その猫、平凡につき
遠藤ココナは、こたつの裾で真ん丸くなってお昼寝をしていた。ベンガル猫の特徴である渦巻き状の縞模様が暖色のこたつカバーに溶け込んでいる。
「いいねえ、これ、たまんないねぇ」
時々身体をくねらせたりお腹を丸出しにして伸びたりする。しっぽをぱたたと動かし、拳をぎゅぎゅと握って肉球から爪を出し入れする。
こたつ布団がぽかぽかと心地よい。
飼い主である遠藤友子はココナのお腹をつつくことや肉球を摘まむことにすっかり飽きてしまったようで、彼の隣ですうすうと寝息を立てていた。
いや、うん、喉でも撫ではしないかい? なんとも寂しい気持ちになっちゃいますねえ。
友子に擦り寄るがまったくの無視。ニャー、ニャー鳴くも、いい加減「うるさーい」と友子の腕ではたかれてしまった。
そうですか、そうですか、いや、まあ、哀しいねえ。
彼は舌打ちをする。
テレビにはぺちゃくちゃと捲りたてているレポーター。一瞥をくれると、また一つ大きなあくびをクワっとした。モニターには大手家電量販店の行列が映されている。人間社会にさして興味がある訳でもなし、もう一つクワっと大きなあくびをする。
「毎日毎日、人間様も御苦労な訳だねえ、うん」
ココナは横にでんぐり返って友子の傍に転がる。
最後にもう一回、クワっとすると飼い主と一緒にすうすうと寝息を立て始めた。
遠藤ココナは日本猫軍きっての勇猫である。
戦闘名称はミカボシ。
日本において、その名を知らない猫は仔猫ぐらいでしかない。
それはいかなる状況でも常に冷静であるという彼の長所に由来する。沈着冷静に任務を遂行する。いたって単純明快な所以だ。
しかしそれだけの理由で、特殊工作猫隊猫長を務めているのではない。ただの猛者ならニャンジャー部隊にも腐るほどいるだろう。それ以上に日本猫軍でも極々僅かの猫しか持ち合わせていない特性があるのである。
ミカボシはペットボトルを恐れない。
ペットボトルとは、言わずもがな、コーラやらスポーツ飲料やら天然水やらが詰められているあれのことだ。よく小学生が振り回してぽこぽこ叩き合ったり、夏休みの工作でロケットに使っているあれのことである。
ほとんどの猫はキラキラと輝く水の入った透明なプラスチックのペットボトルに、近づくどころか、まともに直視することさえできない。猫達はたっぷり入った水が零れ、いつ自分を水まみれにするか、ボトル内で乱反射した光がいつ自分の目を潰しにくるか、水素原子と酸素原子が互いに反応しあって核反応を起こし、E = mc2のエネルギー放出によって、いつ自分を熱蒸発させるかなどと、その命を脅かすペットボトルにひたすらに怯える。猫達にとって水入りペットボトルはパズスの彫像、メデューサの生首、ソドムの爆煙、視てはならない太陽光なのだ。視れば失神失禁の大失態。恐怖の鏡地獄となる。
人間にしてみれば、この恐怖は取り越し苦労に過ぎない。猫は単なる臆病動物である。と笑うだろう。けれども人間とて高所に上れば落ちる訳でもないのに、言い表すこともできぬ不安に陥るし、決して起こりはしない予言者の虚言に右往左往する。死にいく後の世界にまでぶるぶると震える。人間にとってのそれらの杞憂が猫達にとってのペットボトルなのである。
対猫簡易防護壁は、そんな猫兵達にうってつけの防御装置であった。
このバリケードが初めて実戦運用されたのは対ドイツオオカミ戦である。それは猫の習性を調べ尽くしたドイツの究極作戦であった。
対猫簡易防護壁によりアメリカ犬軍の一〇一部隊に勝るとも劣らぬニャンジャー部隊は不動金縛りの混乱状況へと追い込まれた。その戦いにおける日本猫軍の大苦戦は名猫将軍ニャー次郎司令官の「猫生、約十五年肉球とともに果てるか・・・・・・」覚悟を決めた一言が物語っている。まさに絶体絶命の危機であった。
その窮地を救った英雄が遠藤ココナ、戦闘名称『カツオブシ』。後のミカボシである。彼は独匹、対猫簡易防護壁に立ち向かい、次々と肉球対応散弾銃(猫ツブテ)でペットボトルを粉砕、危機に瀕するニャンジャー部隊を死の淵から呼び戻したのである。
日本猫軍は奇跡の大逆転。ミカボシは名誉の負傷としてペットボトルから返り水を浴びたものの日本猫軍を救い出した英猫として最高の戦闘名称の一つ『ミカボシ』を授かったのだ。
現在では旧防衛省猫兵器開発本部長の名職猫、戦闘名称『レオニャルド・ダ・ヴィンチ』の研究によって返り水を浴びることなくペットボトルを切り裂く猫式ナイフ(グルカ・ニャイフ)、撥水性と通気性に優れたゴアテックス素材による猫式対水服が開発されて、支障なく対猫簡易防護壁という最重要作戦を遂行することができるようになった。(※もっとも対猫簡易防護壁も進化を続け、今ではペットボトルの水が減少すると爆発する爆弾型ペットボトルなども運用されている。ちなみに日本猫軍の所属は旧防衛省である。今更、新しい名称に変えないのも平和憲法への意識の現れなのかもしれない)
ペットボトルへの恐怖は猫兵達への新たな訓練プログラムによって多少緩和され、かつての失神からの戦線離脱ということはなくなった。また特別に集中強化トレーニングを積んだ強化猫達によって特殊工作猫隊が結成。対猫簡易防護壁除去を主な任務とするチームが誕生した。対猫簡易防護壁は克服されうる障害になったのだ。
しかし未だにミカボシほど迅速かつ正確にペットボトルの破壊を遂行できる猫はいない。
なぜミカボシはペットボトルを恐れないのか?
これは日本猫軍並びに旧防衛省らによって研究されているテーマでもある。この謎が解明されれば莫大な費用と時間を要する強化猫の育成の必要もなく、ニャンジャー部隊から猫歩兵団に至るまでペットボトル対応猫兵を配備することが可能となる。究極の猫軍団の実現も夢の話ではない。
だが、現時点で判明しているということはミカボシが仔猫のときから、ペットボトルに囲まれて育てられたきたことのみである。これは天然飲料水ダイエットなるものが流行した折に、ミカボシの飼い主も例に漏れず勤しんだというデータが残されている。おそらく買い占められた天然飲料水が置き散らかされた部屋で彼は成長したと推測されている。けれども同時期に他の女性達、稀に男性達もそのダイエットに励んだはずである。必ずしもこれがミカボシを鍛え上げた要因と言い切ることはできない。
他にミカボシは従来の猫を超えた新しい猫、進化猫類という研究者もいるが定かではない。よく似た例として、宮崎県幸島の芋を洗うサルの一群、線路に置き石をするカラス、計算をする犬のように、同種の動物とは異なった特殊な個体が挙げられるが、オカルトの一線を逸せないこの説は主流となりえていない。
と、このように遠藤ココナ、戦闘名称ミカボシは極めて特殊な猫であったため猫達から一目置かれていたのである。
「ニャッ!」
突然ミカボシはビクッと痙攣し、跳ね起きた。
いやまあ、またやっちゃったねえ。台無しだねぇ。
どうやら夢の中で転んでしまったらしい。
「ココ、どしたー?」
友子も目が覚めてしまったようだ。瞼をこすっている。
ミカボシは肩をすくめると「ニャン」と首をかしげてみせた。
猫達は人間の発する日本語が理解できる。でも猫舌では人間の言葉は発せない。よって猫語翻訳デバイス(ベルザキャット)を装着することで、彼らは人間の言語を話せるようになる。だが「腹減ったニャ」「眠いニャ」「遊んで欲しいニャ」ぐらいの言葉しか普段必要としない彼らは、猫語翻訳デバイス(ベルザキャット)を日常的に装着しない。
「ふうん、あっそう」
飼い猫のそっけない返事を聞き流し、友子は大あくびをした。
ミカボシもクワっとあくびをし、そして右前足で顔を洗う。
友子はスマホを手に取ると、
「あ、ヤバ。もうこんな時間じゃないの。出かけないと」
と急に身支度を始めた。
隣でミカボシはぼりぼりと後ろ足で頭をかく。
「ココ、私、今日、彼氏とデートがあんの」
「ニャ」
「だから留守番お願いねん?」
「ニャーン?」
うん、それな、猫独匹でやることじゃない訳で。
ミカボシは首を横に振ると玄関のドアへと向かった。
「あんたも出かけんの?」
友子は扉を開けてミカボシを外へ放り出した。
やあれ、もう少し優しく扱ってもらいたいねえ。俺も案外デリケートなんだよ、うん、まあ。
そう思うもご機嫌にマンションの階段をちょこちょこ降りた。一塊に着くと、ちょうど友子もエレベーターで降りてきた。そのまま一匹と一人は軽く挨拶をしてお互いに反対の方向へと別れた。
河村おうどんは、縁側で日向ぼっこをしている。
時々目を開いたり薄目にしたりしては日光浴を楽しむ。しゃがみ込んで太陽の光をいっぱいに浴びるこの一時は彼にとって二番目に幸せな時間だ。最幸なのは飼い主の河村セツの膝の上である。
おうどんの戦闘名称はニャー次郎。
戦闘名称の中で頂点とされる名を持つ彼は、日本猫軍総司令官であり、全世界の代理動物で彼を知らない動物(者)はいない。その名を聞いた仔猫は泣きやみ、怒り逆立つ雄猫も縮こまる。そんな猫大将軍、それがニャー次郎だ。
しかし河村家の中では、一ペットとしてのほほんと縁側で小さくなる。猫指令、戦なければ、ただの三毛。一句詠まれた通りのお昼寝猫だ。
猫が代理動物となった今でも、のんびりぐるぐるぐうぐうごろごろすることには変わりない。実際にもっとも忙しい旧防衛省の猫兵器開発部所属の猫でも週休五日、週合計の実働時間は六時間にも満たない。残りは人間職員がサポートする。
「それは怠けすぎだろ。もっと働かせろ」と思うかもしれない。だがこれが日本猫軍の根底にあるペット制という制度の原理なのだ。戦争に赴く、だからのんびりする、の関係。これがペット猫の権利であって、義務である。決してこれが逆であってはならない。
ニャー次郎はずっとうとうとしている。彼の日課だ。晴れの日も雨の日も、暑い日も寒い日も、心地よいところを探してはのほほん。時折目を覚ましては前足で顔を洗ってのほほん。すっかり毛づやも悪くなった体毛を毛繕いしながらのほほん。ご飯を食べてはのほほんするのであった。すでに齢十五を越えた老猫にとって当然といえば当然の日課だ。
たまに飼い主のセツにいびきを聞かれて笑われることもあるが、それでも毎日、日向ぼっこはいい塩梅とまたまたお昼寝をする。
だがお昼寝老猫もいざ戦場となれば、世界にその名を轟かす名将ニャー次郎に早変わりして、存分に采配を振るう。
日本猫軍結成時からの猫兵であるニャー次郎は、若猫のうちから猛猫(猛者)として活躍してきた。彼の三毛模様の体毛の下には数えきれないほどの傷跡が隠れている。参戦した戦場の数、ざっと二十五。生ける猫歴史。歴戦の猛猫だ。
現在は年齢もあり、若かりし頃のように肉球対応式機関銃を片手に単身敵軍に乗り込むような無茶はしなくなった。それでも司令本部で座すだけでは飽き足らず、猫専用独匹戦車(猫タンク)に乗って前線に繰り出しては、若猫以上の活躍を疲労する。彼曰く「老いてますます壮んかニャー」。
彼の才能はただの戦猫に留まらない。権謀術数巧みに操る策士、縦横無尽に駆け巡るニャンジャー部隊を自在に操る様はまさに鬼謀と言えよう。ニャー次郎の策に嵌まった代理動物は数知れない。
しかも猫を引きつけるカリスマ性までそなえている。それは一種のフェロモン、動物の性かもしれない。ところが、彼のフェロモンに惹きつけられるのは雌猫(女)だけではない。発情期真っ只中の雄猫(男)をも魅了して、猫達から熱狂的な崇拝と絶対的な忠誠を得る。猫社会の老獪なる君臨者(猫)。彼の存在が猫全体をまとめ上げ、日本を世界の頂点へと至らしめた。そう言っても過言ではない。
ハードボイルドな性格によって、そのカリスマ性はいっそうと醸し出される。
ニャー次郎は寡黙であった。
だが彼の内面から溢れ出る、部下への優しさと思いやり。時には厳しいこともあるが、心は海よりも深く山よりも高い。その魅力に人間ですら心奪われてしまうこともある。日本猫軍のシンボルであり心の支えなのである。
ニャー次郎は夢見心地に「ぷすぷすぅ」と微かないびきを立てている。
庭では雀が鳴いていた。雀達は踊るかのように跳ね回る。あっち行ってちゅん、こっち行ってちゅん、向こうに回っても一つちゅん。せっかち雀はのほほん猫とは大違いで、忙しそうに飛び歩く。
ニャー次郎はお昼寝に飽きたのか、それとも雀の囀りのせいか、むくりと身体を起こした。部屋に振り向けば、セツはこたつにあたって居眠りをしている。
縁側を降りると庭を横切り塀を越えて河村家を後にした。
庭にいた雀は驚いて飛び立った。
CEOのペット名は今石チョコだ。
CEOは日本猫軍の精鋭部隊、ニャンジャー部隊の隊長である。
ニャンジャー部隊の歴代隊長には錚々たるメンバーが名を連ねる。初代隊長ニャー次郎、現日本猫軍総司令官。二台目隊長故ニャン・ベリー(雌傑(女傑)と謳われた彼女は、ミカボシの活躍のきっかけとなった対ドイツ戦において名誉の戦死)。そして三代目のCEO。
ニャンジャー部隊は戦場において常に最前線に投入される。任務は主に先日の対アメリカ戦のような中央突破や殲滅任務が多く、文字通り敵軍撃破のエキスパート部隊だ。
常に生死の境に接し、日本猫軍の中でももっとも戦死猫が多い部隊であり、アメリカ戦でも十四匹のニャンジャーが名誉の戦死を遂げている。
それでもニャンジャー部隊に憧れ、志願する猫達が後を絶たないのは、やはりニャンジャーになることそのものが猫兵達にとって誇り高いからだ。伊達や酔狂で、壱匹専用猫銃器の中で最高火力を持った猫式バズーカ(猫パンチバズ)を装備しているのではない。
当然、ニャンジャーの隊長であるCEOも、ニャー次郎やミカボシと同じように豪猫に列させる壱匹だ。
CEOの獰猛さは全盛期のニャー次郎をも上回ると噂されている。その性格は猫突猛進の猪(猫)武者。一直線の劇場的性格に好感を持つ猫は多い。戦争時以外でもCEOは隊猫達に兄貴と呼ばれるほど慕われている。
そのニャンジャー部隊隊長は今、大変落ち着かない。とことこと今石家のキッチンを歩き回っている。
テーブルを見上げると「おほほほ」「あははは」と飼い主の奥さんとママ友が大口を開けて笑いあっている。
「ナー」と CEOが鳴くが無視された。
テメエ、無視すんじゃねえよ、バカ野郎。俺の話を聞けよ、奥サンよぉ。でけえ口開けてんじゃねえぞ、ボケナスが。
再び「ナー!」と奥さん達の真似をして口を大きく開いて鳴いてみるが、「チョコ、うるさいでしょ!」と怒られてしまった。
CEOが落ち着かないのはゆっくりお昼寝する場所が見つからないためである。先ほども今石家長男の瑛磨、弟龍飛伊によってこたつで寝ようとしたCEOはリビングルームから追い出された。
CEOがこたつに来て寝ようとするたびに、彼らによって「チョコ、またリセットボタンを押すだろ!」と部屋を締め出される。その都度に首を横に振り「ナーッ!」と鳴くが、彼らは聞いてもくれない。
結局、子供に何を言っても無駄と、CEOはリビングのこたつをあきらめ、キッチンに行ったのだが、そこでも休まることはできない。お昼寝しようにも奥さんとママ友が無駄に大きい尻で椅子を占領し、寝転ぶことすらできなかった。
テメ、クソ、そこどきやがれ、アホんだら。
されど無視。
畜生、ふざけんな、バカ野郎。やってられるか、クソったれ。
CEOは仕方なくキッチンの床で寝ると、今度は奥さんにいきなりしっぽをむんぎゅと踏まれてしまった。
「チョコ、危ないでしょ!」
CEOは「ギニャア!」と叫ぶと、再びとことことキッチンを彷徨う。
あ〜あ、やるせねえなあ、畜生。
ミカボシと同じくCEOの飼い主今石家もマンションだが、彼の場合外出は禁止されている。彼が外出すると室内を汚すからだそうだ。
奥サン、テメエのガキがよっぽど汚えぜ、このダボが。鼻水ずるずるじゃねえか、うすらボンクラめ。
その上、彼の許されている居住範囲はキッチンとリビングしかない。人間によっては猫が部屋を汚すと猫禁止の部屋を設けることがままある。悲しい豪猫CEOに許された部屋は二つしか存在しない。
そんなCEOも普段はこたつで寝ていても、寝ている彼が子供達に悪戯されることはあっても、子供達は文句は言わなかった。だが、ここ最近はなぜか、子供達が寝入ってしまう夜まで、こたつで眠ることができない。
だからCEOは落ち着く場所なくとことこと漫歩いている。
あ〜あ、やるせねえぜ、こん畜生。