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130 六月 創立祭1

 雨に晒され

 風に攫われ

 掻き消えそうな

 きみの吐息

 





 大鴉の噂の行方や、あのいけ好かない新しいチューター、戻って来た天使くんの不可解な行動等、気がかりなことが幾つもあった。

 相変わらずどこか覇気のない鳥の巣頭も心配の種の一つだ。


 どこがどう、というのでもない。僕が甘えるとこいつは変わらず受けとめてくれるし、我が儘だって聞いてくれる。表面上は何も変わらない。

 だけど、僕とこいつの関係は壊れたまま。僕は未だにどうすればいいのか解らない。

 解らないまま、日々は過ぎていく。僕の不安なんて関係なく、日は沈み、また、昇る。



 大きく窓を開け、テムズ川の向こう街の果てから昇る朝日を眺めている僕を、鳥の巣頭もまた、眺めている。僕のベッドで。僕の枕に頭を埋めて。


「雨になりそうだよ」


 どうやら創立祭当日の出だしは雨模様のようだ。昨日の前夜祭は、一日晴れ渡っていたのに。


 まだ眠たげな鳥の巣頭に声を掛けると、こいつは「そう」と一言答えた。天気なんてどうだっていいみたいだ。

「酷い降りにならなきゃいいけれど」

 僕は川向こうの赤煉瓦の連なる街並みや白い城壁を金色に照らす朝日と、その上空を遮り、光を遮り跳ね返すように広がっている厚い灰色の雲を眺めて呟いた。


「マシュー」


 ようやっと起き上がり、鳥の巣頭は僕を呼んだ。


「辛いようなら無理をしないで。役員の仕事は抜けて構わないからね」


 僕は毎年のように創立祭に体調を崩す。一、二学年の時は百足男たちが来ていたからだけど、去年は、いきなりフラッシュ・バックで倒れた。鳥の巣頭は、人混みで緊張するのが良くないのじゃないかと、心配している。


 ベッドに座ったまま不安げに見つめるこいつの横に腰掛け、重たげな瞼にキスをした。


「平気。きっと、酷い降りにはならないよ」


 きみの出場するボートの儀式が見たいんだ。

 だからきっと雨は上がる。僕は倒れたりしない。

 心配なんか要らない……。


 瞼から、こめかみへ、柔らかな頬へ、何度も啄むようなキスを落とした。こいつはくすぐったそうに笑い、唇を薄く開いて待っている。だから僕はうんと焦らしてやる。耳たぶへ、首筋へ、唇をずらす。


「どうする? まだ時間あるよ」


 耳元で囁いてやると、やっとこいつは僕を抱き締め被さってきた。唇も、身体も。







 創立祭午前の部を占める寮対抗クリケットは、生憎の雨の中の試合となった。

 濡れそぼる緑の上で繰り広げられている試合を、招かれた保護者や友人、この学校の生徒たちは傘もささずに観戦している。

 接戦が続く息詰まるゲーム展開に観客は立ち去る者もなく、熱に浮かされたように声援を送っている。佳境に入り、応援席の声に更に力が入る。


 生徒会役員の腕章を付けた僕は、来賓席のあるテントで試合を見守っていた。去年見損ねた大鴉の試合だ。接待係として立ちっ放しとは言え、大鴉の見事な活躍を特等席から見ることが出来るのは嬉しかった。 

 煙る雨の中ピッチに立つ大鴉は全身白のユニフォームで、灰色にぼやける世界に、仄かに浮かび上がる。幻のように。夢のように。


 けれど雨は徐々にきつくなり、大鴉の姿は雨に交じり消え入りそうで、テントは来賓以外の先生方や、一部の保護者の方々で一杯になって、僕は隅に追いやられテントからはみ出し掛けていた。


 テントを叩く雨音がバラバラと激しく耳につく。試合続行か、中止かと、そんな話も出始めた頃だった。


「ふーん、あの子が噂の銀ボタンくんか……」


 柔らかなトーンのエリオット発音と、肩に置かれた手の重みに、戦慄が走る。振り返るまでもなく、僕には彼が誰だか解っていた。



「やぁ、やっと会えたね。きみを探していたんだ」


 雨の匂いと交じり合うジョイントの香り。違う、錯覚だ。これはコロンの香り……。ジョイントじゃない。


「少し、話が出来ないかな?」


 早く、ひと気のない場所へ……。


 一刻も早くこの場を離れようと、僕は上手く言うことを聞かない、小刻みに震える脚を心の中で叱咤し、ぎくしゃくと踵を返した。途端に緊張しすぎて、前のめりにつんのめる。大きな掌が、腕を掴んで支えてくれる。


「きみ、大丈夫かい? 何もとって喰おうっていうんじゃないんだ」


 柔らかな低音が耳を掠る。




 テントを出ると、馴染んだ顔がすかさず走り寄って来た。僕はほっとして頬笑み掛け、そのまま凍りついた。この二人は、僕を助けに来てくれたんじゃない。僕に向けられた、雨に濡れた髪を掻き上げるその掌から覗く瞳は、貪欲なもの欲しげな色を湛えている。そして、全く異なる畏敬の念を、僕の肩に腕を掛けているこの男に向けている。


 男は、ボート部の子らから受け取った黒のコウモリ傘を開いて、実に紳士的に僕に差し掛けてくれた。


「身体が弱いらしいじゃないか。もっと自分を労わるべきだな」


 その時浮かべた親しげな笑みに、僕は、やっとこの男の名前を思い出した。


 ブライアン……。確か、あの時、この男はそう名乗った。






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