天の川は遠すぎる
天の川は遠すぎる。
力強く地面を蹴り、宙を見上げながら何となくそんなことを思った。
ふわりと浮き上がった身体は抜けるような青空へとわずかに近づき、しかし数瞬ののちにはマットへと沈んでしまう。乾いた音を立てて転がったバーとともに。
「また失敗ー。これで三回連続ですよ、航センパイ」
一人きりの観客がいかにも楽しそうに野次を飛ばしてきた。工藤茅紗、彼女は陸上部の一年後輩だ。
体を起こしたおれは再びバーをセットし直す。自己記録の1センチ上へ。
先頃行われた中学生活最後の大会となった市総体で、自己記録を更新できなかったことを柄にもなくいまだ引きずっていた。不完全燃焼というやつなのだろうか。専門としていた走り高跳びにそれほどの情熱を注いでいたわけでないにもかかわらず。
期末考査も終わったばかりのこの日曜、代替わりを済ませた我が角枝中学陸上部は他の中学校へ赴いて合同練習を行っており、いつものトラックは引退したはずのおれが独り占めだ。
400mの選手である工藤も負傷のためチームには帯同せず、どういうわけかおれの身勝手な練習というか挑戦に付き合ってくれている。
大股で十歩分、緩やかな弧を描くように助走の距離をとりながら彼女に言う。
「せっかくの七夕なんだ。手持ち無沙汰でこんなところにいるよりも、短冊に願いごとでも書いてた方がよほど有意義じゃないか」
よく晴れた今日であれば織姫と彦星も再会できる。
ならきっと、地上で暮らす人間たちのちょっとしたお願いくらいは気前よく聞き入れてくれるだろうさ。
けれども工藤は笑顔のままで手を横に振った。
「いいんです、わたしの願いごとはもう叶ってますから。とてもささやかなものなので」
そして「センパイ、もう一本いきましょう」とゆっくり手拍子をとり始める。
背中を押されるようにして右足が自然と前に出た。
三歩目で確信する。今度はいつになくリズムがいい。
テンポが上がっていく工藤の手拍子に合わせ、おれの助走も勢いを増す。バーの右側から回りこむようにして最後は左足で踏み切った。
ほんのわずかな間だけ、おれは空へと吸いこまれていくような錯覚に捉われてしまう。でもこの感覚がとても好きだったからこそ、お世辞にも才能があるとは言えない走り高跳びを続けてきたのだと今さらのように理解した。
高校で陸上をやるつもりはないから、きっとこれが最後のジャンプだ。天の川にだって少しは近づけたはずだ。
背中も腕も両足もバーに触れることなく、一瞬だけ宙に浮いたおれの身体はゆっくりとマットへ落下する。
「やったやった、記録更新ですよ! やりましたねセンパイ!」
耳にかかるくらいのショートカットを揺らしながら、喜色満面といった様子の工藤がすぐに駆け寄ってきた。
跳んだ当の本人よりもうれしそうなのはいったいどういうことなのだろう。
いや、理由はわかっている。わからない振りをするのはフェアじゃないな。
「ちょっとー、せっかく自己ベストを出したんですから、ガッツポーズをとったりとかしてもう少し喜んでくださいよー?」
そう言っておれの顔を覗きこんできた彼女が両手を差しだしてきた。「引き起こしてあげますよ」というサインだ。右腕を引っ張ってもらって起き上がったおれはそのままマットから下りる。
「なあ工藤。少し気が早いけど、おまえ夏休みの予定ってどうなってる?」
途端に彼女がにやにやとした笑みを浮かべる。
「えー、いきなり何ですかそれー。もしかしてデートのお誘いですかあ?」
「そうだよ」
あっさりと頷いたおれとは対照的に、先ほどまでのはしゃぎようはどこへやら、一目でわかるほど工藤は体の動きがぎこちなくなってしまった。
「ほら、新しくできた水族館の話を何度もしてただろ。新納マリンパーク。よかったらあそこに二人で行ってみたいなと思って」
どうかな、と訊ねて彼女からの返事を待つ。
しばらくお互いに無言の時間が続いた。
そしてようやく、黙ったままの工藤が首を小さく縦に振るのがわかった。