105 嘘
湖面に映る偽りの月
さざ波に揺れ
ぐにゃりと歪む
僕はまだアルコール臭がするから部屋から出るなときつく言われた。寮の点呼は代わりにやっておくからと。僕は副寮長としても失格だ。
鳥の巣頭が点呼に出ている間に、僕は眠りに落ちていた。
夜中に目が覚めた時、鳥の巣頭は僕のベッドに頭だけ載せて床に座りこみ、僕の手を握り締めて眠っていた。「入って。そんな処で眠ったら、冷えてしまうよ」と、僕が肩を揺さぶると、こいつは薄目を開けてにっこりして横に上がり、しっかり僕を抱き締めて、また直ぐに眠りに落ちてしまった。
いつからだろう? こいつが僕のベッドに勝手に入り込まなくなったのは。合鍵を使わなくなったのは。僕は色んなことを余りに覚えていない。いつも霧の中にいて、大切な何かを落としていても気付かない。そんな気がする。
こいつの身体は温かい。ずっと抱き締められていると熱いくらいだ。でも、僕の上を通り過ぎていった他の奴らだって、みんなご多分に漏れず熱かった。こいつの言う愛していると、他の奴らと何が違うのか、僕にはまだよく判らない。
でも、ひとつだけ違う処に気が付いた。
こいつだけは、僕を抱き締めるだけで幸せそうに笑う。僕が「今日は嫌だ」と言った時でも、「構わないよ」と言って。そんな日は、安心して眠れるんだ。今みたいに……。
他の奴らじゃこうはいかない。僕に「嫌」の選択権なんてなかったもの。押さえ込まれて無理やりやられるだけだ。
息を殺して、月明かりに仄青く浮かぶ鳥の巣頭の寝顔を見ていた。
こいつの錆色の髪に指を絡める。ふわふわの巻き毛が、テディベアみたいだ。小さい頃大事にしていた僕のテディは、どこにいってしまったんだろう? 確か、プレップの寮にも持って行っていたのに。いつの間にかいなくなっていた。僕はあのくまのぬいぐるみを、記憶の狭間に落としてきたまま。
だから、テディの方が、人間になって僕に逢いに来てくれたんだ。こいつはきっと、僕のテディ。蹴飛ばしても、意地悪しても、少々乱暴に扱ったって怒らない、ふわふわの……。
駄目だよ。きみは僕のぬいぐるみじゃない。きみがそうだと言っても、僕にはもう、そうじゃないと解っている。
そう思うと涙が滲んできた。
僕にはきっと一生掛かったって、こいつのことが理解出来ない。
だから、僕はこいつを起こさないよう、そっとこいつの唇に口づけた。僕のテディに、別れを告げた。
翌朝は、どんよりと気分が悪かった。いつものことだ。鳥の巣頭もちゃんと解っている。気付いた時にはいなかった。きっと朝の点呼を取って、日曜礼拝に行ったのだ。もうパイプオルガンは弾いていないけれど、鳥の巣頭は日曜礼拝を欠かさない。
『後でちゃんと話し合おう』
枕元のボードにメモが貼ってある。
僕は寝転がったままちらりとボードを眺め、ぼんやりと天井を見つめていた。
「約束する。もうジョイントには手を出さない」
僕は真剣に鳥の巣頭を見つめて言った。
「先輩には、もう逢わないでくれる?」
鳥の巣頭の瞳が、不安で震えている。
「それは約束出来ない。先輩が僕にジョイントをくれたのは、僕が先輩に無理を言ったからなんだ。生徒会のプレッシャーがきつくて、気が狂いそうになる。時々手首を切りたくなるって。こんなこと、とてもきみには言えなかった。軽蔑されるのが怖かったんだ」
蛇口を捻るようにスラスラと嘘が流れ落ちる。鳥の巣頭の目が見開かれ、唇がわなわなと震えだす。
僕は今、ナイフでこいつの心を切り刻んでいる。お前の存在は何の役にも立たなかったのだと、罵っているも同然だ。鳥の巣頭が赤く、真っ赤に染まっていく。
「ごめんね」
こいつの首に抱きついて囁いた。
「僕はこんな、弱い駄目な奴なんだよ。……だけど、きみの誠意に応えたいんだ。だからジョイントはやめる。信じて」
ジョイントはやめる。きっとやめられる。あのことがバレるくらいなら、やめられる……。
「先輩は僕の精神状態をとても心配して下さっていたんだ。ジョイントには心を落ち着かせる作用があるから。だから、少しだけ融通して貰ったんだよ。来て」
僕は率先して部屋を出て共同トイレに向かった。鳥の巣頭は唇を噛み締めたまま、僕の後に続く。
「ほら、」
ポケットから、シガレットケースに入ったジョイントを取り出して見せた。蓋を開けるなり、あの濃厚な甘い香りがむわりと香る。
僕はこれを全部、トイレに流した。
ジョイントは渦を巻いて消え、微かな香りだけが揺蕩っている。
「きみがいてくれるなら、僕はもうこれに頼らなくてもやっていけるよ」
「マシュー……」
手を伸ばして、僕を抱き締めようとした鳥の巣頭の手を握って下ろした。
「駄目だよ、こんな処じゃ。部屋に戻ろう」
まだ、ふらつくんだ。
部屋に戻りベッドに腰を下ろした僕の横で、鳥の巣頭が何か一生懸命喋っている。僕は時々頷いたけれど、こいつが何を言っているのか、殆ど頭に入っては来なかった。
「僕が先輩に逢っても焼きもちを焼かないで。先輩も、きみと同じくらい、僕を心配して下さっていること、きみも、知っているだろう? 僕が好きなのは、きみだけだよ。だから、僕の数少ない友人を僕から遠ざけようとしないで」
こいつの首筋にしがみついたまま、ベッドに転がった。限界だ。目を瞑って大きく肩で呼吸した。意識が混濁して、深い霧に包まれる。僕はじっとりと嫌な汗をかきながら、こいつの耳元で囁いた。
「ね? 愛しているよ」
さぁ、きみも僕を喰らえ。それが愛だろうと、そうでなかろうと、僕にとっては大差ない。僕が無くなるまで、喰らい尽くしてくれればそれでいいんだ……。




