115 遺志
水底から見上げる夜の空
銀の光が
跳ねて躍る
床を擦るような足音に、目が覚めた。軽く、ベッドマットレスが沈み込む。
「何? 夜這いにでも来たの?」
目を開けて、僕を覗き込んでいた金の瞳に頬笑み掛けた。
「申し訳ないね、恋人との逢瀬を邪魔するような真似をして」
銀狐は皮肉な笑みを唇の端にのせ、僕を見つめている。
僕は頭を仰け反らせて、窓を眺めた。灯りの点いていない部屋に、月明かりが差し込んでいる。もうかなり遅い時間みたいだ。ここは梟のフラットなのに、どうして僕はこんな時間にここにいるんだろう? それに、それよりも、どうして銀狐がここにいるんだろう?
僕は寝ぼけて少し頭が混乱しているのかも知れない。
ぽかんとしばらく宙を眺め、そしてやっと、ベッドマットレスの端に腰掛け、片腕を僕の頭の横について覆い被さるような姿勢のまま、僕から目を逸らさないでいる銀狐に、視線を戻した。
「それで、何の用?」
「迎えに来たんだよ。きみがここから出て来ないから」
「出て来ない……」
僕は寝転がったまま、彼の言葉を繰り返した。
「どういうこと?」
銀狐はくいっと眉根を上げて首をすくめた。
顔の横にあった彼の腕をぐいっと引っ張った。崩れ落ちてきた銀狐を組み伏せてその上に馬乗りになり、両腕を頭の上で押さえつけた。そして、彼の悪い方の左脚に体重を掛け、膝で押さえ込む。
銀狐の顔が苦痛で歪む。乱れて散らばる銀の髪が月光に溶け鈍く光りを放つ。
「痛い?」
さっきまで彼がしていたように、上から彼の顔を覗き込んだ。銀狐は唇を引き締めたまま答えない。
彼の綺麗な金の瞳を真っ直ぐに見下ろした。蕩けるような黄金の瞳。そのままそっと彼に口づける。
「唇を開けてくれないの?」
銀狐はむっとしたように眉根を寄せた。
「もう一度したら、次は噛み付くよ」
「おお、怖」
ぐっと銀狐の足に体重を掛けた。ぎりっと、彼の唇が苦痛で跳ね上がる。
「力できみを征服するのも悪くないよね」
くすくすと笑って、その生意気な唇を塞いだ。銀狐は、噛み付いたりはしなかった。右手で彼の両手を押さえたまま、左手で彼の顎を掴み上向かせる。
「口を開けて」
指を差し込み、無理やりこじ開けた彼の唇の間に舌を滑り込ませ、彼を絡め取った。銀狐は全く抵抗しない。けれど、僕のキスに応えてもくれない。
僕は吐息を漏らし、力を抜いて身体を重ねると拘束していた彼の腕を放し、抱き締めた。
「無駄だよ。僕じゃきみの慰めにはならない」
「僕が嫌い?」
「そうじゃないよ」
銀狐は、宥めるように僕の背に腕を回し、抱き締め返してくれた。
「勃たないんだ。事故の後遺症でね、勃起不全。神経が切れているんだよ。生涯、性交は出来ない」
やっぱり……。
僕はなんとなく解っていたような気がする。解っていて彼を誘った。彼の口から言わせる為に。彼の秘密を握る為に。
涙が、出そうだった。こんな自分に吐き気がする。
「きみに訊きたい事があるんだ」
「うん」
梟のことでも、ジョイントのことでも、何でも訊くといい。
彼を強く抱き締めたまま頷いた。
僕にはこの彼の秘密を盾に、彼を脅かすことなんて出来ない。だって彼は、これほどの事実ですら、口に出す事を躊躇しない。
きっと秘密ですらないのだろう、きみにとっては……。
もう、どうでもいい。
きみにここを、知られてしまった。この事実は、今更、取り繕えるものでもないのだから。
「キングスリー先輩は、最後に何て言ったの?」
「え……、誰?」
予想外の問い掛けに、僕は訳が解らずぽかんとしてしまった。
「三年前の聖パトリックの日、きみの目の前で車に跳ねられた、監督生だったひと」
すっと、血の気が引いた。僕の身体が強張ったことに気付いたのか、銀狐は僕の髪にその長い指を差込み、優しく宥めるように梳いた。
「やっと、きみまでたどり着けたんだ。教えてくれ。キングスリー先輩は事故に遭う直前、エリオットの制服を着た子に呼びかけ、道を渡ろうとした。その時、何て言ったの? 誰を呼んだの?」
淡々と静かに問い掛ける銀狐の声に、何故だか解らないまま、後から後からとめどなく涙が溢れてきた。
「その人は、きみの……」
「尊敬していたんだ。この世の誰よりも」
「愛していたんだね」
銀狐は答えなかった。
「『ハリー、そこにいて。今、行くから』……そう言ったんだよ。彼は僕を見て、ソールスベリー先輩と間違えたんだ」
銀狐の耳元で、囁くように告げた。
「そう……」
銀狐は呟いて、声を殺して静かに泣いた。
「やはり、事故だったんだね……。ありがとう、教えてくれて。これで、やっとすっきりできたよ。……先輩は、ずっと自殺だって言われていて……。僕はどうしても、信じられなかったんだ」
やがて銀狐は僕の下から身体を抜いて、身を起こした。拳で、ごしごしと涙を拭う。
「ずっと、事故の目撃者の証言にあった、エリオットの制服を着た二人連れを探していた。どうしても見つからなくて……。どうして事故証言に出て来てくれないのか、ずっと考えていて……」
銀狐は、辛い想いを吐き出すように深く息をつき、言葉を続けた。
「それがきみだって、思い当たったのは、きみに出逢ってからだよ。……先輩は、亡くなる直前まで『あいつらがまた、下級生を喰いものにしている』って、そう、おっしゃって、生徒会の中で蔓延っていた悪しき慣習を一掃しようと闘っていらした。……月下美人、先輩はその被害者の子のことを、そう呼んでいた。……きみのことだね?」
身を起こし、向かい合って座る僕の頬に、銀狐は手を伸ばしてそっと触れた。
「僕はずっと、きみを探していたんだ」
「先輩の、ダイイング・メッセージを訊くために?」
僕は、今は静けさを湛えている金の瞳をじっと見つめた。
「きみを救い出すために。……それが、先輩の遺志を継ぐことだから……」




