崩れゆく絆(こたつ)
ニャー次郎が自宅に戻る頃には、街灯が煌々と輝いて、天にはオリオン座が昇っていた。彼の瞳も真ん丸く広がっている。
玄関の前で「ミャア」と鳴く。
「はいはい」
セツが玄関を開けてくれた。
「お帰り、おうどん」
ニャー次郎は「ミャ」とセツの足に身体を人擦りする。
この家の主であった河村進一氏が、伴侶セツに莫大な財産とこの豪邸、そして捨て猫のニャー次郎を遺し、この世を去ったのはもう八年も前のことである。息子達もとうに自立しており、盆と正月に孫達を連れてくる以外、碌すっぽ顔を見せやしない。河村氏が逝去してからというものの、この家では一匹と一人暮らしなのであった。
ニャー次郎は居間に入るとすぐに猫語翻訳デバイス(ベルザキャット)を起動する。
「おうどん、あなた、ご飯はいらないの?」
猫語翻訳デバイス(ベルザキャット)を付けたニャー次郎は日本語で答える。
「すまんニャー、セツさん。一仕事、片づけニャならんので・・・・・・」
「わかったわ」
愛猫の気持ちを察したらしく、セツは頷くと台所へと出ていった。
飼い主がいなくなるのを見計らって、ニャー次郎はデバイスを猫ラインにつなぐ。相手は他でもない、旧防衛省長官の天乃森由理子だ。
「もしもし? 天乃森君かニャー? 儂じゃ、ニャー次郎じゃ。忙しいだろうに、急に呼び出して申し訳ないのう」
「とんでもないです。なんでしょうか、司令官?」
「それがじゃニャ、少し調べて欲しいことがあるんじゃ」
ニャー次郎は前足でひげを丹念に拭う。これは頼みごとをするときに出るニャー次郎の癖だ。その様子が伝わったのか、受話器の先で由理子がくすりと鼻を鳴らした。
「もしかしたら、ただの取り越し苦労になるかもしれんニャー」
「いいえ、司令官。あなたの指示に無駄なことなど一つもありませんわ。何より私が無駄にさせません」
「・・・・・・にゃあむ。実は儂が住んでおる街でのことなんじゃが」
「ええ、司令官のお住まいなら存じ上げております。そこで何かございましたか?」
「それがじゃニャ、儂ら猫がこたつで休もうとするのを、どうやら人間が邪魔するらしいんじゃ。無論、儂の家ではそんなことはない。しかし、今日の猫集会におった猫の半数がそう訴えておるんじゃ。この被害の割合を、どうも尋常とは思えんのだニャー。この件がはたしてたまたま儂の街でのことなのか、それとももっと広い範囲のことなのか、探ってもらいたいんじゃ。どうじゃ、やってくれるかニャー?」
「かしこまりました。早速調べましょう」
「急な話ですまんニャー。できるだけ早く頼みたい。どれくらいでできそうだ? 多少大雑把でも構わん」
「全国の猫となれば、四、五日で可能ですね。大まかな数字でよろしければ、三日後には出せるでしょう」
「わかったニャー。やり方は君に一任しよう。ただ、状況によってはすぐにでも対策を練らねばならん」
「そのときは、すぐに連絡いたしますわ」
「ありがとう。助かるニャー。・・・・・・ああ、それとレオニャルドに例の開発を進めるよう伝えておくれニャー。あのアイディアはできるだけ早く試作化し、テストを行いたい。あいつは急かさんと何もせんからニャー。・・・・・・まあ、そんなわけじゃ。よろしく頼んだぞ」
「了解いたしました。それでは失礼します」
ニャー次郎は接続を切ると、猫語翻訳デバイス(ベルザキャット)を外した。そして急いで台所へ向かうと、独り夕食を食べているセツの足に擦り寄った。
クソったれ!! 腐ってやがんぜ、こん畜生が!!
CEOはミルク皿を蹴飛ばすと舌打ちをした。
相変わらず子供達はCEOを入れずにリビングに閉じこもり、飼い主も台所で大笑いしている。
おい、テメ、バカ野郎、ミルク腐ってんぞ、こら。
「ナー」と叫ぼうが、てんで相手にされない。いい加減、CEOの我慢の限界に達しかけている。
「チョコ、あんたを呼んでるよ」
スマホを片手の奥さんの声に、CEOは「ナー『あぁあ』!?」と鬱陶しそうに応え、猫語翻訳デバイス(ベルザキャット)の接続をオンにした。
「俺だ、CEOだ、誰だクソ野郎、名乗れバカ野郎」
「お久しぶりです、CEO隊長。旧防衛省の天乃森です」
「おっと、なんだ、あんたか、由理子サンよぉ。随分と久しぶりだニャ。前の戦争以来か。いったい何の用だ? 今、俺ぁあ、ドタマに来てんかんよぉ、返答次第じゃ、あんたとはいえ、ぶっ飛ばすニャ」
「ご心配なく。司令官直々の調査です。日本猫軍所属の猫を対象とした」
「ふん、なるほどニャ。それで由理子サンが連絡してきたって寸法かい。ニャー次郎(クソ親父)の右腕ってのも大変なもんだニャ。わざわざご丁寧に猫ども相手にご連絡ってかぁ?」
「いいえ、私が直接、話を訊くのは上士官クラスの猫だけよ。一般兵は各方面隊の事務方に任せてあります」
訝しげにCEOを窺う奥さんを目で追い払う。
「で、何だぁ、調査って? つまんねえこと訊くんじゃねえぞ、お嬢さんよぉ」
「簡単な質問です。CEO隊長、あなたは最近こたつでお昼寝をしていますか?」
「こたつでお昼寝?」
「そう、簡単な質問でしょ」
「こたつどころか、夜まで寝てねえよ! ぶっ殺すぞ!」
CEOは吐き捨てるように言った。
「わかりました。質問は以上です」
「由理子サンよぉ、何でこんなこと訊くんだニャ? 俺をキレさせたいのかぁ、あぁっ!!」
「なるほど、事態は深刻なようですね。箝口令は敷かれていませんので、説明いたします。近頃、こたつでお昼寝できない猫が増えていて、そのことを司令官は危惧されているのです。こたつで寝ていない猫の実態把握です。とにかく調査結果ができ次第、CEO隊長にも報告します。それでは」
「ち、ちょっと待った、由理子サンよぉ。あいつらは、ニャンジャーの連中はどうニャー? まさかあいつらまで寝てねえのか?」
「まだはっきりとは言えないけれど・・・・・・。統計的に考えて、半数以上のニャンジャーも寝ていないと予測されます」
「そうか、ありがとよ、由理子サン」
CEOは接続を切ると、俯いて大きく息を吐いた。
あいつらまで寝てねえだとぉ・・・・・・。
ふつふつと怒りが込み上がってくる。虐げられる猫が自分だけではない。しかも、それが自分の部下まで。口を歪ませ牙をちらつかせる。
「ナァーッ『ミルク、腐ってんで言ってんだろが、このウスノロ』!!」
通話を盗み聞きしていた奥さんにCEOは怒鳴った。
由理子に依頼をしてから二日経った夕方、ニャー次郎がセツの膝の上でごろごとと喉を鳴らしていると、突然、居間のスピーカーが「ニャーンニャーン」と呼び出し音を響かせた。猫ラインの通知音だ。
老猫は喉を鳴らすのをぴたりと止めて、むっくりと起き上がるとセツの膝から降り、猫語翻訳デバイス(ベルザキャット)を装着する。
「儂だニャー」
「司令官、天乃森です。先日の調査結果が出ました」
「ほう、これはまた早かったニャー」
ニャー次郎はセツを猫目でちらりと見やる。飼い主は静かに彼を見守っていた。
「いかがいたしましょうか? こちらで報告いたしますか?」
「そうだニャー。天乃森君の報告が予定より早さで、事の大きさを推し量れるのう。儂が直接旧防衛省に出向くとしよう」
「わかりました。すぐにお迎えに上がります」
「ああ、ありがとう。そうじゃニャー、第三猫歩兵団のトーマス・マンテルという猫も連れていこう」
「かしこまりました。第三猫歩兵団のトーマス・マンテルでございますね」
「うむ、儂のご近所さんじゃニャー。よろしくのう」
話を終えると接続を切った。さすが肉球対応デバイス。老猫でも容易く扱える。
セツは心配そうに尋ねてきた。
「おうどんや、また戦争かい?」
「いや、違いますニャー。ちょっとした猫界のトラブルに過ぎませんニャー」
「そうかい。また他の猫のことまで心配して・・・・・・私にはもっと我が侭いってもいいんだよ」
にっこりと微笑むセツの顔に、ニャー次郎は心の底から感謝すると、 彼女の優しい抱擁に身も心も委ねた。