トワの大いなる学習帳:「指きり」
辺りに立ち込める錆びた鉄の匂いを嗅ぎ取り、何か異常な事態が起きていることを察した俺は、夢の部屋で覚醒した直後すぐさま飛び上がって周囲を見渡した。
「トワ!」
トワ(この世界の主の名である)はすぐ近くに座っていた。少女は俺の呼びかけにも反応せず、地面の蟻を眺めるようにじっと俯いたまま動かなかった。手は両脇に力なく垂れ、右の掌の上にはナイフが乗せられていた。
彼女は血まみれだった。白い髪と白い肌と白いワンピース、体の半分近くを上から下まで乾いた血で赤黒く染めている。今時スプラッタ映画でも無いと御目にかかれない光景だ。そういう映画を見ている時は過剰な演出に笑いすら漏れるところであるが、実際に目の当たりにすると「あってはならないこと」を理解させるには充分正しい方法のように思えた。出血は随分前のものらしく、肌に付着した血液はひび割れ、鱗のようでもあったし、呪いのようでもあった。僅かな音すら聞こえない沈黙で満ちた部屋の中で、俺は一人だけ掠れ声を絞り出しながら震える手でトワの赤くない方の腕に触れた。腕は温かかった。
(生きてる・・・?)
少女は未だに動かなかったが、まばたきだけは時折思い出したように繰り返され、その度に顔に張り付いた血の痕に細かくヒビが入り、パラパラと剥がれ落ちていった。息も整っているし、脈も安定している。どうやらこの血は彼女のものでは無いらしいということに、俺はようやく考えが至った。医学の知識に乏しい俺でも、この出血量が洒落にならないことぐらいは分かる。もしこれだけの出血をした後で、血が乾くまで放置していたとしたら、こんな風に穏やかに胸を上下させて座っていられるはずはない。
「トワ・・・おいトワ!どうした?何があった?」
トワは眼球だけ動かして俺の顔を確認した。まるで監視カメラか、あるいはカメレオンのようだ。どちらにせよその行為には嫌に無機質な気配があって、なんだか少女が意識的に自己存在を薄めようとしているように俺の目には映った。
「怪我はないか?この血は誰のだ?」
「・・・ディン」
ようやく少女は言葉を発した。ディンというのは彼女が出会ったことのある四人の人間の内の一人だ。俺は今まで直接の面識は無かったのだが、まさか本人より先に血と対面することになるとは思いもよらなかった。
俺に促される形で少女は事の顛末を訥々と語り出した。元々会話が下手な少女だったが、それにしても今日は輪をかけて下手クソだったため(出会った時の方がまだマシだった。何せ今は能動性すら失われている)俺は彼女の言葉を逐一意訳することで話の骨子を整理した。
ディンとジギは夢の世界にある扉を通過して何処かへ向かうために、トワのいるこの空間を訪れている。その日もディンは平生のようにこの白い部屋へ足を踏み入れると、珍しくトワと雑談をし始めた。内容事態は他愛もないものだったようだが、唐突にディンは会話を切り止めると、笑顔を崩さぬまま大きな手でトワの首を掴んで宙に持ち上げたという(ディンは大男というわけではなく、俺と同じような体型である。トワが軽すぎるのだ)。そして彼は、恐らく次のようなことを言った。
「本当にお前は人間らしくなってきてるな。ほんの少し前までは彷徨する虫と変わらなかったのに、何だか頭で考えているように思えたよ。でもな、お前は人間じゃないんだ。人間じゃないものが、人間になれるわけないだろう。現に首を絞められて呻き声すら上げない・・・」
そこでディンは言葉を切った。トワが苦しそうに顔を歪めていることに気がついたからだ。男はトワを床に叩きつけると、無表情になって髪を掴み顔を寄せた。
「非存在の分際でなに一丁前の顔してるんだよ」
「・・・・・・」
「・・・お前は苦しみという感覚を理解したつもりかもしれない。しかし人間の苦しみというのはそんなもんじゃないぞ。苦しみだけじゃない。人間というのは今お前が感じた感情の一切より遥かに空虚で恐ろしく、絶望的な生き物なんだ。お前にその感覚が一つでも分かるか?」
「・・・・・・」
「いや、分からないだろう。今までお前が学んできた薄っぺらい情動は、全て人間存在の上っ面に過ぎない。もう一度言う。お前は人間じゃない。表面だけ学んで人間を理解している気になっているだけの、ただの人形だ」
そこまで口上を述べ終えたディンは、彼女の髪を掴んでいた手を放し、左腕の袖を捲りあげ、懐からナイフを取り出して躊躇なく自身の左手首を切り裂いた。座ったまま身を竦めているトワの頭上にその手を持っていくと、彼は溢れ出る血を絞るように噴出させ、少女の頭に撒き散らした。
「どうだ?怖いか?気持ち悪いか?臭いだろ。血ってのは鉄臭いし、汚いし、中々落ちない。人間には誰の中にもこの赤黒く汚らしい血が流れてるんだよ。・・・なぁ人形、お前の体にこれが流れてると思うか?本気でそう思ってる?」
ディンはニヤニヤと笑いながら力無く垂らされた彼女の掌の中に血にまみれたナイフをそっと乗せた。
「なら、切ってみろ」
少女は動かなかった。恐らく動けなかったのだろう。
「忘れるな。人間の本質は悪だ。欲望から愛まで、全ては悪から生まれるものだ。それが無いお前はただの綺麗な人形だ。分かったら人形らしく大人しく自分のやるべきことだけやってろ」
そう言い残し、彼は扉の向こうへ消えたという。
語り終わったトワと語り聞かされた俺の間を暫くの沈黙が通り過ぎていった後、少女は突然右手のナイフの柄を握り込んで振り上げ、左手目掛けて振り下ろした。俺は刃が彼女の体に到達する直前に、何とかその刃先を捕まえた。トワはナイフを握った俺の手から溢れる血を見ていた。ただ見ていたわけじゃない。目は見開かれ、瞳は小さく泳いでいたし、萎縮したように体を小さくしていた。怯えているのだ。ディンは恐らく人間の負の側面を見せることで、人間という存在に接近していくトワを今一度引き離そうと考えたのだろうが、残念ながらそれは完全な逆効果だった。男は俺が少女に教えられなかった凡そ全てのものの種を彼女に振りまいていた。今はまだ感情を殺し無機質に押し黙っているが、直に少女は自分の力で震えだし、人形の殻を破る。
「トワ、ディンは人間の本質は悪って言ってるけど、それは間違いだ」
トワと目を合わせて俺は出来る限り安心感を与えられるような笑顔を作った。少女がその顔をどう捉えたかは分からない。
「そもそも人間は善悪によって形作られているわけじゃない。認識によって形成されるものなんだ。善悪も認識によって生まれる。俺が誰かを善い人だと思ったらソイツは善い人だし、悪い人だと思ったら悪い人だ」
少女は黙って聴いている。
「トワ。俺はお前を人間だと思ってる。だから俺の中ではお前は間違いなく人間だよ。つまり、お前の体の中には間違いなく血が流れてる。わざわざ確かめる必要もない。俺が保証する」
俺がナイフを放すように促すと、少女は既に力の抜けていた手を引っ込めた。ナイフをベルトの間に押し込んで、俺はトワの手を取り、今にも消えて無くなりそうな小さな小指を自分の小指と絡めた。
「お前は人間になりたいんだろ?じゃあ信じてやればいい。お前が信じれば、お前は人間だ。それでももし人間になれないようなら、俺が人間にしてやるよ」
約束だ、と俺は小さく手を揺らした。
今日学んだこと
指きり・・・よく分からない。
・しかし人間とはよく分からないものなので、そういう観点ではとても人間的な行為と言えるだろう。
・よく分からないが、この行為が完了した後は、膜越しのように遠かった相手の声がよく聞こえるようになった。




