、この廃墟に一層の侘しさを感じさせる。
がらんとしたボート置き場からブライアン・マクドウェルは、軋むドアを開けて控え室に入った。僕の方を向き、くいっと顔を捻って中に入るように促している。ボート部の子たちがにやにやと嬉しそうに笑っている。
そうか、僕は梟からジョイントの販売網を引き継いだあの子たちへの、報酬にされるのか。
僕は俯いたまま、控え室へ入った。ボート部の子たちの鼻先で、ドアがバタンと閉められる。
「あの子が抜けてしまってから、売上げが落ちて困っているんだ」
マクドウェルは、壁際のくすんだソファーに腰を下ろし、煙草に火を点けた。普通の煙草だ。ジョイントじゃない。
「下級生のあの子たちじゃ役不足だ。やはり、きみに仕切ってもらえないかな?」
ドアの前で凍りついたように動けない僕に、マクドウェルはにこやかな笑みを向けた。とても、紳士的な。彼の着ているスーツが、派手なイタリア製でなければ、この悪天候だというのにこんな黒のサングラスを掛けていなければ、純粋にエリオット出身の先輩だと思って、脚を竦ませて震えることもなかっただろうか……。
「僕には、とても、ふ、マイルズ先輩のように出来るとは思えません」
震えながら、なんとか彼に届くだけの声を絞り出した。
「そんな処につっ立ってないで、きみも座ったらどうかな」
煙草を挟んだしなやかな指先が、自分の横を示している。
こんな時の僕はゼンマイ仕かけの自動人形で、嫌だ、とか怖い、なんて言葉は身体には通じない。ぎしりぎしりと歪んだ動きで、言われた通りに従ってしまう。
マクドウェルは、煙草を挟んだまま、腰を下ろしても目を合わさずに俯いていた僕の顎を掴んで上向かせた。
くっと、その口元から笑みが零れる。
「なるほどな」
一言呟くと、彼は僕を放し、指先の煙草を自分の口元に運んだ。
「あの真面目な坊が可愛がっていただけのことはあるな」
梟を坊ちゃん扱いする彼が、ただ怖かった。
この人は、あの「ブライアン」なんだ。梟が、あの監督生を私刑に掛けてまで、その詮索を止めようとした人、ブライアン・マクドウェル……。
梟の在学中、学費やその他一切の援助をして、蛇以上に梟をがんじがらめに縛っていた人。
オックスフォードで僕が初めて彼に遇った時、その偶然を梟は決して喜んではいなかった。何も訊くなと無言で語った。
だから僕は、ずっとこの名前を忘れていたんだ。梟と逢った最後の日、「ブライアンには関わるな」と言われるまで……。
梟は僕を自由にしてくれた。ジョイントの販売網は僕からボート部へ移したし、もう客の相手をする必要はないと言ってくれた。そいつらが構ってくるようなら、銀狐を使え、と、教えてくれたのも梟だ。
銀狐に全て話したら、僕まで逮捕されるじゃないかと文句を言ったら、「本当に言う必要なんてあるものか」と鼻で笑われた。彼の名前にはそれくらいの効果がある、という意味なのだと。
でも、もし仮に本当に銀狐に頼らなくてはならない事があっても、あるいは、梟がいなくなった後も、銀狐が僕の周りを煩く嗅ぎ回るようでも、絶対にブライアンの名前は出すな、と注意された。
あの監督生の時と同じ。
彼にはエリオットの生徒一人葬ることなど訳もないから、と。
「ボビーが大事なら、絶対に喋るな」そう言われた。
「きみ、」
柔らかな、よく響く声にはっと面を上げる。
「あの子、あの錆色の……、失礼、赤茶色の巻き毛の子がきみの恋人?」
鳥の巣頭!
血の気が引いていくのが自分でも解った。
「真面目で、頑張り屋で、ボート部のキャプテンの座も約束されていたのに、きみのために生徒総監になって、部活の方は諦めたっていうじゃないか。一途だねぇ」
揶揄うように、マクドウェルの口の端が上がる。
「まぁ、気持ちは解るよ。きみみたいな綺麗な子はそうそういない。表の子たちも、相当きみに熱を上げているみたいだしね」
ふわりと、髪を撫でられた。その指先が頬をなぞる。
「きみの身の安全は保証してあげるよ。きみだって、あんなガキどもの相手は嫌だろう? 恋人も、悲しませたくないだろうしね」
すっと離れた指先は、シガレットケースから二本目の煙草を摘みあげている。
「吸うかい?」
上目遣いに彼を見ると、マクドウェルは微笑んで火を点けた煙草を僕の唇に銜えさせた。




