かなしいピクニック
ところどころに警備員たちとの激しい争いの跡が残っているものの、アトリウムには静けさが広がっていた。
赤銅色の巨躯と化した三輪さんが笹の木の近くにぺたりと座りこんでいる。両足を完全に伸ばしたその姿は思いのほか愛嬌があり、少しずつ自分の中で彼女の存在に違和感を覚えなくなっていることに気づく。
おれたちが入ってきたのに気づいたのだろう、そんな三輪さんにもたれかかって微睡んでいた市ノ瀬環は薄く目を開けた。
「フーカ、お腹空いたでしょ。もうお昼だもんね。まあ、あとついでに市ノ瀬も。みんなで食べよう?」
一歩進み出た神谷が、前へ倣えのようにしておにぎりの入ったバスケットをおずおずと差しだす。
だがやつは口の端を上げて「なんだ、それ。毒入りじゃねえだろうな」と皮肉気に笑いやがった。
先ほどまでと変わらぬ頑なな態度をとる彼に、真っ先に反応したのは意外なことに修介だった。
「どこまでひねくれてやがる。心配すんな、単なるおにぎりだよ。ただ、ものによっちゃ不味いかもしれねえけど」
なんせおれたちも握ってるからなあ、と修介のやつもにやついて対抗する。
「はっ、そいつはとてもふーちゃんには食べさせられねえわ。男どもの汚い手で握った分はおれがもらうことにするぜ」
素直じゃない発言をしながらも、ゆっくりと立ちあがった市ノ瀬がバスケットを受け取ったことにひとまず胸を撫で下ろした。おれだけでなく、他のみんなも同様の気持ちだったはずだ。
「何ぼーっと突っ立ってんだ。早く座れよ」
あごをしゃくった彼はバスケットを全員から等距離の場所に置いてまた元の定位置へ戻っていく。三輪さんのところへと。
さながら大小さまざまの半球状の砲丸が張りついたような彼女の顔には、可愛らしい少女だった三輪風花という存在の痕跡がどこにもない。時折よだれを垂らしながら断続的に喉を鳴らす姿ははっきりいって原始的な獣のそれだ。
けれども市ノ瀬に懐いているのは間違いなさそうだった。周囲に折られたり砕かれたりした人工ケヤキの残骸がいくつも転がっているほど〈ユキザサ〉の警備員たち相手には大暴れしたそうだが、おれたちに危害を加えそうな気配は微塵もない。
外見は怪物になり果てていようとも、彼女には三輪風花としての自我がまだ残っている。それがおれの結論だ。たとえどれほどわずかなものだったにせよ、1と0とでは天と地ほどの違いがあるだろう。
そのことにほんのわずかな安堵をしつつ、一番乗りでおれはおにぎりに手を伸ばした。
「腹減ってたんだよね。いただきまーす」
早い者勝ちだ、とばかりにおれはきれいな形の分を手にとった。
いつものように車座となって座る外野からは「汚え!」と罵声が飛んできているが、ぐずぐずしているおまえらが悪い。智也以外の男子担当分は断じておにぎりなどではない。炊いた米のいびつな集合体だ。
「うん、やっぱり見た目がいいのは味も旨いな」
がっつくおれに、工藤が久しぶりに笑顔を向けてくれる。
「あっ、じゃあそれはわたしが握ったおにぎりですかね。たくさんセンパイへの愛情を込めてますから」
「そういう理屈ならあたしは負けるわ。フーカへの愛情分しか入ってないし」
昨日までと変わらないような軽口を叩きながら、工藤と神谷もバスケットを覗きこんで適当につまんでいく。工藤がとった見覚えのある崩れ具合のおにぎりは、もしかしたらおれが握ったものかもしれない。
当たり外れはあってもそれぞれがおにぎりを手にとっていくなか、市ノ瀬だけはみんなの姿を眺めるように三輪さんへともたれかかったままだった。
一気に頬張った坂本が強引に飲み下して彼に言う。
「何だよタマ、おまえも食えよ。この様子だとすぐになくなっちまうぞ」
そうだな、と市ノ瀬も頷く。けれどもその場を動こうとはしない。
目線を転じれば、智也がしきりに修介の脇腹を肘でつついている。そういえば修介には皆の前で約束したことがあったはずだ。
ようやく決心がついたか、あぐらをかいた姿勢のままでやつは「んんッ」と咳払いをした。
「あー、その、なんだ。さっきはすまなかった。おまえにも三輪にもひどいこと言ったなって反省してる」
両膝の上に手を置き、勢いよく頭を下げる。床にぶつけてしまうんじゃないかと思ったほどだ。
めっずらし、と声をあげたのは修介の従妹である工藤だった。
「市ノ瀬さん、修兄がこんなに素直に頭を下げるのってレアもレアですよ。無駄にプライドだけ高いもんで」
幼い時分から修介を知る彼女の言葉はなかなかに手厳しい。
ぽんぽん、と三輪さんの硬そうな肌に軽く触れた市ノ瀬の表情はひどく穏やかに映る。
「いいさ、別に。ふーちゃんも怒っちゃいないし。でもおれは殴ったことを謝ったりはしないぜ」
「殴るだけじゃなく蹴りあげてたけどな」
そこのところはおれがきちんと補足しておいてやった。
かわりにといっては何だが、市ノ瀬の苦笑いと神谷からの「西崎、減点1」という評価をありがたく頂戴する。
肥大した金属質っぽい顔をすり寄せてくる三輪さんとコミュニケーションをとりながら、市ノ瀬は淡々とした口調で話しだす。
「今ならわかるんだよ。おれは、こういう時間がたまらなく好きだったんだってな。取り返しがつかなくなってから理解するなんて、まったくどうしようもない大バカ野郎だよ」
まるで最後の挨拶みたいだ、と感じるのは穿ちすぎだろうか。
「ふーちゃんはもう元の姿には戻れないだろうさ。こいつの性格なら自分を研究すればNNBFをなくせるって言いだすのは間違いない。そんなのはバカなおれにだってわかってる。でもな、おれはもう、ふーちゃんにたったひとつの傷さえもつけたくないんだ。頭で考えたことじゃなく、心の奥にある魂みてえなのが叫んでるんだよ」
魂だなんてそんなもん、今までまるで信じちゃいなかったのにな。そう言って市ノ瀬はわずかに目を伏せた。
「おまえらがこうやって来てくれるまでの間、思い出すことといえば小さかった頃のことばかりだ。タマちゃんタマちゃんって懐いてくれてたあいつに昔はよくいたずらばかりして困らせてたし、大きくなったらなったで今度は邪険にしてよ。こいつ、おれがいなきゃ何もできないよなって高をくくってたんだ。何のことはない、実際はその逆だった。ふーちゃんがいなければおれなんて何ひとつできやしないんだよ」
肩を小刻みに震わせながらも彼は話すのをやめようとしなかった。
「いつかこんなおれでも素直になれるときがきたら、ちゃんと『好きだ』って言うつもりだったんだ。本当だぜ。高校生になっても、大人になっても、父親や母親になっても、じーちゃんばーちゃんになっても、最後までずっと一緒に生きていくのはふーちゃんとだって、心の中ではそう信じてたんだよ。笑っちまうくらい乙女だろ、おれって」
いつかという日は来なかった、そう、会沢医師も同じことを言っていた。
説得どうこう以前の問題だ。坂本が「このまま二人でいさせてあげたい」と口にしたのも無理もなかった。やっぱりあいつにはわかっていたのだ。
そっと手で触れることすらためらわれるような宝石よりも、市ノ瀬と三輪さんの二人の方が美しい。おれはそう言い切ってやる。
と、すすり泣いている神谷の隣にいる工藤が突然立ちあがった。
「なら、せめてこうしませんか」
そうして彼女が声高らかに提案したのは、おれなどではとても思いつけない類のものだった。
「今から風花さんと市ノ瀬さんの結婚式をするんです。ここにいるみんなで」




