あの日、きみと水族館で 1
七月二十六日、晴天。恐ろしく暑いのを除けば絶好のデート日和なり。
「もうほんと、楽しみすぎてあんまり眠れなかったんですよねー」
「おいおい……体調がよくないようならすぐに言えよ?」
「心配ご無用、大丈夫です。むしろ調子がよすぎるくらいなので。今ならわたし、中学新記録だって狙えるんじゃないかと」
炎天下でチケットを買うのに三十分以上も並んだにもかかわらず、私服姿の工藤はすこぶる上機嫌ではしゃいでいた。
新納マリンパークなる二ヶ月前にオープンしたばかりの水族館に、おれと工藤は二人で遊びに来ていた。いや、広義に捉えるなら四人なのだろうか。
「そういや工藤、後ろのあいつらはどうするん──」
「あれセンパイ、誰か知り合いの方でもいらっしゃったんですかあ? わたしにはぜんっぜん、知っている顔は見当たりませんけど」
おれに最後まで話させず、笑顔を崩すことなく工藤は言い切った。
ここへたどり着くには電車で最寄りの駅から一時間近く、まずは新納市の中心部にあるターミナル駅まで出てそこで乗り換えなければならない。その間ずっと冷房の効いた車内でこそこそと動いている、不審な少年二人組は嫌でも目についた。
言うまでもなく修介と智也だ。大方、工藤とおれが二人きりで新納マリンパークへ出かけると知った修介に、人のいい智也が巻きこまれたといったところだろう。とりあえず尾行の技術としては最低の部類に入る。
開館以来、カップルに人気のデートスポットとしての地位を瞬く間に獲得したのがこの新納マリンパークなのだが、建設中の段階から工藤は「航センパイと行きたい」を連呼していたのだ。
ずっと真っ直ぐな好意を寄せてくれている彼女に対して何もはっきりさせることなく、とうとうおれの卒業まで半年を残すだけになってしまった。居心地のいいぬるま湯につかって甘えていたようなものだ。どうしようもない男だな、と自分でも思う。
だからこそ工藤を誘った。
そして、おそらくはこれが彼女との最初で最後のデートになるのだろう。
◇
建物内を螺旋状に構成されている展示は様々な工夫が凝らされていてなかなか見飽きないものだった。
隣で楽しそうにしている工藤がいつにも増して可愛らしく思え、情けなくもおれの心はまた揺れる。付き合うべきか、振るべきか。いまだに決めかねていたが、それでも今日中にケリをつけなくてはならない。
そのためにはまず尾行を続けている二人組をどうにかする必要があった。
順路の半ばには映画館のスクリーンのようなアクリルパネルで構成された巨大な水槽があり、その前には落ち着いて鑑賞できるようたくさんの椅子が用意されている。この館内の主役と言っていい。
近くにはお手洗いも設置されており、おれを椅子で待たせて工藤はそちらへと小走りで向かっていった。そのタイミングを逃さず、曲がり角で様子をうかがっている修介と智也のところへと早足で近づいていく。
「おい」
声をかけたおれを見て、二人はなぜか慌てふためいている。まさか自分たちの尾行がバレていないとでも思っていたのだろうか。
「な、何だよ。男二人で水族館に来ちゃ悪いってのかよ」
修介の返答にはさすがにあきれてしまい、現実を端的に教えてやることにした。
「最初から気づいてたぞ。工藤の徹底無視の方針に従っただけだ」
「やっぱりね。だから止めようって言ったのに、ほんと修介は茅紗ちゃんのこととなると周りが見えなくなるから」
同じくあきれはてたような智也がため息をつく。
ここから出て行け、とはわざわざチケットを買った二人には言いづらい。もう少しマイルドなお願いを選択することにした。
「申し訳ないんだけど、ちょっとばかり距離をとってくれないかな。今みたいな感じだと見られている気がして、さすがに突っこんだ話がしにくい。わかるだろ?」
「そんなこと言っておまえ、こっそり茅紗と手とかつないだりするつもりじゃないだろうな。ダメだダメだ、おれは絶対認めんぞ!」
場所をわきまえず駄々をこねる修介に、周りの入場客たちがちらちら視線を送ってくるのが伝わってくる。近くにいるおれたちと同い年くらいのダブルデートらしき四人組も、明らかにこちらを指差して笑っている。一人の女の子だけ周りを止めさせようとしているのには是非ともお礼を言いたい。
恥ずかしくなってきたのだろう、素早く智也が助け船を出してくれた。
「こんなところで航と言い合いなんかしてたら修介、二度と茅紗ちゃんがしゃべってくれなくなるんじゃない? それに手をつなぐだけなら特に問題ないでしょ。それ以上のことにならないだけマシと思わなきゃ」
「それ以上のことって、おま……おま……」
「こらこら! 何を言いだすつもりだバカ野郎」
「ち、違うわ! おまえって言おうとして言葉が出なかったんだよ!」
「どうだか。何だかんだで修介に比べたら航の方がまだいくらか紳士だし」
「いくらかって何だよ。言っとくけどな智也、おれは日本屈指のジェントルマンだと自負してるぞ」
「ですよねー。航センパイ、こんな可愛い女の子といるより男子同士くっちゃべってる今の方が楽しそうですもん」
おれたち三人は一斉に振り向いた。そこにはいつの間にか工藤がお手洗いから戻ってきていた。
「そちらのお二人はセンパイのおともだちですかー? どーもー、初めましてー」
軽やかな口調の冗談とは裏腹に、工藤の目はまったく笑っていない。
修介はといえば面白いくらいに狼狽している。そうはいっても、彼女の口ぶりだとおれも非難の対象に入っているのだ。他人ごとではなかった。
そろそろ潮時だと判断したか、ぽん、と智也が修介の肩を叩く。
「もう気がすんだだろ。行こうか。茅紗ちゃん、邪魔して本当にごめんね」
「智也さんが謝る必要はありませんって。どうせ無理やり誘われたんでしょうし」
うなだれたままの姿勢で修介は固まっていた。足取り重く去っていく丸まった従兄の背中に、工藤はさらなる追い打ちをかける。
「すいませーん、そこの人。近日中にお話がありますんで、逃げるなよ」
最後の「逃げるなよ」だけやたら声が低い。どう考えても死刑宣告だ。おそらくおれもこれから責められることになるのだろう。
右手を腰に当てていた彼女が、そのままの姿勢でくるりと綺麗なターンをしてみせる。
「さて、と。航センパイ、さっきのお話の続き、しましょうか」
よけいなしゃべりを挟まず、さっそく矢が飛んできた。
努めて柔らかい笑みを浮かべたおれはどうにか無駄な抵抗を試みる。とりあえずすべての責任を修介へ押しつけておこう。
「続きっつってもなあ。邪魔することしか頭にない修介のアホを諫めてただけだぞ? 別に工藤をほったらかして盛りあがってたわけじゃないって」
「そうですかね。今日だってときどき、センパイが無理しているような気がして……。一緒にいられて嬉しいのはわたしだけなんじゃないかって」
「んなわけねーだろ。考えすぎだ。だいたいな、いつもみたいに疲れるほどバカ騒ぎするのだけが楽しみ方ってわけじゃないんだから」
そう言って思わず彼女の頭に手を乗せてしまった。
工藤ははにかみ、セットしてきた髪が乱れるのもかまわず、おとなしく撫でられるままにしていた。
「わたし、本当に本当に、今日のこと楽しみにしてたから、ついそう思っちゃうのかもしれないです」
このいじらしさが彼女の素だとしたなら、いまだ迷っているおれはへたれの中のへたれ、本物のアホだ。
抱きしめたい衝動に駆られるほど可愛いと思ってしまう。嘘じゃない。ぎゅっと強く、彼女がバラバラになって崩れ落ちていくほどに。
わかってはいるんだ。お互いに好意を抱いているのであれば気楽に付き合えばいいだろうし、おれだってそれができればいちばんいいと思っている。たかが中学生同士の恋愛で神経質になるんじゃない、大人なら誰もがそんなふうに笑い飛ばすに違いなかった。
でもダメだ。間違いなくおれではいつか工藤を悲しませてしまう気がする。彼女がどうこうではなく、胸の中の奥深くに巣食っている暗い予感が踏みこむべき足をためらわせるのだ。どのみち傷を負わせてしまうなら、致命傷よりは浅い方がいいに決まっている。
そう心に言い聞かせた瞬間、圧倒的な力によっておれたちの運命はとんでもない方向へとねじ曲げられた。