取り残されて
アトリウムへと通じる扉が固く閉ざされてもう四時間になろうとしている。
扉の前には二人の警備員が門番よろしく立ちはだかっているが、その表情にはありありと緊張の色が浮かんでいた。
それもそのはず、扉一枚隔てた向こう側には彼らにとって未知の生き物が存在しているのだから。
三輪さんが異形の姿へと変貌を遂げてから状況はめまぐるしく動いた。市ノ瀬は粘り強い会沢医師の説得にも頑として応じず、三輪さんの傍を片時も離れようとはしない。そして〈ユキザサ〉側はあっさりと、まるで既定路線だったかのごとく強硬手段に訴えることを決定したのだ。
おれたちは無理やりアトリウムから退去させられ、代わりに突入していったのは施設中から駆りだされたらしい警備員たちだった。防護服を身にまとった彼らはみな麻酔銃を携えており、その銃口はためらうことなく三輪さんへと向けられた。力ずくで外へと引きずりだされていったおれたちが直接目にしたのはそこまでだ。
だがすでに人間の枠を超えたかのような彼女には麻酔銃でさえも水鉄砲同然でしかなかった。赤銅色に鈍く光る無数の半球体に覆われた彼女の肌に弾が何発命中したところで、いささかの傷をつけることさえかなわなかったのだ。
当然ながら市ノ瀬は激高する。その意を汲んだのか、耳をつんざく叫び声をあげて三輪さんがまるで電柱のような腕を振り回した。人間にこそ当たらなかったものの、代わりに直撃の憂き目に遭った人工ケヤキは原型を留めないほどに粉砕されてしまったらしい。
これほどの力を目の当たりにしてはさすがに〈ユキザサ〉側もうかつに動けるはずがない。何とか穏便に三輪さんを被験体とするべき、そう主張する会沢医師の意見もあって現在ではまったくの膠着状態となっている。
ベッドだけしか置かれていない自分たちの部屋に戻る気になれず、扉から少し離れた通路で、強制的に排除されてからもおれたちはずっと動けずにいた。
神谷に寄り添っている工藤を除けば、あとはみな他の誰とも距離を置いて立つなり座りこむなりしている。口を開こうとする者もいなかった。
特に修介はいまだ憮然とした表情を崩そうとしない。市ノ瀬に殴られた部分が赤く腫れているのも彼の不機嫌さに拍車をかけているのだろう。
思えば修介と市ノ瀬、この二人は最初から折り合いが悪かった。
互いに面識のない、違う学校の生徒同士が親しくなるにはたとえ医療施設内といえど何かきっかけが必要なものだが、おれたちの場合はそれが修介と市ノ瀬のいざこざだったのだ。
「おいコラ、だからてめえが詫び入れろつってんだろうが」
「あん? なーに調子に乗ってんだかこのクソは」
まだ〈ユキザサ〉に収容されて幾日も経っておらず、放心したような状態が続いていたおれは、部屋の外から耳に届いてくる二人の怒鳴り合いをただ「元気だな」とあてがわれたベッドの上で聞き流していた。何が原因かは知らないが、こんな切羽詰まった状況下では争いの種にも事欠かないだろう。
それでも心配そうに智也が言う。
「どうするの航、修介がまた誰かと揉めてるみたいだけど」
「ほっときゃいいさ。人生の最期にド派手な殴り合いってのも、それはそれで趣があっていいんじゃないか。むしろ羨ましいくらいだわ」
おれの皮肉に人のいい智也は顔をしかめた。
そういうわけにはいかないよ、と言い残してあいつはすぐに部屋から出ていく。
「まったく、どいつもこいつも世話の焼ける」
ぶつくさ言いながらも仕方なく重い腰を上げ、ゆっくりとしたやる気のない足取りで智也を追った。
だが廊下に出てみれば智也よりも先に二人の仲裁に入っている少年がいる。
人に優しくしている余裕などないはずだというのに、やけに鷹揚な調子で彼はいきりたつ二人の肩に手を置いて話しかけていた。
「はいはい離れて、離れて。ほらタマよ、眉間にしわが寄ってぶっさいくなツラになってんぞ。そこのおまえも、えーと」
「日浦だよ。日浦修介」
「おー、日浦っていうのか。おれぁ坂本健太郎ってんだわ。こんなところでだけど縁があって一緒に暮らすことになったわけだから、まあみんなで仲よく助け合ってやっていこうや」
「はっ、そんな必要ねえだろ」
タマと呼ばれた、仲裁役の坂本とは既知の間柄らしい少年がいまいましそうに吐き捨てる。
また一触即発か、と身構えたおれと智也だったが、なぜか坂本は「うっはっは」とさも愉快そうに大声で笑いだしたのだ。これにはさすがにあっけにとられた。
「そんなだからいつまでたってもおまえには風花がお母さん代わりについてなきゃダメなんだろうなあ。まったくしょうがねえやつだよ」
「──っ! ぶっ殺すぞおまえ!」
「そんなに焦らなくても、死ぬときゃ死ぬさ」
肩をすくめた坂本の言葉はまったくの正論だった。
死はおれたちのすぐ隣に身を潜めている。そうとわかりつつ、これまでの人生と何も変わっていないであろう態度を貫いている彼の姿に、おれは案外ここでの暮らしも捨てたもんじゃないかもしれない気がしだしていた。率直に言えば、同世代の人間に対して初めて敬意を抱いた。
ただ怯えているだけでは死んでいるのと何も変わらない。生きるのだ、明るく。
「いいこと言ったよあんた。おれもそう思うなあ。その日がやってくるまでお互い、どうにか楽しくやっていこうぜ」
そう口にして一歩、足を前に踏みだした。坂本もそんなおれを見て、にっと笑いかけてきた。どちらからともなく握り拳を作って軽く合わせる。結局そんな些細な出来事が元でおれたちはいつの間にかつるむようになったわけだ。
あれから他にもいろんな人とこの〈ユキザサ〉で出会い、別れてきたことになる。顔を覚えている人もいればもう思い出せない人もいる。
そろそろおれの番なのかもしれないな、と今まで何度も頭をよぎってきたフレーズがまたぞろ首をもたげてきているのも無理はなかった。
変わり果てた三輪さん、あくまでそんな彼女のそばにあろうとする市ノ瀬。二人のことを考えれば、死などはむしろ楽な道なのかもしれない。
「なあ西崎」
ただただ重苦しい緊張感だけが支配する空間となってしまった通路に、不意におれの名前が響いた。呼びかけた声の主は坂本だった。
「おまえ、おれの代わりに行ってくれねえか」
柄にもなく険しい顔つきで彼が言う。
なるべく市ノ瀬を刺激しない人選を、という会沢医師の発案により、もうすぐ坂本と神谷が説得のためにあの扉の向こう側へ赴くことになっている。
特に坂本は市ノ瀬と三輪さん、二人と幼い頃からの仲なのだ。
「おいおい、らしくないな。弱気にならないでくれよ。おれがいったんじゃ市ノ瀬のやつとまたぶつかっちまう。おまえじゃなきゃダメだろ」
そんなおれの言葉に、坂本は力なく首を横に振る。
「わかるんだよ、自分でも。きっとおれにはあいつらを説得するのは無理だ」
右手を軽く握りこめかみに当てた彼の目は、今にも泣きだしそうに見えた。
「何て言えばいいんだろうな、今のタマたちを見てると無性に悲しくなるんだよ。もう、ずっとこのまま二人でいさせてあげたっていいんじゃねえかって、そう思ってしまいそうなんだよ」
すると思いがけず工藤が坂本の言葉に同調した。
「それ、わかります。たぶん風花さんは今幸せですよ」
彼女が口にした「幸せ」という単語に、これまでへたりこむように座っていただけだった隣の神谷が弾かれたように顔を上げる。
そのまま立ちあがった神谷は勢いまかせに腕を壁へと叩きつけた。
「茅紗、あんたふざけてんの? あんな姿になってしまったフーカを見といてどうしてそんなことが口にできるわけ? 幸せであるはずがないじゃない!」
怒りに満ちた神谷の威圧的な行動にもかかわらず、工藤は気味が悪いほどに落ち着き払っていた。
だって好きな人がずっと一緒にいてくれてるんですよ、と彼女は笑う。
「風花さんがどれほど市ノ瀬さんを好きだったか、わたしよりまひろさんの方がよくご存知なんじゃないですか」
工藤の言葉は神谷だけでなくおれにも刺さる。
神谷はといえば、傍目からでもわかるほどに体を震わせながら声を絞りだした。
「──知ってるよ。そうだよ、わかってるよ」
そう言い終えて、ぎりっ、と音が聞こえてきそうなほどに唇を噛んでいる。
けれども彼女の吐露には続きがあった。
「だからこそ、あいつら二人をこのままにしておけないんじゃないかよ」




