会沢遥の願いごと
三輪さんが出ていって、診療室には会沢医師とおれとが残された。とりあえず三輪さんのことは気にかけておき、何らかの変化に気づいたらすぐ会沢医師に相談すればいい。そう考えておれはどうにか自分を納得させた。
無菌室かと思うような生命感のない室内は遮光カーテンで半分に仕切られており、投薬の際に使われるスペースを入口からのぞくことはできない。
薬品はこれまたロックのかかる棚にしまわれているし、ふてぶてしいデザインのニワトリ──目つきが悪く体型もでっぷりしている──が描かれた会沢医師お気に入りのコーヒー用マグカップ以外に、人の痕跡というか温もりを感じさせるものがおよそ見当たらない部屋だった。これでは「軽く雑談でも」というにはなかなか敷居が高い。
改めておれは挨拶をする。
「今日もよろしくお願いします」
「じゃ、はじめよっか」
会沢遥医師、二十六歳。アメリカで医学を学んだという彼女には、ショートカットと呼ぶには少し長めの髪型がこよなく似合っている。いや、きっとロングヘアーでもよく似合うに違いない。黒髪も似合っているし、眼鏡もそう。知的な雰囲気にもかかわらず、時として見せる行動力やタフさはおれにとってまさしく大人の女性そのものだった。
当初、この〈ユキザサ〉において感染者と接する者は防護服が必須とされていた。しかし会沢医師は「発症していない感染者から伝染することはない」という仮説を打ちだし、勇敢にも自ら防護服を脱いで治療にあたることによってその仮説の証明をしてくれた。
〈ユキザサ〉にいるおれたちNNBF感染者はみんな彼女に感謝していた。自分の身体を張った彼女のその行動がなければいまだに囚人のような軟禁状態だったことだろう。おれたちにある程度の自由が与えられたのはひとえに彼女のおかげだ。
「どうしたの? いつもみたいにさっさと服を脱いで」
「あ、はい」
聞きようによってはどきどきする言い回しにおとなしくおれは従う。例の拘束ローブや下着のシャツを脱ぎ、裸になった上半身を会沢医師はすぐ手で触れてきた。
「そういえば明日は七夕ね。もう願いごとは書いた?」
「別にみんなと変わりませんよ。それとも『素敵な彼女がほしい』とかの方がよかったですかね、ネタ的に」
ほとんど挨拶がわりのような彼女の質問に、あえて茶化した答えを返す。
「何言ってるの。キミの場合、望めばすぐに叶いそうじゃない」
それは違う、とむきになってしまいそうなところをどうにかおれは押し止めた。
ここには間違いなく感染者と非感染者との間に壁がある。一瞬先には弾け飛んでしまうかもしれないおれのような存在など、いってみれば世界の異物のようなものだ。そんなやつが普通の幸せじみたことを願うだなんて滑稽にもほどがある。
たぶん、おれは自分が望んだ何かを手にする可能性を、心のどこかですでにあきらめてしまっているのだ。
あきらめ切れずにしがみつくのは、とてもしんどいことだから。
ただへらへらしたまま何も返事しないでいるおれを見て、会沢医師が「望むこと、願うことは思いもかけない力になってくれるものよ」と口にした。
「だから私も願ったの。NNBFを必ず根絶させたいって」
アトリウムの笹のどこかにぶら下がってるはずよ、といたずらっぽく笑っている。まるで夢物語の類だった。それでも彼女なら、と思わせてしまう力がその目にはしっかりと宿っていた。
注射器を取りだした会沢医師がシリンジを軽やかに弾く。
「そのためにはみんなで何が何でも生き延びなきゃ、ね?」
◇
投薬を終えたおれは少しの間、会沢医師と雑談を楽しんでいた。
妙なことに、すでに約束の時間であるにもかかわらず智也がまだ姿をみせていない。きっちりとした性格の彼にしては珍しいことだ。
「うーん、いつもぎりぎりの航くんが早くやってきて、逆に智也くんが遅刻するなんてね。あべこべだな」
そう言いながら彼女はデスクの上方へと視線を向ける。いつもは意識を向けることもなかったせいで気づかなかったが、そこにはさほど大きくないモニターの画面が据え付けられていた。
一定の周期で廊下を映しだす画像の角度が四回替わる。
「あー、これでおれが来たのもわかったんですね。なんだ、てっきり声だけで判別してくれたのかと」
そこまで言ってからひとつ思いあたったことがあった。するとキャスターのついた椅子をくるっと回し、今日いちばんの笑顔を見せつつ会沢医師が先回りして答えてくれた。
「こけてる姿はちょっぴりチャーミングだったよ」
やっぱり見られていたのか!
恥ずかしさのあまり、思わず顔を両手で覆ってしまった。
「あれ、私としては褒めたつもりだったんだけどな。やっぱり男の子は可愛いなんて言われても喜ばないんだね」
「いや、こけたことよりむしろ、その直後の取り繕おうとする自分の行動を思い出してしまって……て、言わせないでくださいよ」
「はは、ごめんごめん」
愉快そうに白い歯を見せていた会沢医師だったが、その表情からすぐに笑みが消えて真顔となる。
三輪さんのことも気になるし、そろそろ辞去するべく立ちあがろうとしていたおれに向かい「ねえ航くん」と呼びかけてきた。
「キミたちはいつも元気だよねえ」
その言葉の意図がわからないおれは中腰のままで「はあ、それだけが取り柄みたいなもんですから」と曖昧に頷く。
彼女は静かに首を横に振った。
「ここでは最も大事なことだよ。はっきりとはまだ言えないけど、、おそらくキミたちはこれからショックなことを聞かされると思う。でもそこで思考を止めてしまってはだめ。前を向いて、自分に何ができるかを考え続けて。この煉獄から抜け出すために」
それっきり、会沢医師は何も話さなかった。部屋の奥へと踵を返し、コーヒーメーカーを置いてある棚へと歩いていく。その背中が質問を受けつけるつもりのないことを雄弁に物語っていた。
彼女が操作したコーヒーメーカーが音をたてて豆を挽きだすのを、荒野に一人投げだされたようなおれはただ黙って聞いているしかできない。