page.17 エリスの涙と枯れた若木
「……結局、後手になった上に、逃げられちゃったね」
悔やむ様に、グーシオンの消えた空を睨み、そう呟くお嬢。
街に現れたイビル・クランは逃げ去り、時刻は間も無く昼に差し掛かろうとしている。
普段であれば道行く人々に溢れ、賑わいを見せる市場の大通りは、今日ばかりは人の影も無く、露店や建物の一部は破壊され、まるで廃れた廃村の様である。…人の多い街中で、死者が出なかったのが不幸中の幸いであったな。
「…うむ。だが、これで敵の狙いは我輩達に定められた。後は望まずとも、彼方から接触してくるであろう。気を引き締めるのだぞ、お嬢」
「うん。……あれが、イビル・クランか…人の、カンナギ流の、宿敵…」
思えば、お嬢はこれが初めてのイビル・クランとの接触であったな。直にその存在に触れ、何かを感じ取ったのか、暫くそのまま物思いに暮れるお嬢。
「お嬢よ、今回のそなたの働きは悪く無かった。初めて奴等を相手どったにしては、上手く立ち回ったのである。我輩の到着を待ったのは正しい判断であったぞ」
「…実は、ダエーワに殴りかかろうとして、後ろのエリスを人質に取られただけ、なんだけどね…」
自嘲気味に、乾いた笑みを浮かべるお嬢。根拠が無くとも自信に溢れるこの娘にしては、珍しい顔だ。
「キーチが来なかったら、エリスも助けられなかったかも…そう考えたら、ね」
「ふむ。状況判断を誤り、エリスを危険な目に合わせてしまった事を悔いているのか? しかし、エリスがこの場に居合わせたのは不幸な偶然の重なりでもある。反省は絶対に必要であるが、過ぎた事を気に病み過ぎるのは良い事ではないぞ?」
「…うん、ありがとうキーチ」
そこで漸く空から視線を切り、此方を振り返るお嬢。表情を見る限りでは、少しはいつもの調子が戻ったかな?
「うむ。…さて、後始末をせねばなるまい。奴らめ、石畳にまでこの様な大穴を空けていきおって…」
「いやいやいやいや、それは、アンタが空けた穴だよね!?」
お嬢が何か抗議している様な気もするが、まぁ気のせいであろう。
「まったく、迷惑な輩であるな。石畳に頭突きなどしおってからに……しかし、ぼろ雑巾の方はともかく、あのグーシオンは厄介である…」
「アンタ、良い性格してるわ…知ってたけどさ………因みにその台詞は、キーチにしたらダエーワなんか敵じゃないって意味?」
お嬢が若干頬をひきつらせながら聞いてくる。
「そう言う訳では無い。あやつとてイビル・クラン。先程は不意打ちで無力化したが、街中でまともにやり合えば、それなりに手を焼く相手であろうな」
何せ、我輩も街中では本気を出せぬ。だだっ広い屋外ならば、あの様な小童、相手にもならぬが。
「じゃあやっぱり、ダエーワだって厄介じゃないの。せめて、アイツだけでも仕留めて置きたかったわね…」
「だから、そう言う問題ではない。あのぼろ雑巾なら、暫くは戦線に復帰出来ぬ。と言う意味である」
「は? それってどういう事? イビル・クランて、腕くらい直ぐに生えてくるんじゃないの?」
お嬢の言う事は正しい。正確には生えてくるのではなく、有り余るエーテル、つまりは自身の生命力を用いて再生させるのだ。
かつて我輩が戦った上級眷属には、首を飛ばしても滅びぬ者すら居たのである。
そこで我輩は、ダエーワに少々細工を施していたのだ。
「うむ。万が一逃げられた場合を考慮し、遅効性のアンチエーテルを大量に打ち込んでおいたのだ。ぼろ雑巾がそれで生きるか死ぬかは解らぬが……まぁ、今晩辺りが山であろうな」
よしんば生き残ったとしても、暫くは痛みと苦痛で再生するどころでは無いであろう。くっくっく。
「……………………………………黒いわー」
「うむ、我輩は自他ともに認める黒猫である」
「いや…腹ん中が黒いって話なんだけどね?……もしかしてアンタ、人に化けた時のその真っ黒けっぷりも、それを反映してるんじゃないの?」
「はっはっは。言うではないか。残念お嬢の癖に」
「…誰が残念だっ!この腹黒猫がっ!!」
その後、肉体言語でもって話し掛けてくるお嬢をひとしきりいなし、最後に眉間への指弾で沈静化させる。
うむ。どうやらすっかり元の調子を取り戻したな。これで一安心である。
市場の大通りで、眉間を抑えて転げ回るお嬢。その姿は誰が見ても残念な娘にしか映らぬであろう。
そんなお嬢を放置して辺りを見回すと、テルセウ達が此方に向かってくるのが確認できた。
我輩は、彼等が此方に気が付く前に猫の姿へと戻る。テルセウとは人の姿でも面識はあるが、今はエリスやハンナ殿を混乱させるやも知れぬしの。
「キーチっ…終わったのか?……って、レヴィちゃんっ!どうしたっ!? どっか怪我したのか!?」
地面を転がり続けるお嬢に、まずテルセウが声を掛ける。
「うむ、己が未熟さを噛み締めている所である。放置で頼む」
「そ、そうか…」
それだけで何かを悟ったのか、無理矢理納得した風を装うテルセウ。我輩との付き合いが長いだけの事はある。
「で、イビル・クランはどうしたんだ?」
「思わぬ伏兵がおってな…残念ながら、取り逃がした」
「そうか…まぁ、二人とも無事で何よりだ。見た所、街の連中も怪我人だけで済んだみてぇだしな」
うむ。確かに、それだけは幸いであった。我輩も、街中を駆け回った甲斐があったと言うものである。
――――――――――
「………レヴィお姉ちゃん、大丈夫?」
暫くして、大通りに人がまばらに姿を見せ初め、壊された露店のかたずけ等が早速始まる。テルセウもその作業に加わっていた。うむ、イビル・クランが去ったばかりだと言うのに、たくましい街であるな。
そして大通りの片隅、未だに眉間が痛むのか、エリスに介抱されるお嬢の姿があった。
「だ、大丈夫…大分痛みが引いてきたから……あっの黒服野郎…絶対にいつか、泣かしてやる…」
「…黒服?」
「あ、何でもないわ。それよりエリス、御免なさい。私の不注意で、あなたに恐い思いをさせて…」
怪我は無かったものの、エリスの心に恐怖心が刻まれたのではないかと、お嬢は心配している様子だ。
「大丈夫だよ、信じてたもん。お姉ちゃんが助けてくれるって」
「そ、そう?」
「うん!ありがとう、レヴィお姉ちゃん」
返事をしたエリスに、無理をしている様子は無い。お嬢よ、この子はこう見えて、強い心を持ち合わせているのだぞ?
「私からも、お礼を言わせて下さい。レヴィさん、この子を助けてくれて、ありがとう。この子に何かあったら、私は自分を責めずには居られなかったわ。…本当に、ありがとう」
その万感の思いが込められたハンナ殿の感謝の言葉に、返す言葉も持たずに立ち尽くすお嬢。彼女自身、感謝されるような事をした、と言う実感が持てぬのであろう。
と、そこへようやく登場した憲兵達が、街の各地で捕縛されたチンピラ達を連行しながら通りかかる。どうやら、無事に全員お縄に着いた様であるな。
我輩の傍ら、それを遠巻きに眺めて、なにやら複雑そうな顔をするお嬢が居た。
「どうしたお嬢? あのチンピラ達に同情でも覚えたか?」
「まさか。…ただ、考えてただけ。アイツらもイザーク達みたいに、誰かが気に掛けてやってたら、こんな事件も起こらなかったのかな…って」
ふむ…確かにそうかも知れんな。彼等がここまで道を外してしまう前に、誰かがそれを正してやれば、違う未来も存在したのであろう。
…しかし、それは仮定の話であり、現実の彼等の先行きは暗い。
傷害に器物破損、酷い者では殺人未遂。そして何よりもエッジ。彼が犯した、イビル・クランと接触を持ち、街にそれを招き入れたという罪はあまりにも重い。
彼自身もエーテルが抜けた今、それを理解しているのであろう。虚ろなその瞳に光は無く、力無く連行されるその姿は、生きる事に疲れた老人の様にも見えた。 人々も彼を遠巻きに眺めるだけで、声を掛けようとする者は居ない。
だが、それも仕方の無き事。真っ当に生きる事から逃げ、安易な生き方ばかりを選択し続けた、エッジ自身の責任である。
…しかし、そんな中ただひとり、彼に近づく者が居た。
彼女はエッジの姿を認めると、迷いもせずに彼に向かって駆け寄ったのだ。
「エリス!? ダメっ!戻りなさいっ!」
悲鳴の様なハンナ殿の制止の声が響くも、彼女…エリスの足は止まらない。
我輩やお嬢が止める間も無く、エッジの眼前に立ったエリス。
何をするかと思えば、おもむろに腕を振りかぶり、それを思いきり振り抜いた。
小気味の良い『パチンッ』と言う音を響かせ、エッジの頬を叩いた小さな掌。慣れぬ事をしたせいであろう、打たれたエッジの顔はともかく、打ったその掌までも赤く染め上げ、痛々しい事この上ない。
その突然のエリスの行動に、周囲の人々も、エッジ達を連行していた憲兵も、ハンナ殿やお嬢ですら、ただ呆気に取られてそれを眺めていた。
我輩は静かに、事態の推移を見守る事にする。
「…何で?」
「………え?」
静かな口調だが、ハッキリと耳に届くエリスの声。その声色は間違いなく、怒りを含んでいた。
「何で、こんな事したの!? …ばかぁ!!」
それは幼い弾劾の言葉。彼女は、街に被害を与えた元凶であるエッジを非難する為に、この様な行為に及んだのだ。
…と、周りは考えたであろう。しかし、それは勘違いと言う物である。
「何でっ…て…」
エッジが口ごもるのは当然であろう。彼がこの事態を引き起こした事に、まっとうな理由など、存在しないのだから。
「あんな事して、街がどうなるか考えなかったの!? お店を壊して、皆に怪我させて! レヴィお姉ちゃんや、キーチちゃんが居なかったら、誰かが死んじゃったかも知れないんだよ!? そんな事になったら、誰かがすっごく悲しむ事になったんだよ!? あなたを許せなくて、ずっと苦しむ事になったんだよ!? そしたら、あなただって今よりもっと、すっごく後悔する事になったんだよ!? 一生許されないまま、苦しまなきゃいけなかったんだよ!?」
いつしか、エリスは涙を流していた。
それは人質に取られ、ナイフを突き付けられても泣かなかった強き娘が、自らを殺しかけた男の為に流した、純粋な涙。
エリスの、言葉にしきれぬ思いが溢れ出した、あまりに透明な、やさしい涙であった。
「皆に迷惑かけて、自分だけが全部が終わっちゃったみたいな顔して、そんなのズルいよ!卑怯だよ!ちゃんと、皆に謝って!! 皆が、あなたを許してくれるまでっ!!」
そこまで一気に言い切ると、緊張の糸が切れたのかその場に崩れ落ちるエリス。
「エリスっ!」
弾かれた様に、直ぐ様駆け寄ったハンナ殿が、その肩を抱き締める。その間もエリスの瞳からは涙が零れ続けていた。
「お、俺っ…俺は…」
茫然と立ち尽くすエッジ。エリスの言葉と、その涙に彼は何を感じたのか。
彼もまた、人目も憚らず泣いていた。お嬢の拳より遥かに痛みを覚えたかの様に、打たれた頬を抑えながら。叱られた子供の様に。
「エッジとやらよ」
「……黒猫…」
我輩の声に反応し、涙と鼻水でグシャグシャの顔をあげるエッジ。
「我輩は本来、お前達の様な大たわけ者に掛ける言の葉など持たぬ。だが、お前達はこの娘の涙に報わねばならぬ。エリスの言の葉に、少しでも己を省みたのならば、そのままその下らぬ生を全うする事は、我輩が許さぬ」
「…………」
押し黙るエッジとその仲間達の目は、エリスの言葉を聞いた時から徐々に生気を取り戻しつつある。しかし、その表情に表れるのは後悔や不安、そして迷い。
誰かが導いてやらねば、エリスの与えた一筋の光さえ、彼等は直ぐに見失ってしまうであろう。それでは、エリスがあまりにも報われぬ。
「……今のお前達は例えるならば、枯れてしまった植物である。葉を腐らせ、太陽を浴びれずに、蕾を落としてしまった若木である」
その言葉に彼等は俯き、今更ながらに自らの行いを悔やむ。
「しかし、植物とは根が腐らなければ何度でも生き返る。その度に脈を伸ばして葉を広げ、太陽を浴び養分を蓄え、そして花を咲かせるのだ。それは、人も同じ」
エリスならば今はまだ根を張ろうと努力している段階。お嬢は丁度、光を浴びようと葉を伸ばしている最中、と言った所か。
その努力こそが、生きると言う事である。
「解るか? 我輩は、お主等も同じだと言っておる。お主等が腐りかけさせた根を、エリスが蘇らせたのだ」
チンピラ達の視線が、エリスに集まる。
母に抱き締められた、年端もいかぬ少女の姿。小さな身体で日々を懸命に過ごし、道を真っ直ぐに生きるエリス。
今の彼等には、さぞ眩しく映るであろう。
「…その先はお主等次第であるが、お主等の場合は特に、楽ではないぞ。 腐った根を捨て、日の当たらぬ場所で脈を伸ばさねばならぬ。その行程は、いつ終わるとも知れぬ地道な作業になるであろう。お主等は、そこから改めて始めねばならぬのだ」
エリスの気持ちを汲む為に、我輩は彼等に道を説く。
「辛き道程となるであろうが…今度は腐ってはならぬぞ。日の当たる場所に戻り、いつかは花を咲かせ、この娘の涙に報いて見せよ。エリスの射したその光を、無駄にはするな。決してな」
そこまで言い終えて、我輩は話を締め括った。
彼等の顔からは未だ慚愧の念や不安感が拭われた訳では無いが、少なくとも、迷いは消えた様に思える。
憲兵に引かれ、去り行くその最中、エッジが一度だけ此方を振り返り、小さく頭を下げたその姿が印象的であった。
「……アイツら、やり直せるのかな?…」
独り言の様に呟いたのはお嬢。遠くを見る様に、消えたエッジ達の背を見送るその表情からは、何を思うかは伺い知れぬ。だから我輩は、思った通りの事を口にする。
「まぁ、本人達にその気がある様だから、イビル・クランに操られていたと、口添え位はしてやろうではないか。…後は、彼等次第であるよ」
「……ふーん。随分と、優しいわね。キーチにしては」
勘繰る様なお嬢の言葉であるが、我輩には含む所など、なにもない。
「我輩はただ、エリスの気持ちを無駄にしたくなかっただけである」
「エリスには甘いわね、キーチ。………てか、エリスって、あんなに強い子だったんだね…私、驚いたよ」
「そうであろう? あの娘は強い。その優しさも含めてな」
我輩はどこか、誇らしい気持ちでお嬢に答えていた。
エリスは正に太陽を映したような娘である。その光に照らされた者を叱り、励まし、日々を生きる活力を与えてくれるのである。
「素晴らしき御息女を育てられたものだな、ハンナ殿」
「ええ、自慢の娘ですもの。…けど、あまり心配させないで、ね?エリス………エリス?」
見ればハンナ殿の腕の中、泣き疲れたのか、安らかに眠るエリス。
いとおしげにその頬を拭うハンナ殿も、やはり疲れがある様に見える。
「ハンナ殿、少し、休んだ方が良い。宿まで送ろう」
「あ、私、エリスをおぶってくよ」
そう提案したお嬢に、やんわりと首を横に振るハンナ殿。そのままエリスを抱えて立ち上がり、月灯の仔猫亭へと歩み始める。
「大丈夫よ、レヴィさん。我が娘ですもの。重さなんて、これっぽっちも感じないわ」
その後ろ姿を見て、後に続くお嬢。我輩はすかさずその肩に飛び乗った。
「……いや、アンタは歩けよ」
むう。なんたる言い草。
「若者よ、年寄りはもっと、大事に扱わんか」
「都合の良い時だけ年寄りぶるなっ!……つか、さっき思ったんだけど、アンタ、説教してる時はほんっとーに年寄臭いわね」
何を言うかと思えば、笑顔で戯けた事を口にするお嬢。
「阿呆。我輩は年寄臭いのでは無く、年寄りなのだ」
「…イビル・クランをリンチに掛ける様な、ぶっとんだ年寄りだけどね…」
下らぬ言葉の応酬をしながらハンナ殿の後を歩くお嬢。我輩はその肩にぶら下がりながら思いを馳せる。
可能性に溢れる若者の、その未来に思いを馳せるのは年寄りの楽しみの1つである。
レヴィにエリス、果たして彼女達は、どんな花を咲かせるか…
二人の未来を想像しながら、お嬢の肩で揺られる我輩であった。
名も知れぬ
花のつぼみと
若人の
晴の姿に
想いを馳せる
テルセウ「お前ら、俺を置いて帰るなっ!!」
レヴィ「…あ」
キーチ「…居たな、そう言えば」
テルセウ「………泣くぞ、おい」