page.3 エリスと黒猫
翌日、10の刻を過ぎた頃、サンドラの街の商店街。鼻唄を歌いながら道を行く、一人の少女の姿があった。
足取りは軽く、スキップをしている様。その顔には満面の笑み。
我輩の旧友テルセウが娘、エリスである。
そして我輩はそのエリスの両手に抱えられ、胸元からぶら下がっていた。
「ご機嫌であるな、エリスよ」
「うん!キーチちゃんと御使いに来れて、嬉しいよ!」
何故、我輩がエリスの御使いに同行しているのかと言えば…
朝、久し振りの暖かい夕げと寝台に、さわやかな目覚めを迎えた我輩。
寝台の上で前足を伸ばし、次いで後ろ足を伸ばし…欠伸する……くぁあふ……
「うむ。良き朝であるなぁ」
今日はお嬢をギルドに連れて行く予定であったのだが……お嬢を見れば、まだ夢の中である。
その寝様は、正直に言って、見れたものではない。
詳細を述べる事は、彼女の、女性としての尊厳に深い深い傷を付けてしまうので伏せておくが…
一つだけ言うならば、寝間着が、寝間着の役割を果たしていない…
とだけ言っておこう。
いや、普段はここまで酷い寝相ではないのだが…やはりお嬢も久々のベッドで、リラックスし過ぎたのであろう。
さて、このお嬢、只でさえすこぶる寝起きが悪い。夜営の時や、敵襲があればその限りでは無いが、昨日は結構な量の酒精を採っていた様であるし、目覚はまだ先であろう。
食事を採りながら待つか…そう決めた我輩はお嬢を放置し、一階へ向かう事に。
ドアの前まで来ると軽く跳躍し、ドアノブに肉球を引っ掛けてドアを開ける。
ふふふ…我輩、コレくらいは正に朝飯前である。
一階、食堂にて…テルセウ達と挨拶を交わし、朝食を馳走になっていた所に、トコトコとエリスが歩み寄って来る。
因みに朝食は鮭の切り身にサラダ、そして定番のミルクである。
「おはよう、エリスや」
「おはようございます!キーチさん」
我輩から挨拶をするとエリスも元気に返してくる。
どうやら昨日は緊張しておったようだの。今は無駄な力が抜けて、自然な態度で接して来てくれているようである。
そして、空いた皿等をかたずける作業に戻っていくエリス。
しばらくして、我輩が食事を終えるが、お嬢は起きてこない…
これは、無理矢理にでも叩き起こすべきであろうか…
…具体的には、頭の上で熱湯入りの水風船を破裂させる。とか、顔の上に座り込んで、呼吸を阻害する。等の方法で。
因みにどちらの方法も、過去に実践しており、その効果は保証付きである。
但し、どちらの方法にせよお嬢が起き抜けに暴れ出すので、我輩以外の方にはオススメ出来ないのが欠点だ。
「あの、キーチさん?」
そんなどうでも良い事を考えてもいると、給仕が一段落したらしいエリスが話しかけてきた。
「む。どうしたエリス?」
「あの、今日は何処かに行く予定がおありですか?」
「うむ。お嬢をギルドに連れて行く予定であったが…あやつ寝起きが悪くての。一体何時まで寝ているつもりなのか…」
そこでテルセウが会話に割り込んでくる。
「なら調度良いキーチ、今からエリスを買い出しに出すとこだったんだ。悪いんだが、お前着いていってくれねーか?」
うむ。それは構わぬが…
「レヴィさんが起きてきたら、私から伝えておきますよ」
と、我輩の意を汲んだようにハンナ殿。
どうやら二人とも、エリスに息抜きをさせたいらしい。
エリスが我輩とゆっくり話が出来るようにと、お膳立てしたのだ。
我輩も、それを察して了承の言葉を口にする。
「ならば、頼まれよう。ハンナ殿済まぬな、だらしがない相棒で」
「此方こそすみません。キーチさんはお客様なのに、無理を言ってしまって」
「いいの!?おとうさん、おかあさん!」
「ああ。キーチが一緒なら、安心だしな。そんな急ぎの用事でも無いから、ゆっくりしてきな」
余程嬉しかったのか、花が咲いたように笑う、エリス。
「はい!キーチちゃん、私、支度してくるね!」
という次第である。
考えても見れば、忙しい宿の手伝いなどしているのでは、友人と遊んだり、と言う時間も余り取れないのでは無いのだろうか。
家業とは言え、エリスの齢を考えると少々酷な話な気もする。
かくいう我輩も、昨日はテルセウと話が込みすぎて構ってやれなかったのである。 今日位は、と言うテルセウやハンナ殿のおもんばかりでもある事だし、我輩としても精一杯、楽しませてやりたいものだ。
「私ね、おとうさんからキーチちゃんのお話を聞いて、いつか私も会って、お話してみたかったんだ!」
そう言えば、いつの間にか『キーチさん』が『キーチちゃん』になっておる。
まぁ、エリスの呼びたいように呼ばせよう。
「うむ。エリスとこうして出会ったのも縁の導きである。我輩も、この出会いに感謝し、嬉しく思うのであるぞ。」
「ホントに!? えへへ…」
喜色満面のエリス。思えば、何時まで経っても起きやしない残念な相棒との予定など、この笑顔の為を思えばどうでも良い。正に、些末事である。
「あ、キーチちゃん、ここが市場だよ。えーと…まずはお野菜だね。マールさん!こんにちは!」
八百屋の前で立ち止まり、元気に挨拶するエリス。本当に良く出来た娘である。
「こんにちは!エリスちゃん。今日も元気だね。…ん?今日は一人で御使いかい?」
「ううん!キーチちゃんと一緒だよ。お客様の従魔さんなの。すっごく賢いんだよ。人とも話せるの」
……うぬ。我輩、自己紹介とかした方が良いのだろうか…余り目立ちたくはないのだが…ここは一つ、エリスの顔を立てるか。
「マール殿、であったかな?我輩、キーチと言う。エリスの友人である」
「猫が喋った!?」
まぁ、当たり前の反応である。
「猫だけど、従魔さんなんだってば。すごいでしょ?」
と、エリス。
「…へぇ〜。話をする従魔を初めて観たよ。それに、こんなに可愛らしい従魔もいるんだねぇ」
うむ。話が出来る従魔は珍しくは無いが、流石に唯の猫を従魔にするテイマーはそうそう居ないであろうからな。
エリスがメモを片手に野菜を集め始めると、我輩は一旦地面に降りる。
「キーチちゃん。この子と仲良くしてやっておくれよ?こんなに小さいのに、一生懸命に家の手伝いしてさ、良い子なんだよ」
マール殿がそう、我輩にだけ話し掛ける。
「うむ。我輩出来る限り、気に止めよう。あまり我が儘も言わぬ様な娘であるしな」
「本当に賢い猫だね。それに、良い人だね、あんた。いや、良い猫か」
そう言って相好を崩すマール殿。購入した荷物は風呂敷に包み、我輩が背負う。
よほど、エリスは周囲の人々に好かれているのであろう。
マール殿だけではない。行く先々の店で、皆がエリスを見ると顔を綻ばせ、彼女を宜しく頼む、良くしてやってくれ、と我輩に声を掛けてくるのだ。
まぁその前に猫が喋る事に、まず驚かれるのだが。
これは一重に、彼女の人徳であろう。その無垢な笑顔は、人々の心に癒しをもたらし、小さな体で懸命に日々を生きる姿は、感銘を与える。
そして、彼女が人を慕う様に、人も彼女を愛するのである。
「エリスは、皆に愛されておるな。」
独り言の様な我輩の言葉に、エリスは微笑む。
「私も、みんなが大好きだよ。マールさんも、お肉屋のテトおじさんも、果物屋のシルルさんも、それに、おとうさんも、おかあさんも、レヴィお姉ちゃんも、キーチちゃんも!」
そう口にした彼女の笑顔。そのなんと美しき事か。
不意に、昔を思い出してしまったのである…
かつて同じように我輩に笑顔を向けてくれた者がいた事を。
それは、我輩が今より更に未熟者であった、はるか昔の、未練。
未だに、我輩の中に燻っていた、後悔の念。
「…キーチちゃん、荷物重い? 半分持とうか?」
急に押し黙った我輩を心配したのだろう。エリスが声を掛けて来る。
…いかんな、幼子に心配されるなど…まだまだ未熟な証拠である。
「すまぬ。少し、考え事を…」
していた。と、そう我輩が口にしようとした矢先、進行方向から悲鳴が上がった。
そちらからは露店の店主らしき男の怒号と、それを背に此方に向かい走ってくる男の姿。
「万引きか、強盗であるか…?」
このままでは、すぐ鉢合わせになるのである。
「エリスよ。ここに居ると危険である。脇に避けよ」
「え…え??、え?!」
いかん、軽くパニックになっておる。
「退きやがれっ!ガキィ!!」
「ひっ…!」
遅かったか。男が目の前に表れ、あからさまな敵意を向けられたエリスが、その場にへたり込む。
「エリスちゃん!」
群衆の中、マール殿の悲痛な声が聴こえる。
…心配召されるなご婦人。この我輩が側にいる限りは…エリスには、指一本触れさせぬ。
「不届き者よ、下がるが良い。貴様のせいでエリスが怯えておるではないか。」
「!?…ね、猫!?」
「少し、寝ておれ」
風呂敷を地面に降ろした我輩は、その場で跳躍。更に露店の柱に後脚をたわめ、男に向けて飛燕のごとく、跳ぶ。
そして男と交差。その間、まさに一瞬。
姿勢制御で勢いを殺し、地面に降り立つ我輩。次いで、意識を失い、崩れ落ちる男。
「い、一体、何が…」
追い付いて来た露店商が、現状を把握できずにあたふたし始める。
並みの動体視力では、ただ我輩が男とすれ違ったようにしか見えなかった事であろう。
まぁ実際、すれ違い様に首筋を優しく撫でてやっただけであるが。
「ただの峰打ちである。気を失っているだけであるよ」
そう、峰打ちである。爪は出していないのだから。
「主人よ。このまます巻きにして、憲兵にでもつきだしてやるが良い。」
そう言うと返事も聞かず、我輩はまだへたり込んだままのエリスの元へと戻る。
「すまなんだ、エリス。怖い思いをさせたな。もう、大丈夫である」
努めて優しい口調でエリスに話し掛ける。マール殿も、彼女を心配し駆け寄る。
「エリスちゃん!怪我はないかい?」
「うん…大丈夫だよ。ありがとう、マールさん。…キーチちゃん、今、なにしたの?」
まだ少し、落ち着かぬ様子のエリス。これは早く家まで送るべきであるな。
「なに、騒がしかったので、少々眠って貰っただけである。怪我もさせておらぬよ」
我輩がおどけてそう答えて見せれば、ようやく安心した様である。
「ありがとう。キーチちゃん、強いんだねぇ…」
「ホントに、大した猫だねぇ…何したのかも解んなかったけどさ…従魔って言うだけあるねぇ」
大した事ではない。この様なチンピラ程度、物の数に入らぬ。さて…
「ご婦人よ。我輩はエリスを送るとしよう。後の事は、よしなに…」
そう告げて、その場を去ろうとした我輩であったが、マール殿に呼び止められた。
「お待ちよキーチさん、これは、エリスちゃんを守ってくれたお礼だよ。とっといておくれ」
そう言って差し出されたのは、店の売り物であろう、袋に入った大量の…マタタビの実。
…我輩が、猫だからであるか?
数分後、中身が増えて大きくなった風呂敷を背に抱えた我輩と、その横を歩くエリス。月明の仔猫亭への帰路である。
我輩の口には先程頂いたマタタビがくわえられている。
我輩の身体には毒にも薬にもならぬが、折角のマール殿のご好意であるからな。
「…ねぇ、キーチちゃん」
「うむ。何かなエリス」
エリスがなにか、聞きたそうに、だが、迷うように我輩に語りかける。
「さっきの男の人…」
先程の、強盗犯の事であろう。
「うむ。あの男がどうかしたのか?」
「何で、あんな事したのかな…?」
…ふむ。難しい問いであるな…
人が犯罪に手を染める理由等、実に様々である。我輩は、エリスに言い聞かせるように、ゆっくりと語る。
「エリスよ。我輩、これまでにも世界中を旅して、様々な国を見てきた。中には、この国ほど裕福ではなく、民がその日の食べ物にも困るような、そんな国もあった。そして、そんな国では先程の様な犯罪が頻発する。理由は、解るな?」
「そうしないと、食べられない、から?」
「うむ。そして、食べられなければ、人は生きてはゆけぬ。故に彼等は犯罪に手を染める」
我輩の言葉に、エリスは悲痛な表情を浮かべる。
そんな国があり、そんな生活を送る人々がいる事を初めて知ったのであろう。
無理もない。普通の一般市民はその国に産まれ、生涯をその国で生きる。他国の内情など、知らなくて当たり前なのだ。
「じゃあ、あの男の人も…?」
我輩はエリスのその問いに、首を横に振る。
「…あの男は健康で、五体満足。そしてこの街であれば、働き口はいくらでもある。そうであろう?」
我輩の問いに、頷くエリス。
「でも、じゃあどうして…」
「それは、あの男が弱かったからである」
我輩の答に、今度は疑問符を浮かべる。
「だってあの人、身体も大きくて、とっても強そうだったよ?」
「肉体的な話ではなく、心の強さが、である」
一拍置いて、更に続ける。
「あの男は、心が弱かった。故に強盗という、安易で楽な手段に及んだのである」
人間とは、弱き生き物である。辛い道と、楽な道、二つを提示されれば、例えば、それが道徳的に間違っていると知っていても、楽な道を選ぶ者もいるのだ。
これは我輩の持論であるが、人の一生とは、重き荷を背負い、永き道を生きて行くものである。その道中は決して易しいものでは、ない。故に、心弱きものは、時に道を違えるのである。
我輩は、エリスに問いかける。
「エリスは、日々を、日常を辛いと考えたことはあるか?」
彼女は少し考えて、答える。
「家の手伝いは、時々、大変だな、忙しいなって、感じる時もあるけど…でも、私は幸せだよ。おとうさんもおかあさんも、マールさん達も。皆がいつも側に居てくれて、悪い事をしたら叱ってくれて、だから、毎日が楽しい、って思えるんだと思う」
その答に、我輩は笑みを浮かべ、相槌を打つ。
「うむ。その繋がりが、エリスの心を守り、強くしているのだ。だから、日の当たる道を、胸を張って歩ける。そして、同じように、エリスも皆の支えとなっているのだぞ」
人は一人では生きていけぬとは良く言われるが、正にその通りであると、我輩は考えるのだ。
「そっか…じゃあ、あの男の人は…可哀想な人だね…きっと、周りに支えてくれたり、叱ってくれる人が、居なかったんだよ…」
…この少女は優しい。先程、自らを害そうとした犯罪者にまで、その思いを馳せる程に。
それはまるで、人をあまねく照らす太陽にも似て、眩しく、されど優しく、心に射し込む柔らかな光。
「キーチちゃんは…」
「うむ?」
「キーチちゃんは、そんな事にならないよね?あの男の人みたいに、ならないよね?」
すがるような表情のエリス。確かに我輩は、旅から旅の根なし草であるからな。
我輩は苦笑いしながらも、迷うことなく、答える。
「我輩は、エリスを悲しませるような事はせぬよ。決してな。それに、テルセウもハンナ殿も、マール殿も皆だ。ついでに、お嬢も、な」
「うん…そうだよね!」
ようやくエリスに笑顔が戻る。やはり、この子には笑顔の方が似合うのである。
時計の針が12の刻に迫っていた。
「そろそろ、帰るとしよう。流石にあの寝坊助も、起きている頃であろうからな」
「うん!」
エリスが笑いながら応え、宿へと続く道を走る。
そう、あの太陽を写した様な笑顔に触れ、それに陰りを差してまで、道を外れようと思う者は居まい。
太陽が失われる事など決して、あってはならぬのである。
道端に 美しく咲く
向日葵の
日に胸を張る
大輪の花
テルセウの子よ、歩んでゆくのである。
日の当たる道を。