喉元にナイフ
アトリウムの入口付近、視線の先に立っていたのは市ノ瀬だった。どうやらドアを力いっぱい蹴り開けて入ってきたらしい。
突然の出来事におれたちの集まりだけでなく、まばらな他のグループも市ノ瀬を注視している。大股の早足でこちらに歩いてくる彼からは不機嫌オーラが全開だ。その後ろには走って追いかけてくる智也の姿が確認できた。
「待って、落ち着きなよ市ノ瀬」
「やかましい! これが落ち着いていられるかよ!」
市ノ瀬はそう叫んで、肩にかけられた智也の手を払いのける。
尋常な剣幕ではなかった。いったい、何があったというのか。
黙ったまま市ノ瀬はおれの近くに座りこむ。続いて智也も適当な場所に腰を下ろした。慌てて市ノ瀬を追いかけてきたのだろう、智也の拘束ローブは半ば脱げかかっている。
とりあえず話を聞かないことには何も始まらない。
「市ノ瀬でも智也でもいい、とにかく説明を頼む」
静まりかえった中、努めて事務的におれは短く口火を切った。周囲の連中も含め、みんなが市ノ瀬と智也の顔を不安げに見守っているのが伝わってくる。
悪い予感というのはだいたい当たるものなのだ。おれたちNNBF感染者は頭ではなく、皮膚感覚でそれを嫌というほど理解していた。
口を開こうとした智也を市ノ瀬が手で制し、深呼吸をしてから話し始めた。
「見ろよ、これ。まだ震えてるだろ」
そう言って自分の右手を前へと差しだす。市ノ瀬の言う通り、傍目にもわかるほどひどく彼の手は震えていた。
「事実から話す。一昨日、五十三日ぶりに発症者が出た」
腑に落ちた。
先ほどの会沢医師の口ぶりから、何ごとかが起こったのは覚悟していた。それでも内心の動揺は抑えきれず、一気に喉から水分が失われたような錯覚を起こした。
ある程度予測できる状況にあったおれですらこの有様なのだから、他の連中が受けた衝撃は察するに余りある。ショックを受けたのは市ノ瀬や智也だって同様のはずだ。
気持ちを奮い立たせ、できるだけ冷静に話を進めなくてはならない。
「その人は……どうなった」
「これまで通りさ。発症して間もなく死んだってよ」
「誰も知らなかったその情報はどこから」
「ついさっき、会沢から無理やり引きだした」
この返答にはさすがにおれも少し感情を乱してしまう。
「おい! おまえ、まさかと思うが会沢医師に対して乱暴なことはしちゃいないだろうな!」
「西崎、見損なうなよ。ただ、会沢も含めてあいつらは信用できねえ……!」
唸るような低い声を吐きだした市ノ瀬の顔が一段と紅潮してきているのは、いったい何に対する怒りのせいなのか。
おれはそれとなく智也に視線を移し、抜け落ちている部分のフォローを求めた。
気づいた智也が目配せで了解の意を示す。彼はただ単に学業の成績だけが優秀なわけではないのだ。
発言の許可を得るように智也が片手を上げ、不満そうな表情の市ノ瀬に構わず一同に向かって淡々としゃべりだした。
「いきなりのことでみんな混乱しているだろうから、順序立てて説明していくよ。まずは発症者の存在を知るに至ったいきさつを」
そこからの智也の話の概要──しばしば相槌代わりに市ノ瀬が毒づきながら──は、時系列に沿った、非常にわかりやすいものだった。
大まかにまとめると以下のような経緯になる。
今朝、市ノ瀬と強引に連れていかれた智也の二人が第四病棟へ顔を出そうとした。ここまではすでに聞いている。
問題はその途上に発生したという。いつもならすんなり通れるはずの病棟間の通路が封鎖されていたそうなのだ。
特殊な検査のため、と言い張る警備の人間と「通せ」「通せない」「どういうことなんだよ」「一切話せない」の押し問答になったあげく、らちが明かないと見切りをつけた市ノ瀬は別の場所へと足を向けた。会沢医師の診療室だ。
智也が制止するのも構わず、市ノ瀬は強引に事実の開示を彼女に迫ったらしい。それがつい先ほどのことだそうだ。おれとは入れ違いになったわけか。
「どうしても言えねえってのならそれはそれでいいさ。感染者全員にあることないこと吹聴して不安をがっつり煽ってやる。そのうえで数にものを言わせて中央棟を力ずくで占拠する。ここでおとなしく教えてくれれば、おれだって統制を乱しはしない。どちらか好きな方をあんたが選べ」
交渉とは呼べないほどあからさまな恫喝に、結局は根負けした会沢医師が折れることとなる。
「七月五日早朝に第四病棟の十三歳男子が発症し、苦しんだ末二時間後に死亡。昨日緊急ミーティングが開かれてその事実が全セクションに伝えられた。詳細は現在解析中、キミたち感染者に情報開示がなされるかは今後の進展次第。知っていることは以上ですべてよ」
会沢医師の説明はいたって簡潔ながら要点をまとめており、これをもって市ノ瀬も引き下がらざるをえなかった。
〈ユキザサ〉上層部の方針として「感染者たちへの説明時期はまったくの未定」だったらしく、市ノ瀬が疑念の矛先を向けているのもその点に対してだった。
「あいつらは絶対隠す気でいたんだ。間違いない」
智也が話し終えても、いまだに市ノ瀬から噴き上げる火のような怒りの気配は消えていない。
市ノ瀬の推測が正しいかどうかはともかく、まずはこの場にいるみんなが気持ちを整理する必要があった。
誰もが黙りこくって伏し目がちになっていたとき、おれの耳が小さなささやき声を意外なほどはっきりととらえた。
「あれ、どしたのフーカ。眠いの……?」
声がした神谷の方へと何とはなしに目をやると、三輪さんが隣にいる神谷の肩にもたれかかっているのが見えた。三輪さんは目をつむっている。
そしてそのまま神谷の肩から後ろへ滑り落ち、無抵抗な体が床へと強く叩きつけられた。
「ちょっと! ねえフーカ!」
慌てて神谷が三輪さんを抱え起こした。
沈黙に支配されていた空気が再びざわつきはじめ、市ノ瀬やおれたちが三輪さんのそばへと急いで寄っていく。
「──熱い」
放心したかのような表情で神谷が呟いた。
「ねえっ、熱いよ! フーカの体がすっごく熱いんだよ! 何なの、どうすんの、どうすんのよこれ! 誰か助けてよ! ねえってば!」
最後には泣き声混じりになっていた神谷の叫びがアトリウム内に反響する。