あの日、きみと水族館で 2
何かの風切り音と同時に大水槽のアクリルパネルが砕け散り、わずかに遅れて様々な音が聞こえてきた。パネルが砕けた音、大量の水が流れだす音、破片が水の中へと落ちる音、そして複数の悲鳴が耳障りなハーモニーとなって非日常の始まりをけたたましく告げる。
とっさにおれは工藤をかばったが、このままここに留まっているわけにはいかない。彼女の手を引き「走るぞ」と叫ぶなり、おれは駆けた。
階段までたどり着き、フロアひとつ分上ってしまえばさすがに水はやってこなかった。事態が飲みこめず顔面蒼白になっている工藤に、何度もゆっくりと深呼吸させる。その間にも続々と逃げてきた人たちがやってきていた。
二階は吹き抜けになっており、下の様子が一望できる。ひどい有様だった。床の上を大小の魚たちが泳いでおり、逃げ遅れた人が柱に抱きついて助けを求めていた。あちこちの水がちかちかと乱反射しているのは、水の中を漂うパネルの欠片にライトが当たっているせいだろう。
次第に工藤は落ち着きを取り戻し、かすれた声でおれに言う。
「これ、何なんですか。センパイ、どこにも行かないでください」
おれが着ているポロシャツの胸のあたりをぎゅっと握りしめ、すがりついてくる工藤に優しく言い聞かせる。
「大丈夫、ちゃんと一緒にいるから」
水の流出はようやく止まったみたいだが、パネルの欠片や様々な魚が浮いているため戻るのは危険だ。修介と智也を捜すため、上の階から迂回することにした。
電気系統は無事なのか非常電源のおかげなのか、まだ停電はしていなかった。それでもおれは警戒心を解かず、慎重に進んでいく。工藤は痛いくらいにおれの手をつかんで離さずついてくる。濡れたジーンズがやたらと重く感じられて仕方ない。
いったい何が起こっているのかもわからなかった。事故か、テロか、自然災害か。とはいえ考える材料がまだほとんどない以上、まずは二人との合流に集中すべきだろう。
あちらこちらからパニックになった人の金切り声や、子供の泣き声が聞こえてくる。非常にまずいことになっているのだけは疑いようもなかった。
混乱した状況のなか、ピンポンパンポンとこの場にそぐわない、間の抜けた音がスピーカーから聞こえてきた。
「館内の皆様に緊急のご連絡をいたします。さきほど一階の遊覧エリアにおきまして、不測の事故が発生致しました。原因はまだ判明しておりません。現在、係員が安全なエリアへの誘導を行っております。慌てず係員の誘導に従って避難していただきますようお願い申し上げます。繰り返しご連絡いたします……」
一階部分がめちゃくちゃになっているせいで簡単に外には出られないから、しばらくは上のフロアに避難してくれということか。
前方には今の館内放送を聞いて荒れている男がいた。どうにもなじみのある声とシルエットだ。
「くそっ、どうなってやがんだ! さっぱり意味がわかんねんだよっ!」
少し距離はあったが、おれは腹から大声を出して呼び止めた。
「修介! 智也! 無事だったか」
二人もこちらに気づく。
「茅紗、それに航も! とりあえずは一安心だな」
お互いに駆け寄ってまずは無事を確認しあう。
「にしても、どうする。しばらくは外への避難は無理っぽいよ」
いつでも論理的な智也はやはり冷静だった。おれは傍らでまだ怯えている工藤を安心させるように、肩をすくめて「ノープロブレム」とおどけてみせた。
「大丈夫だろ。係員が避難誘導しているみたいだし、その指示通りに動くのがいちばん安全なはずさ。な、工藤」
そう言って微笑みかけると、ようやく彼女も弱々しい笑顔を返してくれた。四人揃っている方が心強いのは確かだ。
さすがに今は修介も噛みついてこなかった。大事なのは工藤を守ること、それは修介もおれも変わらない。
順路を逆にたどり、コーナーを曲がると係員の姿が見えた。罵声も飛び交う不穏な空気に気圧され、今にも泣きだしそうな表情をしている。大学生のアルバイトなのだろうか、年齢はおれたちよりも少し上に見える痩せ気味のお兄さんだ。
「すいません、落ち着いてください! 避難エリアはこの先ですので、どうかそちらへお願いいたします!」
焦っているせいかひどく汗をかいている。
なぜか彼から目を離せないでいると、おれの前を歩く智也が振り返った。
「どうかしたの」
「いや、あの人も仕事とはいえ災難だったなと思ってさ。運がない」
「はあ? ついてないのはこっちも一緒だろうが」
そう言って修介も話に入ってきた。ま、言われてみればそりゃそうだ。
それでも客の誘導、怒れる客への謝罪、インカムでの連絡とすでに己のキャパシティを超えてしまっている様子の彼には同情してしまう。
手を握ったままの工藤に「航センパイ」と先へ急ぐべく促される。ようやく件のお兄さんから視線を外そうとしたとき、おれは異変に気づいた。
突然、彼の全身が尋常じゃないほどの痙攣を始めたのだ。これまで目にした経験のない、あまりに異様すぎる引きつり方に、詰め寄って文句を言っていた客も慌てて後ずさりしている。
きゃあ、という叫び声が上がった。どうにかして彼を助けてあげたいとは思っても、どうすればいいのかがわからない。
周囲が呆然としている間に、彼の体に今度はゴルフボールくらいの赤い腫れ物ができはじめた。最初は頬骨のあたりに、次は手の平、その次は首筋。彼が着用していた新納マリンパークの制服はあちこちが破かれ、その破れ目にはまたゴルフボール状の腫れ物が現れる。肉体の表面を覆い尽くした赤いゴルフボールはさらに増え続け、ボールの上にボールを積み重ねていく。ねずみ算を実地で検証させられている気分だった。
もう手遅れなのだと理解するのに時間はかからなかった。おれだけでなく、この場に居合わせた誰もが同じ感覚を味わっただろう。
「見るな!」
おれは工藤を強引に引っぱり寄せ、彼女の視界を手で奪う。おそらくは見るに堪えない光景になるだろうから。
やがてゴルフボールのいくつかが野球のボールほどに肥大していく。そうして最期はあっけなく、たくさんの風船が割れるような破裂音をたてて彼は死んだ。あたり一面は血まみれになり、おれたちの服にも複数の赤い染みが飛び散っていた。
こうなればもう避難誘導も何もあったものではない。意味をなさない叫びと嗚咽と怨嗟の声が大方の人間の理性をかき消していく。とてもじゃないがもう収集がつきそうなレベルをはるかに超えていた。
しばらくして、暫定的に呼称された伝染病NNBFの最初の犠牲者が彼だったのだとおれたちは知る。