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幼なじみ

 病棟の先端にあるアトリウムから、担当医である会沢遥医師が待つ一階の診療室へ向かう途中に、両隣の病棟へと繋がっている分かれ道がある。

 今日の午前中に会沢医師の診療と投薬を受けなければならないのはおれと智也だ。なのに市ノ瀬のやつが智也を強引に隣の第四病棟へと引っ張っていってしまったおかげで、おれは会話する相手もなく手持ち無沙汰なまま廊下を歩いていた。


 なんでも「誰か別の男の子も連れておいでよ」と第四病棟の女子たちにお願いされたらしい。ちなみに市ノ瀬いわく、向こうは「北高のお姉さま方」なのだそうだ。それでやつが選んだのが智也だけというのは何とも釈然としないが。


 市ノ瀬環の姿が見えなくなったと思えば、まずどこか女の子のところへ遊びに出かけているとみて間違いない。中学の頃は成績優秀というのみならず、所属していたバスケットボール部においても市の選抜メンバーに名を連ねるほどの実力の持ち主だったと坂本から聞いている。陸上部で大した成績を残せなかったおれとはレベルが違う。残念ながらさぞかしモテていたことだろう。


 かつては他の病棟への出入りは厳しく禁じられていたものの、収容されている人数が激減した今ではそのあたりの規定もだいぶ緩くなってきている。

 かといって病棟間を大っぴらに行き来しているなんてのは、おれが知るかぎりやつくらいのものだ。


 自分に割り当てられた病棟だけで生活が完結してしまうため特に用事がないのはもちろんそうなのだが、心にこれ以上の負荷をかけたくない、それがいちばん大きな理由でもあっただろう。他の病棟の実情に触れるということは、つまりより多くの死に触れることと同じであり、とてもじゃないがおれ程度のキャパシティではもう受け止めきれないのだ。

 おそらく他のみんなだって内心は似たり寄ったりではないだろうか。


 とりとめもなく、ぼんやりとそんな考えごとをしていたせいで何かに蹴つまづいてしまった。見ればリノリウムの床を動き回る自動の掃除ロボットだった。

 とっさにあたりを見回したが人の気配はない。目撃者が誰もいなかったことに安心しておれは体裁を整え、再び廊下を進んでいく。目的地である会沢医師の診療室はもうすぐそこだ。

 約束の時間には少し早いが、遅刻するよりはずっといい。


 あと数歩というところまできたとき、不意に診療室のドアロックが解除され、音もなく扉が開かれる。

 誰も先客はいないはずだったのに中から一人の少女が出てきたのだ。市ノ瀬の幼なじみである三輪風花、彼女とおれの目が合った。


「あれ? 三輪さんの投薬はたしか昨日だって言ってたよね。どうしたの?」


 彼女はぶんぶんと首を横に振って「別になんでもないから」と言うばかりで答えてくれない。代わりに部屋の奥から答えてくれたのは会沢医師だった。


「こらこら、まるでこの部屋は人がいなくて当たり前みたいな言い方じゃない。ずいぶんね、航くん。キミたちに少しでも体調の変化があればもちろんのこと、雑談だけでもいいから私としては気軽に足を運んでもらいたいんだけど」


 会沢医師は誰が来たのかを確認することなく、先ほどのやりとりだけでおれの来訪を言い当てる。

 おっとりとして柔らかい三輪さんの声とは対照的な、冗談めかしていても頭の回転の速さを感じさせる、わずかながら鋭さを含んだ声だ。


「風花さんは用事があってもなくても、こうやってときどき遊びにきてくれるのよねえ。誰かさんたちと違って」


 棘はあるが嫌味ではない会沢医師の言葉に、三輪さんが今度は大きくうなずいている。

 いつだって三輪さんはあまり多くをしゃべらず、にこにこしながらみんなの話を聞いている、そんな人だ。初夏の雲みたいなふわりとした笑顔で。何というか、彼女の笑顔には「生きた心地」がするのだ。


 幼なじみである市ノ瀬のことを三輪さんは「タマちゃん」と呼ぶ。あの男にはあまりに不釣り合いな可愛らしい呼び名に、彼女たちと出会って間もない頃の修介やおれなどは聞くたびに大笑いしていたものだ。

 今から考えると恐ろしくデリカシーに欠ける行為だったのだが、そのたびに三輪さんは菩薩のような微笑みを浮かべながらゆっくりこう答えてくれた。


「だって、タマちゃんは、いつまでたってもタマちゃんなんだもん」と。


 おれはそんな三輪さんが傷つくところなんて絶対に見たくはない。だから例の五人組の中でも、おれだけは市ノ瀬が他の女の子たちとちゃらちゃらしているのにいい顔をしないと固く心に決めている。口やかましく「三輪さんを泣かすなよ」と忠告もする。


 けれども市ノ瀬は「そんなに風花が気になるならお前が付き合っちゃえよ」とかわすばかりだ。あのバカめ、肝心なところは何もわかっちゃいない。


「ちょっと具合がわるかったからね、はるかセンセイに相談してたの」


 いつも通りの見慣れた笑顔で三輪さんはようやくこの診療室にいる理由を説明してくれたが、聞いたおれは慌てふためいた。


「なっ、ちょっ、それ、大丈夫なのかよ!」


「落ち着きなさい。今のところ発症どうこうではなさそうだし、風花さんとはしばらく様子を見ようって話をしただけだから」


 そう言って会沢医師がやんわりとおれをたしなめる。


「心配してくれてありがとう、西崎くん。あのね、ついでにひとつだけお願いしても、いいかな」


 ずうずうしくてごめんね、と三輪さんは言う。おれは口を挟まず先を促した。


「タマちゃんにはこのこと、だまっておいて。きっと心配させてしまうから。ああみえてタマちゃん、本当はすごくやさしいから」


 おそらくめったにしないであろう他人へのお願いを言い終えた彼女は、途端に軽く咳きこんでしまった。

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