紅玉
桜が降る。色鮮やかに舞い踊る。褪せることなど許さぬと、記憶を懐いて咲き誇る。
久方ぶりに、遠目に兄を見た。蜜のような金の瞳を氷に変えて、また一つ、古参の配下の席を空けたようだ。長命で、力も知恵もある妖だった。だからこそ、周囲は困惑を隠せていない。
これは復讐だ。誰も気付かないけれど。己の唯一と引き離された兄の復讐。
兄と彼の人を引き離した配下は、今回で全て。次はきっと、自分自身を屠るおつもりだろう。兄は、己を一番憎んでいる。
兄も、あの人も、何も悪くはないのに。最も罪深いのは、この私。
想いは揃っていた。強さも揺るがなかった。ただ、言葉が足りなかった。そして、私だけが、お二人を繋げられた。
私は、確かに知っていたのに。
あの人を初めて見たあの日を、何十年と経った今も鮮やかに思い出せる。暑い夏の日、蝉の歌声が騒がしかった。
突然、兄が人の子を連れてきた。身形から貧しさが伺える痩せた幼い人の子。
周囲の困惑も気にせず、兄はあの人を構った。名を与え、戦い方を教え、常に側に置いた。
私はそれを、ただ離れて見ていた。
妖の世では兄妹であろうと関係がない。強い者同士を結びつけ、より強い者を生み出そうとする。身体は弱いが、妖力が飛び抜けて強い私は、兄の伴侶候補として、ほぼ軟禁されて育てられた。
格子窓からお二人の様子を眺める。兄の笑みが仮面のようなそれから温かなものとなり、あの人は変わらず幸せそうな笑顔で兄の後を追う。そんな日々を目に映すことが、閉じられた世界で唯一の楽しみだった。
兄の変化を危ぶんだ配下にお二人が引き離されても、私はお二人を見ていた。必要以上に関われぬ呪いをかけられて尚、あの人は兄を見つめていた。兄も同じように、あの人を。離れても、互いを想い合っていた。そして、互いに近付けるよう、努力していた。
けれど、二人共、相手の想いには気付けなかった。気付いていたら、きっと結果は違っていたろうに。
ある時、戦が起きた。そこで私は殺されかけたけれど、あの人に救けられた。その頃にはもう兄の伴侶も同然と言われていたから、兄も私もその気がない、と知りようもない彼はきっと嫉妬していただろうに、一瞬の躊躇いも無く私を救けた。美しく、気高い人だった。
その戦は、我らの勝利に終わる。だからか、勝利に沸く城の者は誰も気が付けなかった。妖を操る毒を仕込まれたことに。恐らく、敵方で育てたという陰陽師が術士だろう。
操られたのは兄も例外ではなく、兄は敵方へ戦を仕掛けようとした。疲弊した兵、策も無く、情報も無い。それでも止める理性を持つ者など居なかった。ただ一人、妖ならざるあの人を除いて。
あの人はたった一人で、敵方に間諜として潜り込み、その命と引き換えに、名高い配下を一人討ち取り、深部の情報を城へ届けた。己の命を対価とし、陰陽師を殺すよう呪いまでかけて。人の身でありながら、呪い(まじない)にも優れた才を持つ人だった。きっと、兄の想いを知っていたら、違う道を選べた程に。
あの日聴こえた慟哭を、忘れることはない。
私は、動くべきだった。周囲の言うがままの人形ではなく、私の意思で、手を伸ばすべきだった。あの二人の言葉を届けられたのは、きっと私だけだったのに。
妖の生は永く、過ぎ去る時はあまりに早い。桜が咲く度思い出す、あの人の死からもう何十年経ったか。今はもう、私に氷ってしまった兄は止められない。復讐を終えた今、兄はあの人の後を追うだろう。そしてまた一つ、私の背負う罪が増えるのだ。
ふと、静かな庭に、慌ただしい足音が近付いてきた。
「――紅玉姫様!」
「何事です」
「は、それが……【橋】で人の子を発見しまして。親元に返そうにも、口を開かないのです」
「……人の子……?」
ざわり、心が揺れる。まさか、と思いながらも、震える唇を開く。
あの人の命日に、あの人と同じ人の子が、【橋】に。
「……それは……どんな……」
「漆黒の髪と瞳をした幼子で……恐らく貧しい家の子供かと。口減らしでしょうか……。ああ、そう言えば、
左耳に、痕があったのです。耳飾りでも着けていたような」
さあ、と桜が風に舞う。ああ、とても都合の良い予感がした。震える声で、目の前の若い妖に問う。
「その者の……名は?」
「は、そう言えば、名は名乗っていました。確か……、
黒曜、と。」
確信した。間違いない、と直感が叫ぶ。ふふ、と声が漏れた。
妖が心配そうに駆け寄ろうとするのを手で制して、兄の元へ連れて行くよう告げる。戸惑ったようだけれど、命令と言えば黙って従った。
誰も居なくなった庭で、一人笑う。雫が桜と共に風に踊った。……嗚呼、まるで夢のように都合の良い。
笑いながら、桜の下でくるくると踊る。身体がいつもより軽い。やっと、罪を赦された気がした。
「今度こそ」
うっとりと呟く。今度こそ、兄はあの人を離しはしないだろう。喪った時があまりに長すぎて、その想いの重さは想像だけで震えがくる。その重みがあの人を苦しめた時は、私が逃げ場になろう。今度こそ、見るだけでなく、あの温かい光景に己も入るのだ。
桜の雨が降る中で、真白な髪をなびかせながら、紅玉の瞳の姫君が艶やかに笑う。
そうして、舞い降る桜の中、黒曜石色の少年と、白銀の青年は再び出逢った。
零れる雫は歓喜の涙。それらを見つめる桜は、笑うように枝を揺らした。