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 この爪の先から

 僕は生きながら

 腐っていく





「やっぱりこいつだったんだな、伝説の月下美人は! そりゃそうだな。こんな美形がそうそう何人もいる訳がないものな」

「ビショップが手塩に掛けて仕込んだ極上品だ。キスだけでイかせてくれるぞ。その分、少々お高いがな。まぁ、後悔はさせないよ」

「後悔なんてとんでもない! 願ったりだよ!」

 嬉しそうな声が弾む。僕の頭上を、どこかで聴いたことのある声が通り過ぎる。



「お前を抱けるのなら安いものさ」


 弾んだ声がうなじに落ちる。


 僕の瞳はもう何も映さない。白い煙に包まれてもう何も聞こえない。


 日が落ち切った部屋に街灯の灯りが差込み、窓の形に影を作る。僕はこの部屋にひとり、屍のように横たわりただ喰われている。生きたまま。いや、もう死んでいるのかもしれない。


 僕を包む朧な霧の中で、記憶の断片がカツンと落ちた。


 ああ、あれは、ハロッズのチョコをくれた声だ、と。





 いつの間にかふらふらと石畳の上を歩いていた。冷たい石の感触に、ああ、僕は靴を履いていないのか、と気が付いた。


 虚ろな僕の頭上に、天使くんの姿があった。

 灯りの消えたウインドーの上の、巨大な広告看板の中に彼はいた。



 闇の中にスポットライトで照らされ、荒涼とした大地に立つ片羽の天使くんが、顔の片側を包帯で覆い、黒のローブを羽織って、包帯で巻かれた右手を真っすぐに空に向け指し示している。


「Hold your head up high……(誇り高くあれ)」 

 その澄み渡る空に書かれたコピーを声に出して読み上げた。


 涙が溢れてきた。


 僕ときみは同じ、そう思いたかった。こんなにも違うのに。余りにも違うのに。きみが僕と同じならいいのに、そう願っていた。きみならきっと、僕のことを解ってくれる。僕を理解してくれる。そんな確信がどこかにあった。


 それなのに、こんな時に、きみは、きみと僕の違いをこんなにもまざまざと見せつけるのか。羽をもがれ、泥にまみれようと決して誇りを失わなかったきみ。例え傷だらけであろうと、堂々と胸を張って歩いていたきみ。


 僕の瞼裏にはそんなきみの姿が焼き付いている。


 僕は立っていることすら出来ず、その場に崩れ落ち、声を殺して泣きじゃくっていた。


 きみは僕とは違う。違う。と馬鹿のように繰り返していた。



「マシュー、探したぞ。そんな格好で……、風邪をひくぞ」

 梟が僕の腕を掴んで引き、立ち上がらせた。

「まともに服も着れていないのに」

 自分のコートを脱いで僕を包んだ。

「一度俺のフラットに戻ろう。酔いが覚めたら寮まで送っていってやる」


 泣き止まず、力の入らない僕を梟は支えて歩き出す。僕はなされるまま。そんな僕を天使くんが見下ろしている。あの高みから。自分とは違う、愚かな僕を嗤っている。

 いや、きみは嗤ったりしない。きみは、泣いてくれているんだ、僕のために。


 僕は梟に引き摺られるように歩いていた足を止め、両手を高く伸ばして、天から落ちてくるきみの涙を受け止めた。それはまるで降り注ぐキスのように、僕をいたわり、慰めてくれる、深い慈愛の涙だった。


「マシュー、濡れてしまう。さぁ、」

 目を眇めて空を仰ぎ、ちっと舌打ちした梟が僕の背を押す。闇へと押す。僕はまた、ふらふらと覚束無い足取りで歩き出した。





 梟のスタジオフラットのバスタブに浸かり、僕は漂う湯気を眺めていた。


「何回?」

「ん?」

「お金がいるんでしょう? 僕は後何回、すればいいの?」


 ぼんやりと、湯気の流れを目で追った。


「月一か、二回か」

「平日は無理だよ、生徒会がある」

「解っているさ」


「ねぇ、髪を洗って」

「もう洗ったじゃないか」

「もう一回。ジョイントの匂いが取れないんだ」

「匂いなんか、」


 僕は目を瞑り、お湯の中に頭ごと沈んだ。ゆらゆらと髪の毛が揺蕩う。このまま、底の底まで堕ちていけばいいのに。ジョイントの匂いが掻き消えて、誰にも気付かれない水底へ。


 ザバリッと、肩を掴まれ引き揚げられた。大きく目を見開いた梟が僕の顔を覗き込んでいる。

「何?」

 くすくす笑って訊ねると、

「髪を……、髪を洗ってやる」

 と、梟は声を詰まらせて言った。

 それが何だかちっともいつもの梟らしくなくて、僕は可笑しくなって、また、くすくすと笑った。





 門限ぎりぎりに寮に帰り着くと、部屋の前で鳥の巣頭が待っていた。僕を見つけるなり駆け寄って来る。

「どこへ行っていたの? 心配したんだよ」

「ほら、今日は……、」

 梟が来ることは、鳥の巣頭にも話してある。

「雨が降って来たからカフェで雨宿りしていたんだ。ほら、少し濡れてしまって」


 ふわりと香ったシャンプーの香りに、こいつは気が付いただろうか?


「そのせいかな、少し怠くって」

「早く休んだ方がいいよ」

「うん、でも、今日の点呼は?」

「大丈夫、僕がしておくよ」

 心配そうに僕を見つめる鳥の巣頭。耳元に唇を寄せ、囁いた。


「終わったら来てね」




 こんな日は、きみに抱かれて眠りたい。

 あの男が、僕に汚い痕を残さなくて本当に良かった。きっと、梟が事前に言ってくれていたんだ。梟は、そういう事にはとても煩いもの……。







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