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108 澱みの中

 澱んだ水の中でしか

 狂い咲かない

 花もある





 結局、約束の時間ぎりぎりまで僕はこの場所から動かなかった。

 鳥の巣頭と銀狐が生徒会の役務で席を立ってからも、ずっと。

 学舎まで一緒に帰ろう、と言われたけれど。仮設ステージの催し物が見たいからもう少しいる、と言って断った。ステージではちょうど聖歌隊のクリスマス・キャロルが始まっていた。

 じっとしていると寒いので、モルドワインを買って飲んだ。この場所から、スパイシーな香りと味をちびちびと味わいながら、幻のような大鴉の姿を眺めていた。


 彼は僕を見ない。

 僕に決して気付かない。

 ほろりと心地よい穏やかな時間が流れる。


 その貴重な時間を、どうでもいい、つまらない奴に邪魔された。






「嫌になる。最近酷いんだよ。大してジョイントを買わない癖に僕とやろうとする奴がいるんだ。あれ、なんとかならないの? いい加減面倒くさい」


 僕は梟のスタジオフラットに合鍵を使って入ると、既に来ていた梟に、ふくれっ面のまま文句を言った。「ん?」と、ソファーに座って顔も上げずに帳簿をつけている彼に、髪を擦りつけもたれ掛かる。


「ストールの前で絡まれて、巻いて来るのに苦労したんだからね」


 本当は、たまたま通り掛かった顔見知りの監督生が助けてくれたんだ。きっとあのまま僕一人だったら、言いくるめられてどこかに連れ込まれていたに違いない。その監督生は一人歩きは危ないからと、このフラットの近くまで送ってくれた。でも、そんな事を言うと、なんでも秘密主義の梟に怒られそうだから、それは内緒だ。



「ねぇ、慰めてよ」

 首に腕を巻き付けキスしようとした僕を、梟はぐいと押し退ける。

「駄目なの? どうして?」

 そんなことには構わずに、梟にまとわりついた。


「この間のは、魔が差しただけだ」

 ちらりと僕を見て、梟はくっと笑いそっぽを向いてそう答えた。でも、身体が緊張している。僕を拒みきれないでいる。

「何、それ?」

 梟らしくない。そう思った。

「手を引けと、言われたからかな、あんな糞ガキに。惜しくなったんだ。お前を手放すのが」

 梟は腕を伸ばして、僕の頬を手の甲で撫でた。

「どうせ手放すのなら、俺が喰ってもいいじゃないか、て、魔が差したんだよ」

「じゃあ、いいじゃないか」

 僕はまた顔を背けた梟を追ってキスをせがんだ。あのしつこい男のせいで、僕はすこぶる機嫌が悪くなっていた。


「あなたが好きだよ」

 唇に舌を這わせ、シャツの上から鍛えられた身体をなぞる。

「俺は嫌いだ」

 つれない返事に、吹き出してしまった。笑いが止まらなくなって、僕は梟に抱きついたまま、くすくす、くすくす身を震わせて笑った。


「正直、お前にはがっかりしたんだ。退院してまともにやっているのかと思ったら、すぐにジョイントを吸って男をくわえ込んでいやがる。お前は、俺のお袋と同じだよ。誰かの庇護がなけりゃ生きていけない。その癖、その状態に甘んじるのも嫌でジョイントに逃げる。いつまで経ってもジョイントを切れない。骨の髄まで駄目な奴だよ」

「知ってる。だから、こんな僕に釣り合うのは、あなたしかいないんだ」

 僕は笑いながら囁いて、梟の耳朶をそっと喰んだ。

「諦めなよ」

「俺を誘惑するなよ」

 梟は頭を振ってクスクス笑いだした。身体を反らせて僕を眺め、口の端を歪めている。


「その顔。そんな顔で俺を見るな」

 煙水晶の瞳が熱を帯びる。

「どんな顔?」

 僕は顎を突きだし、薄く唇を開き口角を上げる。


 ほら、落ちた。梟は僕を抱く気になった。


「入学したての頃は、ただの可愛い顔をしたガキに過ぎなかったのにな。いつの間にこんな色香を身につけたんだ?」

 体勢を変え、僕の上に伸し掛って来た梟の両の頬を、掌で包み込む。

「あなたと蛇とで僕をこんなにしたんじゃないか」

「蛇?」

 怪訝そうな顔をした梟は、すぐに合点がいって、くっくっと笑った。

「彼が蛇で、あなたは梟。僕はあなた達に食べられるために育てられた二十日鼠だ」

「お前が二十日鼠ってのは、無理があるな」


 両肘で自分の身体を支え、僕の髪を撫でてくれながら、梟は僕の瞳を探るように覗き込む。


「本気で惚れている相手がいるんだろう?」

「いないよ、そんなひと」

「嘘つけ」

「僕はあなたが好きだよ」


 僕は梟の背中に腕を廻した。


 多分、嘘じゃない。梟だけだもの。僕を解ってくれるのは。僕はこんなどうしようもない奴だって、何の期待もしやしないのは。梟は偽りの優しさで僕を包み騙してくれる。その事が、こんなにも僕を安心させてくれる。


「初めてあなたが僕を抱いてくれた時、僕は本当に嬉しかったんだ。あなただけだった。あなただけが、僕を解ってくれていた。……僕たちは、あの時、目の前で同じエリオットの子が一瞬で命を落とすのを見たんだもの」


 脳裏に焼き付いているその光景に、僕はぶるりと身震いして、いよいよ強く梟に抱きすがった。


「凄く怖かった。とても一人でいられなかった。あなたもそうだったんでしょう? 同じだった。ねぇ、そうでしょう?」


 梟は何も答えなかった。それ以上言うな、と、唇をぐっと引き締めている。


「僕たちは互いに、慰め合ったんだ」

「俺は、ただ、」

「あなたは優しいひとだよ。あなたが死を恐れたのと同じように、僕も同じものを恐怖していることが、あなたには解っていたんだ。だから僕を慰めてくれた。僕もだよ。あなたを慰めてあげたかった。僕とあなたは同じなんだ」


 僕が腐っているように、梟も腐っている。僕たちはきっと、あの時、事故に合った彼の死に触れたんだ。その死臭を呑み込んだんだ。それがきっと、僕と梟の中でゆっくりと育ち、蝕んで、僕たちを腐らせていったんだ。


 それでもね、あれは僕が初めて経験した温もりだった。

 あなただけなんだ。僕を喰らわず、僕に与えてくれたのは。


「マシュー、勘違いするな。あれは、愛し合った訳じゃない。互いの傷を舐め合っただけだ」

「それは、大事なことなの? 愛か、愛じゃないかなんて、どうだっていいじゃないか」


 これ以上僕を拒めないように、僕はこの唇を僕の唇で塞いだ。互いが互いを貪るように、何度もキスを繰り返した。

 もう、梟は逃げたりしなかった。

 梟は僕と同じ。逃げられる訳がない。


「僕の嘘を嘘だと解ってくれる、あなたが好きだよ」


 かっちりと糊の利いたシャツを引き出して、梟の熱い背中に指を這わす。

 梟がいれば、ジョイントは要らない。この熱が、僕をどろどろに溶かしてくれるから。



 あなたの傍にいる時だけ、僕は、本当に楽に呼吸が出来るんだ。







モルドワイン… 屋外で身体を温めてくれる作用のあるスパイス入りのホットワイン。

        赤ワインにオレンジなどの柑橘類、スパイス、レーズン、蜂蜜や砂糖などが入っている。

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