迷宮に籠る
「つまんないつまんなーい!」
「やかましい。気が散る」
甲高い声でダダをこねる少女に、前を歩む巨大な背中が不機嫌に応じる。暗闇の中、蝋燭のかすかな明かりに照らされた石の壁の間を窮屈そうに進む、どことなくくたびれた背中。ゆらゆらと揺れるその背中について歩きながら、少女はむくれる。
「だーってミノたん、ちっとも遊んでくれないじゃない?」
「ミノたん言うな!俺は午後テレビの前に座る奥様の味方かッ!」
勢いよく振り返ったその顔は、明らかに人の顔ではなかった。縦に伸びた鼻筋、巨大な瞳、濡れた鼻先、頭頂部から左右に伸びた角。それは怒り狂った牛の顔だったのである。
隆々たる筋肉を供えたたくましい上半身の上に載っている、牛の首。蝋燭に照らし出された下半身は、人の足ではなく、蹄を供えた太い牛のそれだ。アンバランスな組み合わせをしたその姿に、少女は怯える風もなく腰に手を当てて胸を張った。
「いーじゃん。新境地開拓よ、新境地開拓!」
「…アホらしい」
一言の元に斬って捨て、ミノタウロスは蝋燭を持った手で器用に肩をすくめた。「どう見ても英雄に討たれる側だろう、俺は」
「…っていう割にこの迷宮のメンテをこまめにやってるミノたんなのであった」
少女の放ったからかい文句に、ミノタウロスは面白くなさそうに鼻を鳴らす。
ふいごのような音と共に、荒っぽく生臭い風が蝋燭の炎を揺らした。
「…これから俺を討ちに来る勇者が、『迷路が途中で崩れてて奥まで進めませんでした』じゃお話にならんだろうが。…それに」
ふと足をとめたミノタウロスの足元には、見るも無残な光景があった。色あせ朽ちた布地に白く転がるいくつもの塊。
「…可哀そうに。もう少しで奥まで来られたものを」
長い髪と装飾品から、嘗て「女」だったのだろうそれを見下ろし、彼はため息をついた。生贄としてこの迷宮へ放り込まれ、さまよううちに力尽きてここで斃れたのだろう。少女も痛ましげに眼を閉じる。
「ミノたんに会えたら、逃げられたのにね」
「…たとえ俺の部屋までたどり着いても、俺の顔を見てショックで気がふれていたろうよ」
悲しく呟いたミノタウロスは、手にした袋に丁寧に「女だったもの」を入れると、優しく担ぎ直し、来た道を戻り始めた。少女は彼を見上げ、眉を寄せる。迷宮の奥で己を討ちに来る勇者を待つ、孤独な怪物の背中。
「…ミノたん!」
少女は大きな背中を呼びとめ、叫んだ。
「アタシ、勇者なんか来なきゃいいって思ってる!だってアタシ、もっとミノたんと遊びたいもん!ミノたん、いい奴だもん!」
ミノタウロスは静かに歩みを止めると、蝋燭を少女の方に向けて、ぼそりと呟いた。
「ミノたんミノたん言うな」
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「迷宮に籠る」 了