95 秋の気配
秋は忍び足でやって来る
長く伸びる
この影の中に
寮からメインの学舎までの道筋は三通りある。一つ目が奨励されている正規のルート。学舎と他の敷地を区切ってある狭い道を通う。二つ目、川縁の林を突っ切り、フェローガーデンを通り抜ける。このルートが一番の近道。三つ目、フェローズの森の前を通る。僕がいつも利用しているのはこのルートだ。
生徒会の役務が終えた後、鳥の巣頭に、今日はフェローガーデンを通って寮に帰りたい、と告げた。
このルートは寮の手前であの林を抜けなければいけない。林を通らずに迂回すれば却って遠回りになってしまう。今まで、僕が好んでこのルートを取る事はなかった。
鳥の巣頭はびっくりしたような顔をした。
「秋薔薇が見事らしいよ」
「でも……、」
口の中でごにょごにょと何か言っている。
こいつのこういう処が嫌い。僕はもう平気なのに。確かに、あの花の咲くあの時期にあそこを通り抜けるのは、ぼくだって未だに嫌だと思う。けれど、今の時期なら景色だって全然違うじゃないか。
僕はそっぽを向いて歩き出し、鳥の巣頭は慌てて僕を追って足を速めた。
むせ返るような芳香を放ち、色取り取りの大輪の薔薇が咲き誇る。
「ね、綺麗だろ」
僕は鼻高々と鳥の巣頭を振り返った。
「うん」
こいつも、ほっとした様な顔をしている。きっと、僕が凄く嬉しそうな顔をしているからだ。
ゆるゆると進みながら川縁まで出て左に曲がる。薔薇園の終わりは、逆立つ波のように咲く薄紫の西洋ニンジンボクの生垣だ。この垣根を越えると、学校の敷地内の遊休地になる。川縁の道に沿って何もない更地が延々とあの林まで続くのだ。
背の高い紫の大小の波の向こうに彼がいた。
大鴉は、黒のローブも、テールコートも、銀ボタンの並ぶウエストコートさえ脱ぎ捨てて、袖をまくりあげて農夫の様に鋤を振るっていた。
僕と鳥の巣頭は、唖然としてその場に立ち止まってしまった。
僕は、彼の言う『野菜の品種改良の研究』が、農夫の真似事だなんて、欠片も思い付きもしなかったんだ。
「行こう」
鳥の巣頭が僕の背を押し、先に進むように促した。僕はもう一度だけ彼を見遣り、傾いた西日に照らされ赤く染まる彼の背中を、瞼裏に焼き付けた。
鳥の巣頭は何も言わなかったし、訊かなかった。かなり行き過ぎてから、全く関係のないどうでもいい話を喋り始めた。
そして、あの林の入口まで来て一旦立ち止まると、
「どうする? 迂回してもいいんだよ。別に急いでいる訳でもないんだし」
と、念を押すように僕に訊ねた。
「大丈夫」
僕はちょっと微笑んで、鳥の巣頭の手を握った。
夕暮れに染まる木立を吹き抜ける川風は、もうひやりと感じる程に涼しい。短い夏は終わり、直ぐに秋の気配が漂い始める。まだ充分に生い茂る夏の名残りの葉の隙間から、赤金色の木漏れ日が舞う。黒々とした濃い影の伸びる林に出来た、僕たちの寮の子たちが通り抜け踏み固めた下生えの道を、僕と鳥の巣頭も踏みしだいて進んだ。
もう僕は猟犬に追われる、か弱い兎なんかじゃない。
この場所に来て一番に思い出すのは、僕の為に拳を振るってくれた子爵さまのこと。そして、僕の為に甘んじてその拳を受けてくれた鳥の巣頭のことだ。
「ね、もう平気だろ?」
きゅっと繋いでいる手に力を込め、鳥の巣頭に笑みを向けると、こいつも「うん」と、嬉しそうに笑みを返した。
それからも、僕たちはフェローガーデンを通って帰るようになった。時々、備え付けのベンチに座って休んだりなんかもする。僕はもう何年もこの学校にいるのに、ゆっくりと花を愛でることもなかったのだと、改めて気が付いた。
鳥の巣頭がいない時もこの道を使うようになったけれど、さすがに林は通らず迂回して寮に戻るようにしている。鳥の巣頭が心配するからね。自分がいない時、もしフラッシュ・バックが起きたらどうするんだって。
大鴉には遇うことよりも遇わないことの方が多かった。でも、たまに彼を見かけると本当に嬉しくてそれから暫くの間、僕は機嫌が良い。
体調が悪くて、昼過ぎてからやっと学舎に向かったことがあった。
遊休地に作られた大鴉の畑は、もうすっかり畑らしくなって、何かが植えられている。彼のものらしいローブやテールコートはあるのに、肝心の彼はいなかった。この場に彼の姿がないことに半ばがっかりし、半ばほっとしながら、黒々とした土と、そこから顔を出している小さな沢山の芽をゆっくりと眺めた。
彼が何故こんなことに情熱を傾けるのか、僕にはてんで理解が出来なかったけれど、彼が、この何もない土地の一角を何かに変えていく過程を見るのは面白くて、胸が弾む。この小さな葉っぱたちに注がれる彼の愛情を、僕は微笑ましく思い、そして羨ましく思う。
そんな、ほんわりと満たされた気分で薔薇園に入った。
高く伸びた薔薇の葉に隠れるように、黒い革靴が見える。
誰か倒れてでもいるのかと、その奥まった一角に行ってみると……。
大鴉がスヤスヤと昼寝をしていたんだ。雨ざらしの、ひとつだけ忘れ去られたような古ぼけたベンチの上で!
狭いベンチに幼い子どものように身体を丸めて晒しているその無邪気な寝顔を、僕は呆けたように見つめていた。
思えば、こんな近くで彼の顔を眺めるのは初めてだった。
東洋人特有のきめ細かいしっとりとした肌。端正なパーツ。黒い、さらさらとした髪。そしてその髪と同じく、今は閉じられているあの鳶色の瞳を縁取る黒々とした長い睫毛……。
もしも今、この瞼が開いて、彼のあの鳶色に見つめられたら……。
と、そんな想像で居た堪れなくなって、足早にその場を後にした。
フェローガーデンの入口で、幾人かの奨学生とすれ違った。彼を探しに来たのだろうか?
願わくば、彼らが気付かず、彼の眠りを妨げませんように……。
そんな祈りを捧げながら、僕は赤く火照った顔を冷ますべく、ぶんぶんと頭を振った。




