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たったひとつの、まるで冴えないやりかた

 大袈裟ではなく、おれの放った言葉によってこの場は凍りついてしまった。

 承知の上だ。そんな空気を真っ向から受け止める腹はとっくにくくっている。


「おいおいおい、どうした西崎。らしくないじゃないか。あれか、会沢のやつに色仕掛けでもされて丸めこまれたのか?」


 冗談めかしていつも通りきつく当たってくる市ノ瀬だったが、その目はまるで笑っていない。


「結局自分が助かるためにふーちゃんを調べろって、そう言いたいわけか」


 この程度の問答はアトリウムへ入ってくる前にシミュレーションをすませていた。結論は「出たとこ勝負」という、何とも頼りないものだが。


 三輪さんには一切手を出さない、それがおれと会沢医師で交わした契約の条件だった。三輪さんの無事さえ保証されれば市ノ瀬の態度も軟化するはずだ。

 さて、ここからどう説得するか。


 自分でも驚くほど冷静ではある。この先は一本道で、ただし市ノ瀬をはじめとするみんなを納得させることができるかどうかですべては決まってしまう。

 だがおれが答えるより早く、市ノ瀬に食ってかかる鋭い声がした。

 工藤茅紗だった。


「そんなはずないじゃないですか! センパイだったらむしろ──」


 途中まで言いかけて、彼女はおれの顔をまじまじと見つめる。


「むしろ……」


 喜怒哀楽が抜け落ちたような表情で彼女が呟くのを、おれはただ黙って聞いているしかなかった。


「まさか、そんな。違いますよね。違うって言ってください。お願い、言って」


 すごいな、この子はおれをそこまで理解していたのか。

 やっぱりおれなんかにはもったいなさすぎたよ。


「ごめんな工藤。否定は、してあげられない」


 精いっぱいのお詫びを込めて、おれは彼女に向けてウインクする。


「あ、あ、あ、」


 呼吸すらままならないほど喉を震わせながら工藤は絶叫した。


「あんたたちはほんっとに大バカ野郎だッ! 航センパイも、風花さんも! ふざけんな、ふざけんなよ! そんなことで助かったって、わたしはこれっぽっちもうれしくなんかないんだ! どうしてそんなこともわかってくれないの! どうして最後まで一緒に生きてくれないの! ねえ、どうして!」


 全身で叫ぶ彼女を目にすれば、誰だって否応なく事情を理解するに違いない。

 みんな、もうおれが何を選択したのか察したようだった。

 智也がぽつりと「任せるんじゃなかった」と口にすれば、修介は顔を真っ赤にして怒りを露わにしていた。神谷はローブの裾をぎゅっと固く握ったままでうつむいている。


 意外だったのは坂本で、これまでの付き合いでも見たことがないほどにやつは猛り狂っていた。それを後ろから羽交い絞めにした市ノ瀬が必死に制止している。


「放せタマ! あいつのツラぁ、一発ぶん殴らねえとどうにも気がすまねえ!」


 荒ぶる坂本を、それでも市ノ瀬はどうにか引きずり倒す。

 片膝を立てて肩で息をしながら市ノ瀬が言った。


「おまえ、どうしてそんなにクソったれなんだよ」


 一拍遅れて、クソったれが誰のことを指しているのかにようやく気づいた。


「ああ、おれのことか」


「他に誰がいるってんだバカ」


 このバカ、と重ねておれを罵倒してくる。

 わかってはいたが、おれの味方はいない。当然だろう。あの坂本が怒ったことからもわかるように、みんなからすればただの裏切り行為でしかないのだから。

 たぶんそれほど時間は残っていない。何としてもここから引っくり返さねば。


「なあ市ノ瀬、おまえ、バスケやってたんだよな」


 唐突なおれの質問に、さも胡乱げな目を遠慮なく投げかけてくる。


「あ? それがどうした。今はそんな話をしちゃいねえよ」


「いいや、してるさ」


 笹の木に軽く背を預けたおれは腕組みをして話しはじめた。


「とりあえず聞けって。たとえばこんな場面を想像してみろよ。試合時間は残り5秒、1点ビハインドの状況でこちらが攻撃中。チームのエースは相手から徹底マークを受けててボールを渡せない。そんな劣勢の中、自分がフリーでパスを受けたとしよう。さて、おまえだったらどうする?」


 ちっ、と市ノ瀬が舌打ちする。


「シュートを打つだろうさ、そりゃ」


「だろ? 要はさ、タイミングの問題なんだわ。その時間、そのシチュエーションでパスが来たなら勝負に出るしかないだろうが。じゃあ逆に聞くけどな、パスを受けてもシュートを打たないって選択肢はおまえの中にはあるのかよ」


 市ノ瀬に返事をするだけの余裕を与えず、おれは一気にまくしたてていく。


「おれにはないし、きっとみんなにだってないはずだ。自分の人生は自分で選ぶ、まさしく神谷が言ってた通りだよ。これまでのおれたちには選択肢すら与えられず、ただ毎日審判を受け続けてるだけのような日々を送るしかなかった。そこに初めて選択肢が現れたんだよ。自分がシュートを打つことでチームを勝利に導けるかもしれない、その代わりにチームから去る。打つか、否か。これって悩むところじゃないだろうが」


 キミならどうする、と会沢医師に迫られたおれは迷うことなく三輪さんと同じ道を選んだ。頷かなければ、きっと彼女は他の誰かに悪魔のささやきのごとき取引を持ちかける、そう思ったからだ。

 だからこそ、会沢医師から返ってきた答えは予想外だった。


「よかった。キミならそう言ってくれると思って、昨日の時点でもう新薬を投与してたから。これできっと、NNBFを根絶できるはずよ」


 あの人の心はもうとっくにどこか壊れていたのだ。憐みでも感じたのだろうか、もはや怒りすら覚えなかった。

 おれが求めるのはどうかこれで終わりにしてくれという、ただそれだけだった。

 こんな体でよければいくらでも使ってデータを採ればいい。その代わり、絶対にNNBFを仕留めろ。


「いいか、よく聞けよ。これはたまたまおれにボールが回ってきただけのことだ。みんなにだってそうなる可能性は充分あったんだよ。今回はおれが美味しいところを持っていく役に当たっただけでさ」


 早口でしゃべりながらも、もうおれにだって自分が何を話しているのかよくわかっていなかった。


「だいたいな、おまえらはおれがそんなにヤワだと思ってんのか? むしろそっちの方がショックだよ。おれは必ず生き残るつもりだし、おれから採取したデータで三輪さんも助かる。根拠があろうがなかろうがそう信じてる」


 するとこれまでずっと気丈であり続けた工藤が静かに涙を零す。


「タフガイ気どって、バカみたい。ろくに喧嘩もできないのに。センパイもう忘れたんですか? 修兄の身代わりで上級生にこっぴどく殴られたの。変わってませんよね、貧乏くじを引くところ」


「そういやあったなあ。よく覚えてたよ、そんな昔のこと」


 本当に懐かしくなるほど過去の思い出話だ。


 何のことはない、当時いきがっていた修介を「かわいがる」つもりだった上級生連中がなぜか人違いでおれをぼこぼこにしてしまっただけのことだ。気まぐれだったのかどうか覚えちゃいないが、なぜか「おれは修介じゃない」と弁解することもなくされるがままに殴られまくった。


 あれはおれたちが一年の頃だったから、工藤はまだ中学生になっていない。倒れているおれを見つけて「自分のせいだ」と慌てた修介に、やつの家まで連れていかれて応急処置をされたのだ。それをてきぱきとやってくれたのが近くに住んでいた工藤だった。


「忘れるはずがないです。だってその前からずっと、わたしはセンパイだけを見てましたから。修兄と友達になってくれたおかげですよ。こればっかりは修兄に感謝しなきゃ」


 交互に両腕で涙を拭い、彼女はこれまでおれが出会った誰よりも綺麗に笑った。


「好きです。大好きです。他の人じゃダメなんです。航センパイじゃなければ。だから、死んだら絶対に許しませんから」


 もちろんおれだって死ぬつもりなどない。死が怖いとはもはや思えなくなっているが、かわりにひどく寂しいと感じる。たった一人でとても遠いところへ旅に出なければならないのだから。


 それはちょっと、いやだな。

 もっと工藤と話していたかった。いくらでも話すことはあった。


 なのに幕はいきなり下ろされる。自分でも気づかないうちにおれは口から血を吐きだしていた。喉が焼かれてでもいるのか、ひどく痛む。火だ、おれの体はきっと火に包まれているんだ。


「航センパイっ!」


 切り裂くような工藤の声がやたら遠くに聞こえる。他のみんなの声もだ。

 そういえば一度も工藤を「茅紗」と呼んであげなかったなあ、と今さらな後悔をするがもう遅い。たぶんその機会は巡ってこない。


 新納市の郊外に住む両親の顔も浮かんできた。航という名前は父親が「世界のどこへでも行ける人になりますように」、そんな願いを込めてつけてくれたのだといつも笑顔を絶やさない母親が教えてくれた。生まれてきてくれてありがとう、それがおれへの最初の言葉だったとも。


 父さん、母さん、ごめんな。おれはどこにも行けなかったよ。

 大切な友達も、とても大事な女の子も、みんな悲しませてしまった。

 こんなつもりじゃなかった。自分の体が恐ろしいほどの速さでどんどん自分のものじゃなくなっていく。

 本当におれは何かを残せるのだろうか。変えられるのだろうか。


 やはり怖い。黒く、大きな死という塊はこんなにも恐ろしいのか。これまで発症して死んでいった人たちもどれほど怖かったことかと思う。

 すがりつくように必死に空へ向かって手を伸ばす。あれほど高いと感じていたはずのアトリウムの天井が、なぜかやたらと近くに感じる。


 だけど死ぬわけにはいかない。どんな姿になろうとも、浅ましくとも醜悪であろうとも必ず生き残ってやる。絶対に死を食らい尽くしてやる。


 目の前がどんどん黒く塗り潰されていき、もう何も見えなくなってしまった。

 だが一瞬、視界に火花が走る。また火花。

 どんどん増え続ける火花がそのうちにすべてを覆ってしまい、あっという間に黒から白へと世界は変わった。

 こんなもんじゃない、まだまだこんなもんじゃないんだよおれの命は。

 三輪さんは帰ってきてくれた。だからおれも帰るよ。みんなが待ってくれている場所へ。

 最後にもう一度、高く跳ぶんだ。

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