七夕セレナーデ 2
アトリウムに戻ってみれば、すっかり復調したらしき三輪さんを囲んでの談笑が和やかに続いていた。三輪さんに工藤、神谷、智也、修介、それに坂本。いつもの顔触れ、見慣れた光景に胸をなでおろす。隣の市ノ瀬も口元がほころんでいた。
「遅えぞー……って、おまえらトイレに行ったんじゃなかったのか?」
帰ってきたおれたち二人の手元を見て、坂本が不思議そうに言う。
「ついでだよ、ついで」
あくまで市ノ瀬はそのスタンスを崩さない。おれは「おーい、神谷ぁ」と名前を呼んで、包装されたサンドウィッチをふわりと投げる。
驚きながらも神谷は落とさず両手で受け止めた。
「ナイスキャッチ。それ食べてもっと大きくなれよ」
顔をしかめて「何これ」と神谷がむくれる。あれ、市ノ瀬の話から想像していた好意的な反応と全然違う。
「西崎、あんたこれ嫌がらせ? 朝食はとっくにすませてるし、それじゃなくてもあたしはもうこれ以上身長はいらないんだっての」
「うーわ、それって冷たくないですか? あーあ、せっかく航センパイがまひろさんにって買ってきたのに。わたしなら喜んでいただくけどなー」
「わかった、わかったって。拗ねるな茅紗、半分やるから」
工藤に絡まれている神谷、というのはわりとよく見かける場面だ。最初のうちこそきつそうな外見から神谷を警戒していた工藤だったが、今ではすっかり手玉に取っている感がある。三輪さんと一緒にいることで神谷の扱いのコツをつかんだのかもしれない。
市ノ瀬はといえば、たった一言、
「ん」
とだけ言って雑炊の入った器を三輪さんへと突きだした。
彼女は彼女できょとんとしている。
「え、タマちゃん、わたしに?」
「そうだよ、三輪さん。買ってきたついでに市ノ瀬、ふうふうして冷ましながら三輪さんに食べさせてあげればいいんじゃない?」
我ながらナイスアイデア。二人の関係があまりにじれったくて、ついついおれは話を盛りあげようとしてしまう。三輪さんは耳まで真っ赤になって黙りこくってしまった。うむ、まったく可愛いったらない。
「きゃー、わたしもそれみーたーいー」
文句を言おうとしていたであろう市ノ瀬をさえぎるように、工藤はテンション高く応じてくれたが、もう一人の女子はそうもいかなかった。
「却下だ却下。市ノ瀬だと病みあがりのフーカに何かよくない菌がうつるかもしれないだろうが。任せろ、その役目はあたしが引き受ける」
サンドイッチを口いっぱいに頬張ったままで神谷が宣言した。一切の反論を受けつけるつもりがなさそうな物言いだ。
「アホか。そんなもん、言われるまでもなくやらねえよ。勝手にすればいい」
恥ずかしイベントにならず安堵しているのか、本当はやりたかったのに内心残念がっているのか、市ノ瀬の横顔からはうかがい知ることができなかった。
「よっし。じゃあフーカ、口開けて。はい、あーん……あ」
おれは見た。神谷の口から形をとどめていないサンドウィッチの一部が雑炊目がけてこぼれ落ちるのを。もちろんみんなも目撃していたようで、坂本なんかは指を差して思いきり笑っている。
「ぶはっ、きったねえ! おまえはそれでも女子か! 腹いてえんだよおい」
「なし! 今のはなしだから! ノーカウントの方向で! ごめんフーカ!」
おれたちの方がいたたまれなくなるくらいにうろたえている神谷を、優しく慰めたのはやっぱり三輪さんだ。
「謝らないでってば、まひろちゃん。一人で食べられるのに甘えちゃったわたしが悪いよ」
「あーあ、市ノ瀬さんが食べさせてあげてればなー」
独り言と呼ぶにはあまりに音量の大きすぎる工藤の呟きを、市ノ瀬は素知らぬ顔で聞き流す。
「もういっぺん、お願いフーカ。あたしにワンモアチャンス、プリーズ!」
真剣に頼みこむ神谷に苦笑しながら、再び三輪さんはちょこんと口を開けた。
サンドウィッチをすべて飲みこみ、深呼吸もすませた神谷が万全の状態で雑炊をスプーンで慎重にすくう。見ているこっちが無駄に緊張してしまうほど、細心の注意を払っていた。
「──よし」
一息入れて、次は三輪さんの口へとゆっくりスプーンを動かしていく。あともう少しで目的地に到達する、その直前で三輪さんの体が大きく跳ねた。三輪さんの手に当たってひっくり返った熱い雑炊がそのまま彼女へと降り注ぐ。だがまるで意に介さず、彼女の体は人間とは思えない動きを止めようとしない。
発症したのだ、と一目でわかった。
バネ仕掛けの人形が狂ったリズムに合わせて踊っている。そんな悪い冗談のような光景が、おれの目にはスローモーションとなって映っていた。
雑炊はまだしっかりと湯気が立っていたし、火傷なんかしていないだろうか。おれはぼんやりと見当違いの心配を思い浮かべてしまった。
「どけっ」
市ノ瀬が硬直していた神谷を手で押しのけ、暴れる三輪さんの体を何とか押さえつけようとしている。
「おい、風花、風花! 聞いてんのか、風花! なあ、返事しろよ!」
三輪さんの痙攣はいっそう激しさを増していく。彼女の小さな口から苦悶の唸りが漏れていた。
「風花! ふーちゃん! なあ、頼むよ、ごめん、いくらでも謝るからさ、ふーちゃん戻ってこいよ!」
今までに聞いたことがない、市ノ瀬の甲高い声だった。あれだけ三輪さんに素っ気なかった市ノ瀬が必死に抱きつき、どうにか彼女の痙攣を止めようとしている。
おれたちだってこのまま突っ立っているわけにはいかない。
「すまん、すぐ手伝う」
そう言っておれが近づくと、市ノ瀬は狂犬のごとく吠えたてた。
「来んな! 誰も来るんじゃねえ!」
市ノ瀬は泣いていた。これまで誰よりも長く三輪さんと一緒にいた市ノ瀬にそう言われてしまえば、もうおれたちにはどうすることもできない。
かつては見慣れていたはずの情景なのに、いつの間に心の耐性がなくなってしまったのだろうか。アトリウムには三輪さんの苦しそうな声と市ノ瀬の泣き叫ぶ声とが交錯して響いているはずが、なぜかサイレント映画のように感じられて仕方がなかった。
それでもまだやるべきことは残っている。
「工藤」
抑揚のない声でおれは言った。
「会沢医師を呼んできてほしい」
一瞬反論したそうな表情を見せた工藤だったが、結局何も口にせずおとなしくおれの言葉に従う。おれの自己満足でしかなくても、なるべくならこの子には友達が苦しんで死んでいくところなんて見せたくないのだ。
駆けだした彼女の姿が見えなくなってから、おれは市ノ瀬と三輪さんに近づいていく。
「西崎、どうするつもりだ」
先ほどまでとはうって変わった、市ノ瀬の低くしゃがれた声が聞こえてきた。
そちらに顔を向け市ノ瀬と視線を合わせながら返事をする。
「三輪さんを拘束しないと」
「っざけんなてめぇ! ふーちゃんを見殺しにする気なのかよ!」
「いいから聞け!」
やり場のない怒りを爆発させる市ノ瀬につられる形で、こちらも怒鳴って応戦してしまった。これではダメだ、落ち着かなくては。
目を閉じて呼吸を整える。そしてまた市ノ瀬を見据えた。
「今、工藤に会沢医師を呼びに行かせてる。たぶん他の医師たちもやってくるだろう。もし三輪さんを助けられるとしたらあの人たちだ。だからといって感染の危険にさらすわけにはいかないだろ。これはみんなで納得して決めたルールのはずだ」
自分がNNBFを発症するかどうかは運次第、己の運がどうであれ関係ない非感染者は巻きこみたくない。いつだったか感染者同士で話し合ってそう結論を出したのだ。
治療にあたってくれている人間が突拍子もなく暴れる発症者によってかすり傷でもつけられようものなら、一瞬にして感染者の仲間入りとなってしまう。初期の頃にはそんなケースが何度もあった。
「んなことはわかってる! でも納得なんかできるはずねえだろうが! あんなにいいやつだったふーちゃんがこのままだと死ぬんだぞ? この世からいなくなるってことなんだぞ?」
三輪さんが死ぬなんてどうしようもなくおかしいことくらいおれだって知っている。自分が無力なガキなのもわかっている。水族館で感染したあの日以来、本当の意味でおれが選べたことなんて何ひとつないのも嫌になるくらい理解している。
そんなおれの視界に笹の木が映った。
願えば叶うのか。ならひたすら願い続けてやる。この一年、散々な目にあってきたんだ。せめてそれくらいは叶えてくれたっていいじゃないか。
踵を返し、三輪さんと市ノ瀬に近づいていったおれは彼らのすぐ手前で立ち止まった。無言のまま床にあった雑炊の器を手に取り、そして力のかぎり遠くへと放り投げた。強化ガラスに当たって跳ね返ったプラスチックの器は剥きだしになっているタイル部分に落ち、派手な音を立てて転がっていく。
「納得はしない。こんなのは認めない。何もかもが間違ってる」
久々に吐いた本心は震え声だった。
「でもどうにもできないのが現実だ。違うのかよ、市ノ瀬」
「なら勝手にあきらめてどっかに消えろ」
のたうつ三輪さんを横から抱きかかえている市ノ瀬の返事は辛辣だ。周りのみんなは市ノ瀬とおれのやりとりに気圧されているのか、誰も口を挟もうとしない。
もう用はないとばかりに市ノ瀬はおれから目線を切った。ふーちゃん、と幼い頃の名前を何度も呼び続けることで、どうにか三輪さんをこちら側につなぎ止めようとしている。
彼女の暴れ方が少し緩やかになった。NNBFの痙攣には個人差があり、ずっとギアが上がっていくだけの人もいれば、台風下のわずかな晴れ間のような時間をもらえる人もいる。ごくごくわずかな幸いにして、三輪さんは後者のようだ。
たぶん、彼女と話せるとしたらこれが最後になるだろう。




