表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/20

七夕セレナーデ 1

 三輪さんの熱は一晩中、40度を境にしてゆるやかな上下動を繰り返していた。

 女子と男子では割り当てられている居住階が異なっていたため、夜の看病を女子陣に任せるしかなかった男子陣は朝にそう報告を受けた。


 ひとまず痙攣が起こっていないことにはほっとしたが、まだ安心はできない。三輪さんが倒れた直後に駆けつけてくれた会沢医師も「発症かどうかは断定できないし、しばらく様子を見るしかない」と言っていたのもあって、おれたちはきりきりと胃の痛む日々が続くのを覚悟していた。


 と思いきや午前八時すぎ、おれたちが朝食を持ちこんでいたアトリウムに三輪さんがわりあい元気そうな様子で姿を見せたのだ。付き添っている工藤と神谷も、心配そうでいてどこか狐につままれたような表情だった。


 昨日の発症騒ぎで警戒しているのか、今朝はうちのグループ以外でこの場所にやってきている人間はいない。贅沢なことに貸切状態だ。

 取り囲んで口々に心配する男子どもへ、三輪さんはいつもの笑顔を見せながら両手でガッツポーズまで作ってくれた。


「心配かけてごめんなさい。もう大丈夫、げんきげんき」


 そう言って回復ぶりをアピールする。


「んなわけないから寝てろってあたしも注意したんだけどさあ、実際に熱を測ってみたら平熱にまで戻ってんだよ」


 怪訝そうに首を傾げながら神谷が言う。40度の熱が一晩で治ってしまうなんて、にわかには信じられない話だ。


「まひろちゃんは心配性なんだから」


 と三輪さんが言い終わるのと同じタイミングで、くう、と音が鳴った。見れば彼女の顔が真っ赤になっている。

 お腹が空いているんだね、などとは紳士なら口にしない。


「ちょっと食堂に行ってくるんで抜けるぞ」


 隣にいた市ノ瀬にだけ聞こえるようにささやいた。


「おれも付き合うわ」


 同様に市ノ瀬も小声で返事を寄越す。

 そのまま輪から抜けようとしたおれたちに、修介が「二人揃ってどこ行くんだ?」と声をかけてきた。


「悪いけどおれと西崎はちょっとトイレに行ってくるから、ちょっと待っててくれ。場所変えたりするなよ」


「リトルオアビッグ?」


「リトル、場合によりビッグ」


「うーん、たしかに誘発はありえるよな」


 リトルとビッグはわかるけどオアって何だ、と訊ねてくる坂本は誰にも相手にされていない。中学一年生からやり直せ。

 これだから男子ってのは、とあきれ顔の神谷が手でしっしっと市ノ瀬とおれを追い払う仕種をしていた。そんな神谷に工藤が抗議する。


「ちょっとー、まひろさん止めてくださいよー。市ノ瀬さんと修兄はともかく航センパイに対してひどいじゃないですかー」


「似たり寄ったりだとあたしは思うんだけど。ま、そうは言っても西崎はアホ男子どもの中じゃまだまともな部類だな、かろうじて」


「そりゃどうも。神谷だって坂本といい勝負だぞ」


「前言撤回。おまえ、戻ってきたら絶対しばくから」


 神谷と坂本、二人とも性格に裏表がなくさっぱりとしている。そんなニュアンスをこめての発言だったが、大事な箇所を全部端折ったのでは伝わるはずもない。

 ぷりぷり怒る神谷を三輪さんと工藤がなだめてくれているのを尻目に、市ノ瀬とおれは顔を見合わせて笑いながらアトリウムを出て行く。戻ってきたらちゃんと彼女に言い訳をしなくては。


 食堂は一階中央棟寄りの場所にあり、隔離されている患者や食事制限のある患者以外は決められた時間であれば自由に利用できる。おれたちは月初めにポイントを与えられ、そのポイント内で一ヶ月の食事をまかなわなければならない。言ってみればポイントはここの食堂でのみ通用するお金だ。


 当初は全員一律の食事配給だったのだが、半年ほど前に現在のシステムに切り替えられた。不満の多い食事状況を是正するため、というのが施設側からの説明だった。食事を各自に選択させることで溜まっている鬱憤をガス抜きできるとでも考えたのだろう。収容されている人数も発症に次ぐ発症によってその頃には激減していたし、施設側としては特に問題はなかったと思われる。


 支給されるのは一日につき10ポイント計算となっており、今月なら310が総ポイント数となる。おれは自分のポイントを使って三輪さんへの軽い食事を注文するつもりでいた。


「消化にいい食べ物じゃないとな。雑炊にするか、うどんにするか。なあ市ノ瀬、どっちがいいと思う?」


「風花の分はおれが出すって。おまえは神谷に何か買ってやれよ」


「なぜに神谷? さっきわざと怒らせたからか?」


「あいつは本当にケンタばりに単純だからな。食いもんでも与えときゃ機嫌なんてころっと直るぞ」


「まあ、おまえがそう言うなら何かあげとくよ。神谷はすぐ表情に出るから、からかうと楽しいんだよな」


「いい性格してるよ。まったく、どこがまともなんだか。工藤には会沢の眼鏡でもかけさせて視力を矯正させるべきだわ」


「あの子に男を見る目がないのは否定しないけど」


 メープルナットのフロアに白で統一されたテーブルと椅子。すっきりとした空間は食堂というよりカフェの趣だが、スペースはさすがに広い。市ノ瀬は雑炊を、おれはローストチキン入りの少々お高いサンドウィッチを買う。病棟の人数が少ないのもあって待つことはほとんどない。

 アトリウムへと戻る途中、市ノ瀬が呟いた。


「風花の熱が下がってくれて心底ほっとしたんだ」


 三輪さんの高熱を知ったあのとき、みんなの頭を最悪の未来図がよぎったはずだ。いつの間にかおれたちは心のどこかで「もう誰もNNBFで死ぬことはないだろう」と高をくくってしまっていたのかもしれない。油断して隙だらけだった首元へ、不意に冷たいナイフを突きつけられたような恐ろしさがあった。


 安心したのはおれも同様だが、三輪さんとの付き合いの長さは市ノ瀬とでは比べものにならない。彼の本音らしき言葉が聞けたことにおれもほっとした。


「いいねいいね。その調子でこれからは三輪さんにもっと優しくしてあげなよ」


「うっせ。ま、考えとくわ」


 三輪さんと話している市ノ瀬は、普段と違ってえらくぶっきらぼうになる。母親といるときの思春期男子とでも言おうか。実際、三輪さんには中学生離れした「お母さん」のような雰囲気がある。


 〈ユキザサ〉に収容されてまだ二ヶ月ほどで、毎日誰かが発症するのが当たり前だった頃の話だ。

 市ノ瀬やおれとはまた別の中学だった津野恭吾というやつがいた。きっかけはもう忘れたがいつの間にか親しくなり、アトリウムでのだべり友達となった彼は密かに三輪さんに恋をしていた。けれども津野は「少しでも彼女の声が聞ければそれだけで満足だし、いい日だったなって思う」と答えるような、一歩引いたところのある少年だった。


 津野の気持ちは市ノ瀬も知っていた。だからこそ、おれたちの目の前で津野が発症したときに誰よりも早く駆け寄った三輪さんを止められなかった。津野が息を引き取るまでの永遠のような五分間、三輪さんは彼の手を握って声をかけ続けていた。最期まで手を離さなかった彼女は、破裂して飛び散った津野の血の塊を全身に浴びた。


 きっと三輪さんは津野の気持ちには気づいていなかっただろう。彼女はそういう人だ。誰とでも分け隔てなく接し、柔らかく笑う。推測でしかないが、おそらく津野は穏やかに逝けたのではないだろうか。そうであってほしいと心から願う。

 誰かが発症したなら、意思とは関係なく肉体が暴れ回る発症者を何とか拘束し、後は遠巻きにして見守るのがその当時の病棟における流儀だった。おれの知るかぎりではただ一人、三輪さんだけが気高く、誠実に死者を見送っていたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ