98 十月 暖炉の焔
立ち上がる赤が
漆黒を刻む
熱に揺らめき
歪む世界
十月のハーフタームは、鳥の巣頭の家で過ごした。休暇の後半には銀狐も加わった。
彼が到着した時、僕たちはティールームで自習をしていた。もう日も落ちて冷え込んでいたので、暖炉に薪をくべ室内は程好く温まっていた。
案内されて入ってくるなり、銀狐は、暖炉の前のティーテーブルで眉間に皺を寄せて試験の過去問に取り組んでいた僕たちを見て、
「へえー、頑張っているんだね」
と、目を細めた。
「やあ、道中お疲れさま。すぐにお茶を用意させるから座って待っていて」
鳥の巣頭は嬉しそうに顔をほころばせ立ち上がる。すかさず銀狐は、手にした紙袋から包装された何かを取り出し手渡した。
「チョコレート、きみも、そこの彼も好きみたいだから」
「ありがとう」
鳥の巣頭は嬉しそうに受け取って、「すぐ戻るから」と、足早に部屋を出る。
「大丈夫? 顔色が余り良くないようだよ」
「そう? あの焔のせいじゃないかな。不安定な光が濃い影を刻むからね」
銀狐は、僕の向かいの席の椅子を暖炉に向けて引き、足を投げ出して、じっとゆらゆらと揺らめく焔を眺めている。
「脚が痛むの? だったら、先に部屋で休む? 僕、案内するよ。きみの部屋は聞いているし」
暖炉の照り返しを受けてもまだ青白い彼の面に、僕は心配な思いをつのらせてしまい、後先も考えずまくし立てた。
そんな僕を見て、銀狐はくすくすと笑った。
「いつもと反対だね。いつもは、僕か彼が、きみの顔色が良くないって心配しているのに」
銀狐は軽く吐息を漏らし、身体を投げ出すようにして深く背もたれに凭れかかる。
「平気……でもないかな。こんなに遠いとは思わなかったんだ。少々疲れたよ」
僕は彼を部屋へ送って行こうと立ち上がった。
「お茶を一杯いただいてからにする」
それなら、と僕は頷いて座り直した。彼は我慢し過ぎる人だってもう知っているけれど、彼がここにいたがっているように思えたから。
銀狐は、僕を一瞥するともう何も言わずにじっと目を閉じた。このまま眠ってしまいそうな無防備な様子の彼を、僕は半ば驚いて見つめていた。僕の前で、彼はこんなしどけない様子を見せたことなどなかったから。
暖炉の焔が大きく揺らめき、パチッと薪がはぜる。びくりと彼は痙攣して、目を開けた。
「ああ、危ない、危ない。眠りかかるところだったよ」
眠気を振り払うように軽く頭を振って、銀の髪を掻き上げる。
いつもの彼とは余りに違う疲れきった様子に、僕は眉根をしかめた。
「きみは外交官志望だったよね、法学部を受けるんだっけ?」
油断すると睡魔に負けてしまいそうになるのか、銀狐は唐突に僕に話掛けてきた。
そんなに疲れているのなら早く休めばいいのに。そう思いながらも、着いて早々部屋に引っ込んだのでは心配を掛ける、との気遣いもあるのだろうと、僕は彼のお喋りに付き合うことにした。
そう言えば、夏のカレッジ・スクールの時には志望校くらいで、余り突っ込んだ話はしなかった。
「さすがに法学部は無理だよ。国際関係学部か、政治経済学部辺りかなぁ。まだはっきりとは決めていないんだ」
「そうなの? 結構のんきだね」
意外そうに眉根を持ち上げられ、僕はちょっとむっとして逆に訊き返した。
「きみは? 理系コースを取っていたよね。法学部に進むんじゃないの?」
「僕の志望は政府通信本部だよ。だから大学は数学科に進むつもりだ」
僕は意味が判らなくて首を傾げた。GCHQは、確か、情報収集・暗号解読業務を担当する諜報機関だ。警察畑の彼の家からすると、かけ離れているとも思わないけれど、数学科とどう結びつくのか僕には解らなかった。僕みたいに、国際関連とか、言語関連ならまだ解るんだけれど……。
きょとんとした僕の顔が可笑しかったのか、銀狐は笑いながらその理由を説明してくれた。
「ケンブリッジ大学の数学科には、暗号解読の世界的な第一人者、ハワード教授がいらっしゃるんだ。僕は彼に師事したいんだよ。これからのGCHQは、サイバーセキュリティを強化させていくことになるからね」
その名前を口にする瞬間、銀狐は、いつもはきつく、冷たく人を睨めつけているような金の瞳の目元を緩ませ、嬉しそうな笑みを浮かべた。彼がいかにその教授を尊敬しているか解るような表情だ。僕はそんなふうに誰かのことを語る彼を、少し羨ましく思った。
「銀ボタンくんはね、そのハワード教授の秘蔵っ子って言われているんだ」
不意打ちを食らわせるように、銀狐はつけ加えた。
でも僕は、その事実以上に、彼の瞳に浮かんだ複雑な色相いに驚き、何て言っていいのか判らなかった。
嫉妬、とか妬みとは違う。でも銀狐は大鴉のことが羨ましくて仕方がないんだ。そう思った。自分よりも秀でた者として認めているのに、そのことが堪らなく悔しくて、彼に追いつきたくて仕方がない……。
銀狐は、明々と燃え上がる暖炉の焔に視線を落としていた。焔のように想いは立ち上がり燃え続けているのに、同時に既に燃え尽きてしまったような諦観を宿す。そんな瞳で焔を見ていた。
――僕たちとは次元が違う。
あの言葉は僕に、だけではなく自分自身に向けられたものでもあったのだろうか……。
「お待たせ!」
鳥の巣頭の元気な声に、胸を撫で下ろした。
僕に取って雲の上の人であった奨学生。不慮の事故でその象徴である黒のローブを脱がなければならなくなった銀狐だけど、それでも僕に取って彼は、僕の理想そのものの、知性と品格と威厳すら備えた夢の結晶のような存在だ。
その彼にこんな顔をさせる大鴉という人が、僕にはよく判らなくなった。
僕の知っている大鴉は、いつも子どものように無邪気で、年長者に悪態をついている、自由な鳥なのだ。




