音売りフウルと命の音
残酷描写までは行っていないつもりですが、暴力表現があります。
暴力表現があります!!(大事なことなので二度ry
苦手な方はブラウザバックお願いします。
少年はしがない音売りだった。
幼くして母に捨てられ、父は顔も見たことがない。
中流貴族の多い街の近くに捨てられた少年は、
生きるために、『音』を売ることを選んだ。
浜辺に打ち寄せる波の音。
流れ落ちる水が轟々と唸りを上げる滝壺の音。
熱帯雨林に響く鳥や獣の声。
内陸の街であるここでは、海の波の音は特に人気が高かった。
音を閉じ込めた貝を耳にあて、多くの中流貴族たちが、
見たこともない青い海に思いを馳せた。
そうして音を楽しんだ後、人々は決まってこういう。
すごい。海も熱帯雨林も、ここからずっと遠くだろう。
どうやってそこまで行って来たんだ?
その決まりきった質問に、少年もまた決まりきった行動を返す。
その年齢に見合わない大人びた苦笑をして、
それとなく話をはぐらかし、こんな音もどうですか、と。
少年の音に魅入られた人々は、それ以上深く尋ねることもなく、
差し出された音にまた聞き入る。
そのたびに、少年は微笑の裏でほっと胸をなで下ろすのだ。
少年は、鳥の姿になる力を持っていた。
母は確かに人間だったから、恐らくは父が鳥獣か何かだったのだろう。
恐らく、というのは、少年が一度も父親の顔を見たことがなかったからだ。
純粋な人間でないということは多少の苦労も生じたが、
それでも丁寧に正体を隠せば、数年で大した問題ではなくなった。
その後はその力を生かし、街の外で様々な音を集め、貴族たちに売った。
日々の生活に娯楽を求めた貴族は少なくなく、生活費には困らなかった。
いつしか少年の年齢は十を超え、街でも音売りとしてそれなりの評判を手に入れていた。
少年は音を集めた。
自分が鳥獣の子だということをひた隠しながら。
人知れず、その翼を大空に広げながら。
鳥獣の音売りは、名をフウルといった。
空は薄い雲に覆われていた。
日光も程よく遮られた昼下がり、灰色の街の一角にフウルは佇んでいた。
人の往来の邪魔にならないような場所に布を広げ、
その上に白い巻貝を並べている。
巻貝は、全て商品だ。
傍から見れば何の変哲もない貝だが、
その中にはフウルが集めてきた音が詰まっている。
その貝を耳元に近づければ、閉じ込められていた音が溢れだす。
この街では聞けないような音を求めて、人々はフウルの元を訪れるのだ。
行き交う人々の流れを眺めつつ、
フウルはすっと視線を自分の足元の皮袋に落とした。
今日の売り上げである硬貨は決して多くはない。
それでも、フウルが今日から数日暮らす分には困らない額だ。
空を見上げる。
相変わらず空は薄い雲に覆われ、あの綺麗な青を少しも見せてくれない。
まだ気配はないが、雨が降り出す前に今日は仕舞いにしよう。
そう決めたフウルは布の上に広げた巻貝を手早く集めて背嚢に入れ、
それを背負って歩き出した。
すれ違う人々の中には常連の客もちらほらと見えた。
フウルと目が合うと、今日はもう終わりか、と尋ねてくる者もいる。
また明日お願いします、と愛想よく返しながら、
フウルはぺこりと頭を下げた。
鳥獣のハーフとしての特徴なのか、フウルは目つきが鋭かった。
髪の色と同じ淡い茶色の目は、
音を売り始めた当初は客を集めるのにそれなりの支障をきたした。
ナイフのように鋭い視線は、人々を畏縮させてしまったのだ。
それに気づいたフウルは、その目つきを和らげようと努力した。
だがしかし自分の努力だけで目つきなど容易く変わるわけもなく、
結果としては愛想の良さでカバーすることとなった。
昔のあれはなかったな、と心の中で思い出し笑いをしながら、
フウルは十字路を右に曲がった。
瞬間、何かにぶつかってフウルは尻餅をついた。
はずみで背嚢から巻貝が一つ飛び出し、辺りに浜辺の波の音が広がった。
「いった…何だ?」
「あ…ご、ごめんなさい」
尻餅をついたままのフウルの前にいたのは、
自分とぶつかって同じく尻餅をついたらしい、
13、4歳程かと見える少女がいた。
金髪碧眼に、貴族らしい服装を身に纏っている。
少しの間呆気に取られていたフウルは、
はっとして少女に声をかけようとした。
その時、相手の視線が自分を全く捉えていないことに気づく。
「波の音…。どうして?この街には海があるの?」
少女の視線は巻貝のある方向を見つめ、その後左右に何度か振れた。
たったの一度も、少女はフウルを見ない。
目が見えないのか。フウルは直観した。
驚かせないように、地面に座り込んだままの少女の手にそっと触れる。
間髪入れずに少女がフウルの方向を向いた。
「驚かせて悪い。さっきあんたにぶつかった奴だ。怪我無いか?」
「ないわ。大丈夫よ」
少女は癖のないセミロングの金髪をさらりと揺らして微笑んだ。
綺麗に弧を描いた唇と一緒に細められた瞳は、光を映していなかった。
視線はフウルのほうを向いているものの、やはり捉えてはいない。
「目、見えないんだよな?」
「そうよ、生まれた時からそうなの。
…ねぇ、一つだけ教えて。この街には海があるの?」
「いや、ない。今聞こえてるのは、俺が売ってる音の一つだ」
「音?あなたは音売りなの?」
「そうだ。…見たところあんた貴族だろ?こんなところで御付も付けずに何してるんだ。
屋敷までなら送る。ほら立って」
先に立ち上がって握った手を引っ張ると、盲目の少女はきょとんと目を丸くし、
貴族らしく上品にころころと笑った。
「あなたは優しいのね」
◇
少女の名前はリリスというらしい。
彼女の手を取って石畳の道を行きながら、
フウルは自分の事を少しだけ話した。
まずは自分の名前、音売りの仕事。
幼少期からこの街で生活していること。
もちろん、鳥獣の子だということは話さなかった。
リリスの屋敷はそこまで遠くなかった。
この街では珍しくない大きな屋敷の扉を前にして、
リリスはフウルを振り返った。
「ねぇフウル」
「何だ?」
「私にも音を売ってくれる?」
光のない深い青の瞳に見つめられて、フウルは思わず息を呑んだ。
何となく気恥ずかしくなって頭をぽりぽりとかく。
「何が欲しい?」
「あなたの命の音」
返答の内容を不思議に思う間もなく、フウルはリリスに抱き着かれた。
顔が沸騰したように熱くなる。
「な、何して…!」
「少しだけ、こうさせて」
人に見られたら羞恥の極みだが、幸い辺りに誰もいなかった。
リリスもフウルの背中に回した腕を外すつもりはないらしく、
諦めたフウルはされるがままになることにした。
「私はね、赤ん坊と同じなの。
赤ん坊は母親の心臓の音を聞くと安心するって言うでしょう?
私は生まれた時から目が見えなかったから、
怖くなったとき、いつもお母様が抱いて安心させてくださったの。
だから、少しだけ…」
「…分かったよ」
少しの間、二人は沈黙していた。
大通りを歩く人々の声がやけに遠くに感じられた。
◇
お代を渡すと言うリリスの言葉を断り、フウルは足早に帰路についた。
盲目で不思議な雰囲気を纏っていたとはいえただの中流貴族の少女相手に
柄にもなく動揺したのが気恥ずかしかしく、
足並みは無意識に、街から逃げるように小走りになった。
沈んだ太陽がまた昇り、フウルは街はずれの住処で目を覚ました。
いつも通り背嚢に巻貝を詰め込み、最低限に身だしなみを整える。
昨日のことを思い出しながら街に行くと、
見知った友人が大きく腕を振っている。
リリスと同じ金髪碧眼の貴族の少年、アーサーだ。
「あ、ようフウルー!」
「あぁ」
にこにこと愛想のいい笑顔を無邪気に浮かべる様子は、
言っちゃ悪いが貴族の坊ちゃんにはとても見えない。
そこが彼の長所でもあり、短所でもある。
「また屋敷から抜け出してきたのか」
「だってつまんねーし!兄貴がいりゃなんとかなるだろ」
「その言葉遣い、前に侍女さんに怒られたんじゃなかったのか」
「お前はうちの使用人か!兄上って言えば満足かよコラ!」
「はいはい、分かった分かった」
アーサーはこの街でも有数の有力貴族の家の三男だ。
けれど次期当主は長男でほぼ決定だろうし、
継承権を争う気も元から皆無である彼は、
度々こうして屋敷を抜け出し、フウルに会いに来る。
しかし彼が有力貴族の一員だということは変わりないわけで、
不穏なことを企てる輩が全くいないというわけでもない。
にもかかわらずこうして屋敷を抜け出してくるので、
帰る度に兄にはこっぴどく叱られ、
侍女には長々とお小言をいただくらしい。
それでも懲りないのは果たして意志が強いだけなのか、
はたまたただの馬鹿なのか。
「そうだ、お前に話したいことがあったんだ」
「何だよ?」
「この街に、目の見えない女の子がいるの知ってるか?リリスっていう…」
「リリス、ねぇ…」
フウルの言葉を聞いて、アーサーは腕を組む。
むむむ、と声が聞こえてきそうなほどに一しきり悩んだ後、
どうやら思い当った節があったらしく、ぱちんと指を鳴らした。
「思い出した!兄貴が前にちらっと話してたよ。
最近この街に越してきた目の見えない子がいるってな。
すんごい可愛いって聞いたけど、屋敷じゃ邪魔者扱いされてるらしいぜ」
「邪魔者?」
首をかしげるフウルに、
アーサーは芝居がかった仕草でうんうんと頷いた。
「なんでも、両親が亡くなって伯父さんの家に引き取られたらしい。
でも、その伯父さんと自分の母さんである妹さんはあんまり
仲がいいわけじゃなかったらしくて、
伯父さんも世間体のためだけに引き取っただけ。
加えて奥さんのほうは自分の子供より可愛いその子が気に入らねぇ。
で、ほぼ四面楚歌の状況の中、
唯一の見方は昔からの侍女さん一人なんだと。心細いだろーなぁ…」
やれやれ、と肩をすくめるアーサー。
昨日のリリスの言葉を反芻しながら、フウルはそうか、と呟いた。
「でも珍しいなー!花売りのケイトにも興味ゼロの朴念仁野郎が、
自分から女の子の話振ってくるなんてさ。なに、気でもあんの?」
「んなワケあるか。少し印象的だっただけだ」
え、お前会ったことあんの!?何が印象的だったんだよ!
矢継ぎ早に質問してくるアーサーを無視し、フウルは空を見上げた。
正午前の空は、リリスの瞳と似た青色をしていた。
(あなたの、命の音。命の音を売って)
◇
数日後、フウルは再びリリスに出会った。
その日から何日も続けて彼女はフウルの露店にやってきた。
決して丈夫とは言えない足で何度も来るものだから、
フウルが毎日リリスの屋敷に音を届けに行くという約束をした。
窓越しに手渡した巻貝をリリスが耳にあてた。
聞こえてくる音に彼女の顔がぱっと輝く。
今日の音は、海だった。
「すごいわ。フウルは本当にいろんな音を持っているのね」
「仕事だからな」
少しばかりぶっきらぼうに答えて、フウルはそっぽを向いた。
それに気づいていないのか海の音に聞き入っていたのか、
リリスはフウルのその行動に何も言わなかった。
「…ねぇフウル、一つお願いがあるの」
「なんだ?」
「音を集めに行くとき、私も連れて行ってくれない?」
「え?」
「自分の耳で聞いてみたいの。わがまま言ってごめんなさい。
…やっぱり、駄目?」
「いや、その…」
フウルは歯切れ悪く答えた。
リリスの願いは叶えてあげたい。自分にはそれを叶えるだけの力もある。
けれどリリスには自分が鳥獣の子だと明かしていない。
嫌われることなど怖くなかったはずなのに、
本当のことを明かして、リリスが自分から離れていくことを恐れた。
「フウル?」
黙ってしまったフウルに、リリスが不安げに声をかけた。
「…できないことはない。
けど、その、簡単に人に言えない事情があって…」
「事情?」
リリスが可愛らしく首をかしげる。
光のない瞳に見つめられると無性に不安になった。
「…俺が、純粋な人間じゃないといったら…怖いか?」
「え?」
声が震えてしまわない様に、フウルは必死で平静を装った。
「たぶん父親が鳥獣か何かで、鳥に転身できるんだ。
それを利用して、音を集めに行っていたんだ。
…だから、その…自分で言うのもあれだけど、俺は、ば――」
「フウルは鳥になれるの?」
つっかえながらフウルが紡いだ言葉は、
高揚したリリスの声に見事に遮られた。
知らず知らずのうちに俯いていたフウルは、弾かれたように顔を上げた。
瞬間、窓から身を乗り出して目を輝かせるリリスと視線がかち合う。
「え、あ、一応…」
「すごいわ!」
リリスは無邪気に笑っていた。
多少なりとも気味悪がられると思っていたフウルは
思わず呆けてしまった。
「…怖く、ないのか?」
「どうして?」
「どうしてって…」
心底不思議そうに尋ねるリリスに、フウルは思わず目をそらした。
今の自分に、リリスは眩しく見えた。
答えられずにいると、窓に手を置いたリリスがころころと笑った。
「だって私は目が見えないもの。けど、
見えないから怖くないんじゃないのよ。
聞こえているから怖くないの」
「聞こえてる?」
「そうよ。私が目が見えない分、耳がいいの。
だから、その人がたてた音だけでもその人の事が分かるの」
リリスの白い手がフウルの方にのばされた。
後ずさる間もなくその手はフウルの腕を掴んで、
辿って、手を握って、引いて、両手で包み込んで、優しく頬にあてた。
「フウル、あなたはとても優しい人よ。
だって命の音があんなにも穏やかなんだもの。
もしあなたが鋭い鉤爪を持った鳥になっても、
私をその爪で引き裂いたりしないでしょう?」
「当たり前だ」
反射的に答えると、リリスはフウルの手を自分の頬に当てたまま優しく微笑んだ。
思わず息を飲んだ自分が、次の瞬間には恥ずかしくなった。
『なに、気でもあんの?』
少し前にアーサーに言われた言葉が、現実味を増して反芻された。
◇
数日後、フウルはリリスを連れて町はずれの野原まで来ていた。
辺りを見回して自分達以外の人間がいないのを確かめてから、
フウルは静かに目を閉じた。
力強い羽音を響かせて、フウルの背中に髪と同じ色の翼が現れる。
鳥に転身せずに翼だけ出したのは初めてだったからか、
翼はフウルの体より一回りも二回りも大きい。地面に引きずってしまいそうなほどだ。
その気配を感じたのか、リリスがフウルに声をかけた。
「準備できたの?」
「あぁ。そろそろ行こう」
フウルはリリスの手を取って、皮の布の上に座らせた。
布の両端から伸びた縄を両手でしっかりと握ってフウルは羽ばたいた。
リリスを連れて行くために作った簡単なブランコは容易く地面を離れる。
「フウル、足が地面から離れたわ!」
リリスが興奮した声を上げている間にもフウルは高度を上げていく。
いつもの街も瞬く間に小さくなった。
「風が冷たいわ」
「寒いか?」
「大丈夫よ。もう高いところまで来たの?」
「あぁ。そろそろ街も見えなくなるぞ」
フウルとリリスは様々な所に行った。
初めは滝、その次は草原、その次は森、と少しずつ距離を伸ばしながら。
リリスはどこに行っても楽しそうに笑っていた。
仕事の一環でしかなかったことが急に楽しくなった。
リリスはフウルの仕事にもついてくるようになった。
アーサーやケイトにも会い、親しくなった。
フウルはよく笑うようになったな、と意地悪い顔で言ったアーサーには拳骨をお見舞いした。
◇
空はよく晴れている。
大きく伸びをしていると、リリスが駆け寄ってきた。
「今日は海に行くのよね?」
頬を紅潮させて話すリリスにフウルは控えめに声を上げて笑った。
初めて出会ったころは不思議な子だと思っていたが、
今の彼女はただの無邪気なお転婆娘だ。
「なによ、フウル」
「いや、なんでもない」
「嘘言わないで、何を考えていたの!?」
「だからなんでもないって!ほら準備!」
頬を膨らませて離れるリリスに、フウルはまた笑った。
やはりアーサーの言うとおり、自分はよく笑うようになったようだ。
いつものように目を閉じて翼を出す。
直後に、背中から大きな衝撃を受けて地面に叩き付けられた。
驚いて起き上がろうとするが、今度は頭を押さえつけられる。
「観念しろ、この化け物!!」
浴びせられた罵声にフウルは凍りついた。
何とか首を回すと、小太りな男が数人目に入った。
それぞれに恐怖と怒りがない交ぜになった表情を浮かべている。
視界の端には侍女と思しき女に手を掴まれたリリスもいた。
フウルに見られていると気づいた女は射抜くような視線で睨みつけてきた。
「化け物め、よくもお嬢様をたぶらかしてくれたわね!!」
「何を言ってるのアルシア、フウルは化け物なんかじゃないわ。放して!」
「あなたは惑わされているのです。
どうしてあの化け物が、あなたを引き裂いてしまわないと言えますか!」
リリスを叱りつけた女は猿轡をかまされるフウルを見、
その端正な顔に醜い嘲笑を浮かべた。
「フウル!」
侍女の手を必死に振り払おうとしながらリリスが叫ぶ。
フウルも応えて呼ぼうとして、
これまで一度もリリスを名前で呼んだことがないことに気がついた。
声を出そうとしても、猿轡が邪魔してくぐもった音しか出ない。
「動くんじゃねえ!!」
頭を踏みつけられ、フウルはうめいた。
数年ぶりに流した涙は、フウルの声を奪った布に吸い取られた。
◇
私の名前はアルシア、何でもない家の長女でした。
13になった年、私はとある貴族の御屋敷に侍女として仕えるようになりました。
旦那様からお世話をするよう申しつけられた方は、金髪碧眼の可愛らしい女の子でした。
それが、幼いリリス様です。
リリス様は生まれた時から盲目だったそうで、初めは私の事を警戒されていました。
身の回りのお世話をするようになって、次第に心を開いてくださったのは、
私にとって至福のことでした。
アルシア、アルシア、とたどたどしく名前を呼んでくださる度に、
私は天にも昇るような心地だったのです。
そんなリリス様のお顔を曇らせたのが、ご両親の死でした。
リリス様が十と少しのころです。
リリス様は伯父上様の所へ引き取られることになりました。
けれど、何度かお会いしたその方は、どうやらリリス様を快く思ってらっしゃらない様子。
その時私は感じたのです。
リリス様をお守りできるのは、もはや私だけなのだと。
私が、リリス様を、お守りせねばならないのだと。
それは優越感にも似た決意でした。
伯父上様の御屋敷に引き取られて間もなく、リリス様に変化が訪れました。
リリス様が知らない男の名前を仰ったのです。
どうやらそれは卑しい身分の音売りのようでした。
その男の事を嬉しそうに語られるリリス様に、私は暗い感情を抱きました。
どうして、と。
リリス様は日ごとに私の事を見てくださらなくなりました。
お部屋の掃除に入らせていただいても、いつも窓の外を眺めてばかり。
話をすればあの男の名前を必ず仰る。
『フウル、今日はいつ来るのかしら。早く来てほしいわ』
私が箒を握りしめたのを、リリス様はご存じなかったでしょうね。
リリス様はある時から、よくお出かけになるようになりました。
旦那様はリリス様をよく思っていらっしゃらなかったので、
お付きを付けられることも、早く帰ってこいと仰ることもございませんでした。
けれど私は心配でした。
もしやあの音売りにたぶらかされているのではないか、と。
私はリリス様のお世話だけを申しつけられていたので、
無断でお屋敷を出ても咎められることはありません。
ある日、朝から出かけられるリリス様の跡をつけました。
まるで目が見えているかのように歩かれるリリス様を、
最初の何日かは途中で見失ってしまいました。
それでも諦めなかった私はある日、ついに見てしまったのです。
町はずれの野原で、背中から獰猛な翼を生やした男―茶髪の少年が、
リリス様をどこかへ連れ去るのを。
パニックになりかけた私は、必死で自分を抑えました。
鳥の影が見えなくなると、私はその場に座り込んで、思わず笑ってしまいました。
音売りの噂は私も聞いていました。
海や森、様々な音を売る目つきの鋭い少年だと。
何とかしてそいつからお嬢様を引き離したかったのですが、
卑しい身分だからというだけでは旦那様は動いてくださらなかったでしょう。
けれど今、私は決定的な情報を手に入れたのです。
音売りフウルは、鳥の化け物だと。
数日後、数人の男を連れて前回と同じ場所に赴きました。
目撃者を増やすためです。
同じ場所、同じような時間に、少年はまた翼を生やしました。
リリス様が楽しそうな声をあげられるのに歯噛みしながら、私は男たちに言いました。
『言ったとおりでしょう。あの音売りは化け物なのよ』
男たちは青い顔で頷きました。
そうして協力者を増やし、捕獲の準備を進め、私はその日を迎えました。
翼を生やして今にも飛び立とうとしていた少年を男たちに捕えさせ、
リリス様を野蛮な化け物から取り戻すことに成功したのです。
お嬢様は抵抗されましたが、それもお嬢様のため。
正直に言えば、リリス様にまた私の事を見てほしい一心だったのですが、
野蛮な獣と交流していてはお嬢様にもいい事はありません。
けれど傑作だったのは、猿轡をかまされた少年の表情でしたね。
化け物も絶望という感情を知っていようとは。
リリス様の前にもかかわらず、思わず笑ってしまいました。
◇
化け物が捕えられてからというもの、
リリス様はご自分のお部屋に閉じこもってしまわれました。
私がお部屋に入っても全く反応してくださいません。
窓際に置かれた椅子に座って、いつまでも外を眺めていらっしゃいます。
「お嬢様」
安易に声をかけたことを、私は後悔しました。
振り向かれたリリス様の視線は、冬のように冷たかったのです。
これまでたったの一度も、リリス様が私を睨みつけられたことはありません。
私が何も言えずにいると、リリス様は興味をなくされたように窓の外へ視線を戻されました。
以前より私を見てくださらないことに、私は気が付きました。
数日後の昼下がり、一人の少年がリリス様を訪ねてきました。
追い返したいところでしたが、相手はこの街有数の貴族の三男坊で、それもできません。
仕方なく見守っていた私でしたが、その少年が発した言葉に笑みがこぼれました。
「フウルの処刑が決まっちまった…!」
リリス様がご自分の口を手で押さえられました。
肩を支えて差し上げても、何の反応も示されません。
「アーサー、それは、本当なの…?」
「俺だって嘘だと思いたいさ…、けど本当だ。誰かさんの思惑どおりにな…!」
リリス様と同じ金髪碧眼の少年は、私を真っ直ぐ睨みつけました。
化け物の処刑など喜ばしいことでしょうに。
街が平和になるだけです、どうしてそんな顔をする必要があるのでしょうか。
◇
「アルシア」
久方ぶりに名前を呼ばれたことを嬉しく思いながら、私は箒を持った手を止めました。
「何でしょう」
「私を処刑場へ連れて行って」
今日は例の化け物の公開処刑の日です。
誑かされていたとはいえ親しくしていた化け物の最期を、
見ておかなければならないと考えられたのでしょう。
有無を言わせない瞳を私に向けられるリリス様に、私は快く頷きました。
身支度を整え、リリス様の手を取ってお屋敷を出ました。
処刑場までは緩やかな下り道です。
私はずっとリリス様に手を差し出していましたが、
リリス様は私の手を握らず、ただ添えておられるだけでした。
手の震えが伝わらない様に握らずにおられるんだわ。
気丈に振る舞われるリリス様が愛おしくて、私は一人微笑みました。
街の広場に設置された処刑場は、すでに人でごった返していました。
皆、どんな化け物が処刑されるのかと処刑台を覗き込もうとしています。
やがて、人々がざわめきました。
背伸びして見てみると、粗末な麻の服を着せられた茶髪の少年が現れたところでした。
例の鳥の化け物です。口には猿轡をされ、後ろ手に両手を拘束されています。
いい気味だ、と思いました。お嬢様をたぶらかした罰です。
隣を見ると、お嬢様は唇を引き結んで前を向いていらっしゃいました。
化け物が引き出されたのにはお気づきになっているはずです。
きっと涙を見せないように気丈に振る舞っていらっしゃるのでしょう。
処刑台に化け物が跪かされました。
一人の衛兵が羊皮紙を掲げ、書かれた文章を読み上げます。
「獣の子にして人間に扮し、紛れ、音で市民を惑わせたこの者を、極刑に処す」
途中、化け物が俯けていた顔を一度だけ上げました。
忌々しくも私とリリス様に気付き、目を見張ります。
瞳を揺らして、諦めたような表情をしました。
そんな顔をしたって全く哀れではありません。早く殺されてしまえばいいのです。
衛兵が処刑用の大剣を抜き放ちました。いよいよ処刑の時です。
民衆のざわめきも一層大きくなりました。
その時、
「フウル!!」
凛とした声が響き渡りました。
民衆は静まり返り、剣を掲げていた衛兵は呆けた顔で腕を下げました。
驚いた私はリリス様を顧みました。
お嬢様は、頬を紅潮させながら、真っ直ぐ処刑台を見つめていました。
「やくそく、破るの…?」
直前の絶叫と同じ人物が発したとは思えないほど、弱々しい声でした。
処刑台で、化け物がはっとしたように顔を上げます。
「あなたは私にいろんなことを教えてくれたわ。
滝壺の音も、野原を駆ける風の音も、森でさえずる小鳥の声も、全部教えてくれたわ」
民衆はリリス様の声に聞き入っていました。
早く処刑しろ、と叫ぶ人もいません。
「あなたは強くて優しい人。
本当は逃げ出すことだってできたんでしょう?
そうしたら私が困るから、大人しく捕まっていたんでしょう?」
人々が一斉にどよめきました。
衛兵は、思い出したように剣を振りかぶります。
剣が風を切る音を聞き取られたのか、
「どうして殺すの?
彼には人の血も流れているのよ?少し違うだけでどうして駄目なの?」
リリス様の視線は、まるで目が見えているかのように衛兵に向けられていました。
振りかぶった剣を下ろしそこなった衛兵は、うなだれました。
「フウル、あなたは私に約束してくれた!
目の見えないわがままな私に、空で約束してくれたわ!
一緒に…海を聞きに行こうって!」
化け物の目に強い意志の光が灯りました。
ぐ、と化け物が体に力を込めるのに気付いた衛兵が、三度剣を振り上げます。
今度こそ間違いなく剣が振り下ろされるのと同時に、リリス様が叫ばれました。
「私に、海を聞かせて!!」
処刑台で突風が巻き起こりました。
剣を振り下ろした衛兵は簡単に吹き飛ばされ、人々の悲鳴が広場に響きます。
処刑台に現れたのは、一羽の大きな鳥です。
その足元には折られた剣と引きちぎられた縄が転がっていました。
真っ赤な瞳に、獰猛な翼に、鋭い鉤爪に、思わず足がすくみました。
「フウル!」
リリス様が再び叫ばれました。
鳥の化け物がそれを聞き、真っ直ぐにリリス様を見据えます。
化け物が羽ばたき、処刑台から飛び立ちました。
そしてリリス様と私の方に一直線に飛んできます。
民衆は驚き怯えて、まるでモーセの開海のごとく真っ二つに割れます。
リリス様が大きく両手を広げられるのにはっとして、
私はその前に立ちはだかりました。
あの化け物はリリス様を連れ去ろうとしている。それは火を見るより明らかでした。
突然、化け物の体が輝きました。
羽根を散らして光から飛び出してきたのは、
自分の体より一回りも二回りも大きい翼を背中から生やした、あの少年です。
全く失速せずに突っ込んでくる少年に、思わず私は一歩退きました。
直後に、リリス様がその場所から消えました。
見上げると、リリス様を抱き上げた例の化け物が空の彼方に飛んでいくところでした。
鳥の影は見る間に小さくなって、やがて見えなくなりました。
絶望に打ちひしがれる私に、聞き覚えのある少年の歓声は遠く感じられました。
◇
街が見えなくなるほど飛んだ頃、フウルは困り果てていた。
俗に言うお姫様抱っこをされた彼女が、ずっと泣き続けているのだ。
「泣くなよ…」
「だ、だって…」
さっきからずっとこの調子だ。元はと言えば自分のせいなのだが、
こういったことに慣れていないフウルは内心右往左往していた。
しばらくしてリリスが落ち着いてきたのを見計らって、
フウルは平静を装った口調で尋ねた。
「このまま海まで行くか?」
「その前に、ひとつだけ聞かせて」
「何を?」
「あなたの命の音」
泣きはらした目でそう言うリリスに、フウルは小さないたずら心を抱いた。
「あれだけ海の音って言ってたのに」
「いいでしょう!聞きたいの!」
「はいはい、姫様の仰せのままに」
「からかわないでフウル!」
「馬鹿暴れるな!落ちる!」
頬を膨らませてそっぽを向くリリスがあまりにも子供っぽく、
フウルは声を上げて笑った。
しばらくするとリリスも顔を綻ばせ、空に二人の笑い声が響いた。
「…それで、これからどうするの?」
「ほかの街に行って、また音を売るよ。音集めは初めからやり直しだけどな」
「けど、今日みたいなことはもう二度と御免よ」
フウルの服を小さく握って、リリスは顔を曇らせた。
リリスを抱く腕に、フウルは力を込めなおした。
「大丈夫さ、俺たちを知ってる奴がいない街に行けば。
…そうしたら、海に行こう。今度こそ一緒に」
「約束よ、絶対」
「あぁ、約束だ」
青い空を、大きな鳥の影が一直線に翔抜けていった。
お話のちょっとした補足です。
話は主人公&ヒロインサイドではハッピーエンドですが、
侍女のアルシアさんサイドではバッドエンドです。
彼女はリリスが街から去ったので用無しになり、解雇されます。
アルシアさんは決して悪い人ではないのです。
少し独占欲と思い込みが激しいだけです。
後半はアルシアさん目線のお話ですが、
彼女はいたるところで勘違いをしています。
彼女がいくつ勘違いしているか、時間がある方は是非探してみてください。
ちなみに処刑場へ向かうときにリリスが彼女の手を握らなかったのは、
「もうあなたの事は信用していない」というリリスの意思表示です。