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118 鳥の巣頭の告白

 宵闇に漂う薄霧が流れ

 覗き見た

 遍く月光が照らし出す

 夢

 

 

 


 オックスフォードの宿舎に到着したのは、もう日も暮れてからだった。到着時刻をメールで鳥の巣頭に知らせたからか、こいつは宿舎の玄関の、蜂蜜色の石造りの壁にぼんやり寄り掛かって待っていた。ウォールライトの白い光が頭上からこいつを照らし、俯きかげんの淋しげな顔に濃い影を刻んでいた。


 背中を罪悪感が一気に駆け上る。緊張で胃がきゅっと縮こまる。僕は顔を伏せ、鞄の持ち手を強く握り締めた。

 鳥の巣頭は僕を見るなり駆け寄って来て、人目も憚らず抱きついた。痛いほど、きつく抱き竦められた。


 こほん、と銀狐のお兄さんに隣で咳払いされ、やっと気が付いたように僕を放した。


「ありがとうございました」


 鳥の巣頭は銀狐のお兄さんの正面に立ち、姿勢を正して、真っ直ぐに彼を見つめてお礼を言った。そして、その傍らにいた銀狐を軽くハグした。

「きみも、ありがとう」


 こいつは昨夜の事を、どんなふうに銀狐から聴いたのだろうか……。


 それきり鳥の巣頭は、その時見せた深刻な空気を一変させ、食事は済ませたのか、とか、道は混んでいたかとかさりげない話題を朗らかに訊ねながら、僕の鞄を持ってくれ、宿舎の手続きをするカウンターまで付き添ってくれた。銀狐のお兄さんとは、ここでお別れだ。「何かあったらいつでも相談にのってやるから、遠慮せずに来いよ」と、お別れの握手を交わしながら、お兄さんは、僕の肩をバンバンと叩いて励ましてくれた。この善良なひとを騙している自分に良心が疼いて、僕は曖昧な笑みを浮かべて頷き、小さな声でお礼を言った。




 銀狐と部屋の前で別れ、自室に入った。鳥の巣頭は僕の鞄を床に下ろし、僕を抱き締めた。


「きみが無事で良かった」


 僕にはもう、どう応えていいものか判らなかった。

 ここへ来るまで、ずっと銀狐と話していた。銀狐はこいつの胸の内を余すところなく代弁してくれた。不器用なこいつが、僕には言えなかった心の言葉を。



 鳥の巣頭はずっと梟のことを信じていた。

 もし、僕が梟のことを本気で好きなのなら、自分は身を引こうと考えていたのだという。

 それなのに……。


 ――きみの身体に暴行の痕がある、って相談されたんだ。きみがまた、以前のような酷い目に遭わされているのではないのか、って。



 大鴉の投資サークルでおかしくなってからだ。

 梟は僕のことよりも株の取引に夢中で、他の奴らもジョイントを吸っている訳でもないのに恐ろしくハイテンションで、気の向くままに僕を貪っていた。

 僕はもう、そんな状況に疲弊しきっていて、身体に痕が残っているかなんて気に掛けることすら忘れていたんだ。



「きみが、好きだよ」

 掠れた声が、僕の耳を擦る。

「好きだよ、マシュー」

 まるでもたれ掛かっているような、力ない鳥の巣頭の抱擁に違和感を感じながら、こいつの髪に指を差し入れ撫で摩りながら、

「僕も好きだよ」

 と、囁き返した。


 鳥の巣頭は僕の背中に廻していた腕を解いて、僕の胸を押し顔を背けた。


「……きみは、好きだよ、って言うと好きだよ、って返してくれる。愛してる、って言っても、愛してる、って言ってくれる。まるできみは木霊のようだよ。どんなに真剣に言葉を尽くしても、きみの心はそこにはなくて、僕の心が跳ね返ってくるだけなんだ」



 僕は何も言い返せなかった。だって、その通りだったから。僕の心がどこにあるかなんて、僕にだって判りはしない。


 鳥の巣頭は泣き出しそうな顔で、きゅっと唇をへの字に結び僕の両肩を掴むと、僕をベッドに押し倒した。

 僕を組み伏せ、伸し掛かりながら、鳥の巣頭は涙をいっぱいに溜めた目を瞬かせて僕に唇を押し付けた。

「きみは僕にキスされて、幸せだと思ってくれたことが、一度でもある?」

 涙が、ぽとりと僕の頬に落ちた。

「僕に抱かれて気持ちいいって思ったことが、一度でもある?」

 泣き濡れた頬を僕の首筋に押し付け、強く、強く抱き締めた。



 ――僕ではきみを抱けないから、僕にきみのことを託したんだろうって? きみが彼のことをそんな偏狭な卑しい人間だと思っているなんて、本当に残念だよ。彼は僕の身体のことは知らないよ。彼が僕を信じて頼ってくれたのは、もっと別の理由からだよ。



 眉根をしかめて僕を睨みつけた銀狐の、あの失望でくすんだ金の瞳が脳裏を過る。



「きみが僕を欲しいと言うのは、眠れないからで、眠れさえすれば、相手は誰でも良かったんだ」



 ――きみはかつての痛ましい事件が原因で、心に深く傷を負っていて、他人と健全な人間関係を結べなくなっている。特に、きみは性的な視線を向けられることを極端に恐れるから、って。恐れているからこそ、余計にその行為そのものを価値のないものにしようとする、って。彼はそんなきみのことを、心の底から心配しているんだ。



「きみの瞳はいつも僕を素通りして他の誰かを追っていて、僕を見ない」


 ――彼は、そんなきみがやっと好意をもつことが出来たセディと、きみとの仲を割いたことを後悔しているんだ。


 子爵さまとは、そんな仲なんかじゃなかった。僕はお金で買われただけ。




「こうしてきみを抱きしめている時でも、きみの心はここにはないんだ」


 ジョイントの白い煙に溶けてしまった僕の心は、僕にだって見つけられない。


「それなのに、僕は……、きみを手放せない。解っているのに、……きみを自由にしてあげられないんだ」


 自由……。

 大鴉の黒いローブが翻る。


「おかしいのは、きみじゃない。……僕の方」


僕の心を読んだように、鳥の巣頭は僕を抱き締める腕に力を入れた。僕の心を、この場に繋ぎ留めようと懸命になって。


「狂っているのは、僕なんだ」


 首をもたげ、ぐしゃぐしゃに涙で汚れた面を僕に向けて、自分の涙で固まって、耳や首筋に張り付いていた僕の髪をそっと梳きほぐしながら、鳥の巣頭は喉の奥から絞り出すように呟いた。


「狂おしいほど、きみを愛している、マシュー」



「僕はそんなふうにきみに想って貰えるような人間じゃないよ」

 僕はこいつの背中に腕を廻し、ふわりと抱き締めてやった。


「だって、僕は公衆トイレだろ? きみだって、僕を使って排泄してすっきりすればいいんだよ。馬鹿だなぁ、そんなに思い悩むことなんてないのに」




 こいつの背をとんとんとあやすように叩いてやって、目を大きく見開いたまま僕を見つめている鳥の巣頭を安心させるように、にっこりと笑い掛けてやった。





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