七夕セレナーデ 3
小刻みに揺れる左手で、三輪さんはそっと市ノ瀬の頬に触れた。そしてゆっくりとおれたちに顔を向け、弱々しく微笑んだ。微笑んだ気がした。
「……けんかは……だめだよ……」
市ノ瀬は三輪さんの左手首を柔らかく握り、愛おしそうに彼女の手の感触を確かめている。
「バカ、おれと西崎はけんかなんかしてねえよ。みんなおまえのことが大好きで、ただそのやり方が違うってだけなんだ」
「そっ……か」
力いっぱいにうなずいて、おれも市ノ瀬の言葉に同意した。
「ふふ……タマ、ちゃん」
「何だ、どうした」
「ちっちゃい……ころ、みたい、に、よんで、くれて……ありが、と、」
あざ笑いながら時間切れを告げるかのように、三輪さんの左手の甲にソフトボール大の腫れ物が浮かびあがってきた。やはり覚悟は決まっていたのか、市ノ瀬は大きく目を見開いたまま身じろぎひとつしない。
「いつだって何べんだって呼んでやる。だからふーちゃん、どこにもいくな」
先ほどまで半狂乱で叫んでいた市ノ瀬のものとは思えない、とても優しくて穏やかな声だった。
続けざまに球体の腫れ物が三輪さんの肌を蹂躙していく。拘束ローブはもはや何の意味も持たず、早くも数カ所が引きちぎられたようになっている。ビー玉くらいの大きさからハンドボールまで様々な大きさの赤い球体が、あんなにかわいらしく素敵な人だった三輪さんを埋め尽くそうとするのを、おれはなす術なくただただ呆然と眺めていた。
どうにか踏ん張ろうと三輪さんにしがみついていた市ノ瀬も、膨張の圧力に抵抗しきれず弾き飛ばされてしまった。
「フーカ……」
ずっと静かに泣いていた神谷のかすれた声が遠く聞こえる。自分がずっと隣にいてあげたかっただろうに、三輪さんの気持ちを慮って市ノ瀬に譲っていた彼女の心中は察するにあまりある。
死の瞬間はほど近いはずだ。こうなった以上、目を逸らさずちゃんと見届けようとおれは腹をくくっていたのだが、いつまでたってもそうはならなかった。
三輪さんの膨張があまりにおかしい。増殖を続ける球体の腫れ物によって横幅はすでに元の倍以上にはなっている。今までに見てきた発症者たちはこの状態に至る前に破裂して死んでいたのだ。ひどい腫れ物だとその大きさはバスケットボールほどにまで肥大し、どこを探してももう三輪さんの面影が見つけだせない。
おまけに膨張のスピードがだんだんと落ち始めた。もはやありとあらゆる大きさの球形による集合体と化した三輪さんが、よろめきながらも立ちあがろうとする。ところどころの球体がはじけて血の塊へと変わっていくが、痛みを感じないのか彼女は気にかけてもいないようだ。
ようやく直立した彼女を目にしておれは息を飲む。背丈2メートルを優に超えた、三輪さんとはまったく異なる歪な造形をした生き物の姿がそこにあった。
「うぐ、うぐ、うぐ」
喉を鳴らすような声が顔のどこかから出てきた。顔の判別なんてとてもじゃないがつかない。飛びでた眼球は左右非対称、それも顔の両端に分かれている。口とおぼしき部分は顔の下部にあるのだが、かなり左にずれてしまっている。
いつの間にか球体型の腫れ物も新しく作られなくなっていることに気づいた。赤みがかっていた腫れ物の色も少しずつ彩度を落とし、一律に赤銅色となってきていた。それだけでなく、突いただけで破れそうだった腫れ物の表面がどんどん硬化していっているように見える。
もしかして三輪さんは致死率100パーセントのNNBF発症から死を免れたのだろうか。しかし、かつての彼女からかけ離れたこの状態ははたして生きていると呼べるのか。人間と呼べるのか。
あまりの困惑に足がすくんでいるおれとは対照的に、市ノ瀬は臆する様子もなく再度彼女の元へと歩み寄る。
「もしかしてふーちゃん、助かったのか? そうなんだな」
「びゅく、びゅく、びゅく」
「はは、よかった」
不可解なことにこの状態の三輪さんと市ノ瀬とでコミュニケーションが成立していた。おれの頭ではもう理解が追いつかない。それでも市ノ瀬が彼女を三輪さんだと認めるならば、おれは何も言わず従うつもりでいた。
だが、当然ながら考え方、捉え方の違いは存在する。
「化け物かよ……」
うかつにもそう口走ったのは修介だった。
明らかな失言だ。そう思って諫めようとしたおれより早く、あっという間に間合いを詰めた市ノ瀬の拳が修介の顔面に叩きこまれた。
「今なんつった? 聞き捨てならねえな」
鼻のあたりを押さえて床に転がる修介の脇腹に蹴りを入れながら、見下すかのような冷たい目で市ノ瀬が詰る。
流れる鼻血を拭った修介は、市ノ瀬の足に血が混じった唾を吐きかけながらにやにやとした笑いを浮かべた。退くことを知らないのはこいつの悪い癖だ。
「あれがおまえにゃ三輪に見えてるって? ああ? 寝言ほざくなボケ」
無言で再び蹴りが飛ぶ。今度のは恐ろしく強烈で、修介も腹を抱えてうずくまってしまった。なおも追撃を放とうとする市ノ瀬を、坂本とおれの二人がかりでどうにか引き離し、修介の前には智也が体を入れてくれた。
三輪さんの動向を横目で気にしながら、市ノ瀬の耳元でおれは叫んだ。
「よせ! くだらないことやってる場合じゃないだろうが」
「くだらないだあ? 日浦のクソみたいな発言をとがめて何が悪い」
「やりすぎだって言ってんだ! タマ、頼むから落ち着いてくれよ」
哀願にも似た調子で坂本もおれと意見を合わせる。しかし市ノ瀬に聞き入れるつもりがないのか、まったく力を緩めようとしない。
そのとき、二階の出入口から聞き慣れた声がした。
「ちょっと! キミたち何やってるの!」
上からおれたちが揉み合っている様子を見た会沢医師が急いで階段を駆け下りてくる。そのすぐ後ろには工藤の姿もあった。
普段走ることなんてないのだろう、おれたちのところへ着いた頃には会沢医師は肩で息をしていた。結局間に合わず、すべては終わった後なのだが。
いや、違うな。これから始まるのか。
「あれ、ハァ、ハァ、彼女、ハァ、ハァ、なのね」
会沢医師の目線は異形と化した三輪さんに向いていた。
まだ事態を飲みこめていない工藤が驚愕した表情を張りつけたまま、おれへと助け船を求めてくる。
「センパイ……? え……うそ……?」
「三輪さんだよ」
できるだけ感情をこめず、事実だけを簡潔に答えたつもりだがきっと工藤は受け入れがたいに違いない。どう見たってそこに存在しているのは、ふんわりした空気を漂わせていた三輪さんとは似ても似つかぬ別の何かだ。
一際大きな声で三輪さんが鳴く。
「とぅー、とぅー、とぅー」
「離せ。ふーちゃんが寂しがってる」
市ノ瀬の言葉に薄気味悪さを感じたのは否定できない。もはや生物的に人間なのかどうかも定かではない彼女と当たり前のように意思の疎通をする。市ノ瀬は今どこに立っているのだろう。そこはおれたちより彼女に近い場所なのではないのか。
坂本もおれもすでに市ノ瀬の眼中にはなかったらしい。今から答えを出さなくてはならないのは彼ではなく、きっとおれたちの方だ。おぞましい姿になった三輪さんを受け入れることを誓える者だけが、もう一度彼に仲間として認知される資格を得る。拒絶か、追認か。
言ってみればこれは踏み絵だ。
もはや種が違う、そう判断したのであろうおれの肉体は、三輪さんを同じ人間だとは認めておらず寒気が止まらない。それでもおれはもう決心を固めていた。気持ちで体をねじ伏せるしかないんだ。
解放されて自分のところへ戻ってくる市ノ瀬を、三輪さんは両手をばたばたと上下させて迎えている。歓迎の仕種、なのだろうか。
「これがNNBFの発症から生還した初めてのケースになるわけね」
ようやく平常に戻った会沢医師は三輪さんを冷静に観察している。
工藤は泣いている神谷と手をつないでいた。まだ鼻血が止まっていない修介はふて腐れた表情で座りこんでいる。その近くには智也が立っており、腕組みをして何か考えごとをしているようだ。坂本はおれの隣で口を半開きにしたまま突っ立っている。たぶん、おれも周りからは坂本と同じように見えていることだろう。
「みんな、聞いてちょうだい」
全員の顔をぐるりと見渡し、会沢医師が呼びかけた。
「風花さんの命はまず助かったと考えていいと思う」
この状況を助かったと表現するのが妥当かどうかははなはだ疑問だが、医師とただの感染者との感性の違いだとも言える。
「風花さん自身のこともそうだけど、彼女はわたしたちにもいいニュースをもたらしてくれるはずよ。NNBF発症を克服した最初の人間となった彼女を調べれば、きっとNNBF根絶につながる要素が判明すると思うの。そうなればあなたたちだってもう〈ユキザサ〉に縛られる必要がなくなるわ。風花さんのこと、どうかわたしたちに任せてほしい。決して傷つけたりはさせないから」
あきらめかけていたNNBFが治るかもしれない。会沢医師の言葉がみんなの心を揺り動かしたのが手に取るようにわかった。
三輪さんを除くみんなの視線が同時に市ノ瀬へと集まる。
彼の答えはいたってシンプルなものだった。
「悪いが断る。今はおれがこいつの代理人みたいなもんなんでね。誰にもふーちゃんを触らせるつもりはない」
市ノ瀬の返答が予想外だったとみえ、会沢医師は少なからず動揺したようだった。だがさすがにすぐ気持ちを立て直したらしく、再び市ノ瀬に迫る。
「このまままた誰かが発症してもいいとでも言うつもり? キミだっていつ発症するかわからないのよ? まさかそんなはずないわよね」
「ふーちゃんと同じようになれるのなら喜んで発症してやるさ。おれはね、疑ってるんだよ。第四病棟の子といいふーちゃんといい、あんたらが人為的に発症させたんじゃないかってな。二か月近くも出なかった発症者がどうして今になって短いスパンで二人も続くんだ? どう考えてもおかしいだろうが」
市ノ瀬の表情には何の感情も見受けられなかった。彼はおそらく、もう誰も味方だとは考えていないのだろう。おれたちですら。
ただ、〈ユキザサ〉上層部への疑念はおれにもある。いくら会沢医師が信頼できる人とはいえ、全面的に施設側へ三輪さんを預けることにはとてもじゃないが賛成する気にはなれないでいた。
「おれはあんたたちを信じない」
宣戦布告ともとれる、決然とした市ノ瀬の意思表明だった。




