星に願いを
いつ訪れても彼の墓には菊や竜胆といった花が綺麗に供えられている。
七月七日、いわゆる七夕の日を工藤茅紗はことのほか嫌う。織姫と彦星が離ればなれにされたといっても、二人は年に一度だけでも会うことができるのだから。想い人の顔を見つめ、他愛ない話に興じ、触れ合って同じ時間を過ごすことは彼女にとって永遠に手の届かない彼方へと過ぎ去っていった。
「わたし、大人になっちゃいました」
お酒も飲めるしタバコだってOK。西崎家之墓と銘打たれた墓石に線香をあげながら、屈託なく工藤が笑う。
「なのにまだ恋人の一人もいないんです。これって絶対センパイのせいですよお」
人間であるとはおよそ言い難い姿になりながら、西崎航は十九歳の半ばまで生きた。その半年前までは三輪風花も生存していた。発症してから約三年もの間、二人はどうにか生き長らえ、NNBFの根絶というとんでもない置き土産を残して逝ってしまった。
今の工藤の肉体にはどこにも異常はない。元感染者たちには定期的な検査が義務づけられているが、NNBFの再発といった不穏な情報はどこからもまったく耳に入ってきておらず、ようやく世間からも受け入れられつつあった。
西崎航の命日にはまだ二か月ほど早いものの、彼女にとっては七夕にお参りすることが最も自然に感じられる。五年前のあの日にすべては決まってしまったのだ。
そして同様の人物がもう一人いた。待ち合わせていたわけではなかったが、彼がやってくるのを工藤茅紗は予感していたのかもしれない。
「よう。いいかげん西崎のことなんか忘れちまえばいいのに、おまえもバカだな」
白いTシャツにジーンズというラフな出で立ちのその青年は、工藤の記憶にあるよりもさらに精悍さを増していた。
「お久しぶりです、市ノ瀬さん」
立ち上がった彼女が軽く頭を下げる。
「ふーちゃんのとき以来になるか」
市ノ瀬環が言っているのは三輪風花の葬儀のことだ。当時は致死率100パーセントだったNNBFを発症し、異形と化して生き延びた彼女の葬式にはどこから聞きつけたのか大勢の報道関係者や野次馬が集まった。
せめて最期くらいは普通の人間として静かに送りだしてあげたい、そう願った風花の両親の心情があっけなく踏みにじられていくのを、工藤らはなす術もなくただ黙って眺めているしかできなかった。激高して怒鳴り散らすかに思われた市ノ瀬でさえ、奇妙なほど沈黙を保ったままだった。そんな彼がまるで人殺しのような目をしていたのを彼女はよく覚えている。
それもあって、西崎航の死に際してはひっそりと人目を避けるようにして葬儀が営まれた。遺族以外で参列したのは工藤のほかに日浦修介、笛吹智也の二人だけだ。
ゆっくりと近づいてきた市ノ瀬からは線香とは異なる煙の匂いがした。
「タバコ、吸ってるんですね」
「たまにな」
「長生きしないと顔向けできないですよ」
誰に、とは工藤も言わない。そんなことはわざわざ言葉にしなくてもちゃんと伝わっている。
市ノ瀬がほんの少しだけ口の端を上げて笑った。
「長生き、か。するつもりはねえ……と言いたいところだけどな。とりあえず目的があるうちは控えめに吸うつもりだよ」
「目的?」
「言っておくがおれはまだ誰も許しちゃいない。誰一人として。ユキザサのやつらも、おれたちをあそこに閉じこめたやつらも、喜々としてNNBFを報道しやがるマスコミどもも、腫れ物扱いしやがるやつらも、そしてもちろん、何もできなかったおれ自身も」
淡々と表情を変えずに市ノ瀬が告げる。
ああ、と工藤は思う。この人だけはずっとあの日のままなのだ。
彼女にだって市ノ瀬の心情が理解できないわけではない。むしろ共感さえする。だが、そんな生き方が三輪風花や西崎航の本意ではないこともよくわかっていた。
「そういうところ、相変わらず子供っぽいですよね。まひろさんや坂本さんはちゃんと前を見て進んでいるのに」
「うん、あいつらすげえよな。おれもあんなふうになりたかったよ」
珍しく市ノ瀬が穏やかに笑う。
神谷まひろは医学の道を志し、県内にある医大へと進学した。ぶっきらぼうながら優しい彼女ならばきっと素晴らしい医者になるだろう、そう工藤も信じている。
坂本健太郎が選んだのは保育士への道だ。保育士資格が取得できる専門学校へ進学し、来春からは現場で働くのだという。
工藤の従兄である日浦修介やその友人である笛吹智也だってそれぞれに歩きだしている。いまだに五年前の七夕を抜け出せずに繰り返すような日々を過ごしているのは、たぶん市ノ瀬と工藤の二人だけなのだろう。
「そういや会沢のことは知ってるのか?」
〈ユキザサ〉で医師として勤務し、感染者たちのために尽力し、そして風花と航を怪物化させてしまった女、会沢遥。彼女もすでにこの世にはいない。
「自殺したらしいですね。どうでもいいですけど」
何の興味も持っていないような口ぶりで工藤が言う。
「NNBFの治療法確立が正式にアナウンスされた直後でしたよね、たしか」
現在では立ち入りが禁じられ、沈黙している白亜の〈ユキザサ〉の屋上から身を投げて会沢は命を絶ったのだと報道されていた。それが事実であれば皮肉に過ぎる。だが。
「わたしはてっきり市ノ瀬さんがあの女を突き落として殺したんじゃないかって疑ってました」
「おい! いくらなんでもそこまではやらねえよ」
慌てて否定するところをみるとどうやら市ノ瀬の仕業ではなかったらしい、と工藤は少し安心した。
彼の身を案じてではない。あくまで友人だった風花のためである。
「さすがにそれは冗談としても。過去に取り憑かれるとああいった結末を迎えてしまう一例ではあるでしょうね。市ノ瀬さん、このままだときっとまともには死ねないんじゃないですか?」
真正面から見据えてきた工藤の視線をかわすように、市ノ瀬は航の墓前に屈みこんでそっと手を合わせた。
「ま、ろくな死に方はしねえだろうな」
「風花さんが悲しむとしても?」
「ふーちゃんはもうどこにもいねえ。もちろん西崎もだぜ」
口ではどこにもいないと言いつつ、彼の行動の根底にはいつだって三輪風花がいる。矛盾していた。死者に縛られているという意味では市ノ瀬環も会沢遥も同じだ。そして工藤茅紗も。
「そういうおまえはこれからどうするつもりなんだ」
西崎航へ特に語りかけることもなかったのか、すぐに市ノ瀬は姿勢を崩した。
「別に。普通ですよ。大学を卒業して、就職して、いい人がいれば結婚して。もしかしたら赤ちゃんを授かってママにだってなるかもしれませんし」
まるで真実味がないことを口にしているのだと工藤自身でも認識できていた。
NNBF感染者が妊娠した場合、胎児に与える影響の度合いについてはまだ研究が進んでいないため、どのような結果を引き起こすかについての議論は推測の域を出ていない。
この先、彼女が母親になろうとすることはないだろう。とっさに嘘をついてしまうのもセンパイのせいだ、と工藤は心の中で西崎航に責任転嫁しておく。
「そうだな、それができるならたぶん一番いい」
おそらく勘のいい市ノ瀬だって工藤の嘘に気づいているはずだった。わざわざ指摘したりはしない程度には彼も大人になったのかもしれない。
もう夏なのだと感じさせてくれる強い日差しを受けて、空を見上げた工藤は眩しそうに目を細める。この分だときっと夜には織姫と彦星の一年越しの逢瀬が叶うはずだが、久しぶりに顔を合わせた二人がどんな会話をするのかまったく想像がつかなかった。
もしも彼女がその立場だったとすれば、話したいことがありすぎて「こんばんは」だけしか出てこないような気もした。
「恋人同士が一年ぶりに再会したらどんな時間を過ごすんですかねー」
「そりゃおまえ、乳繰り合うに決まってんだろうが。つかそれ以外に何がある」
「やっぱり乳繰り合いますか」
「合うね」
おもむろに頷いた市ノ瀬がにやりと笑う。
「織姫と彦星もそこいらのカップル同様に盛ってるのかどうか確認してきてくれよ。目指してんだろ、宇宙飛行士」
これには工藤も不意を突かれた。
現在、彼女が通っているのは航空宇宙工学を研究できる県外の国立大学だ。西崎航と三輪風花、それにたくさんの人たちの命を奪っていったNNBFも、元をたどれば新納水族館に墜ちた小さな隕石である。
市ノ瀬とはまた違った彼女なりの復讐でもあるし、夢などではないにせよ自分でも意外なほど純粋に宇宙へ惹かれてもいた。生命を拒む一面黒の空間、そこで瞬く星の光。たとえ万に一つほどの狭き門だとしても、宇宙から西崎航のいた地球を眺めてみたかった。
「何だ、人が悪い。ご存知だったんですね。まひろさんだけにしか伝えていなかったはずなんですが」
「脇が甘いな。あの単純な神谷が隠し通せるとでも?」
さすがにこの点については工藤も市ノ瀬に同意するより他ない。
彼は静かに言葉を続けていく。
「おれは今でも覚えてるよ。あの日、おまえが『ここにたどり着くんだって目的がほしい』って言ってたのをさ。その気持ちは今ならすごくよくわかる。結局、会沢があんな終わり方を選んじまったのは自分の行き先を見失ってしまったからだろうしな。遠く彼方まで行ってくれ、工藤。ふーちゃんの分も、西崎の分も」
二人の遥か頭上を音をたてて飛行機が通りすぎていく。
湿ってしまった空気を振り払おうとするように、市ノ瀬環がわざとらしいほど大袈裟に伸びをした。
「さて、そろそろおれはお暇させてもらうわ。これ以上いても西崎と話すことなんて何もねえし」
「まったく、航センパイに対してほんと失礼ですね。このあと風花さんのところにもお参りしてくるので、ちゃあんと言いつけておきますから」
「そりゃ怖い。ふーちゃんには絶対怒られるわ」
おどけてみせた市ノ瀬の目は、かつて彼が三輪風花へ向けていたのと同じものだ。やっぱり彼にはこっちの方が断然似合う、と工藤は懐かしさとともに強く思う。
タバコを一本だけ墓前に供え、歩きだした市ノ瀬が後ろ向きのままで手を振る。
「じゃあな。おまえのこれからの幸運を祈ってる。元気でやれよ」
「はい。市ノ瀬さんもお元気で」
深々とお辞儀をした工藤茅紗が顔を上げたときにはすでに彼の姿はどこにもなく、晴れ渡った空に一筋の飛行機雲だけが残されていた。




