第三章 二月十五日③
俺は自分の家の前に着くと、扉を開け、中に入った。
リビングへ行くと、黄砂がウロウロしていた。俺がいなくて寂しかったのだろうか。
「黄砂。何、うろついてんだ」
「あ、恐妖。咲が家におらんかったから、心配でな。風邪引いたって聞いたんやけど、変やな」
違った。咲の心配だった。
「落ち着け」
「そ、そうやな」
俺と黄砂は絨毯が敷いてある部屋に行った。
拝借してきた日記とアルバムをこたつの上に放り投げた。扱いが雑すぎる気もするが、まあ、いいだろう。
「恐妖。何や、これ」
黄砂が放り投げたものを指差して聞いてきた。
「日記とアルバム」
「いや、それは見たら分かるんやけど」
そりゃそうだろうな。
「黄砂が言いたいのは何でこんなのを持っているのか、だろ?」
「分かってたんかいな。いじわるやな」
黄砂はムスッとした表情を浮かべたが、ただただ可愛いだけだった。
「咲の家から勝手に拝借してきた」
「そんなことをしてええんか?」
「いいわけないだろう。窃盗罪になるだろうな。それはおいておくとしてだな」
「おいといていい問題ちゃうと思うんやけど」
俺はその言葉を聞き流してアルバムから例の写真を取り出した。
「これを見てくれ」
黄砂は怪訝そうな表情を浮かべながらも、写真を受け取った。
「これは咲と……咲やないか」
黄砂は驚いていた。前者はどちらの咲のことを言っているんだろうか。同じく後者も。
「裏を見てくれ」
黄砂は言われた通りに写真を裏返した。
「名前が表記されてるな。前者が咲の本名やろか? 読み方が分からへんな。何て読むんやろか」
「何て読むんだろうな」
「恐妖も読み方が分からへんのか?」
「ああ、分からない」
「そっか」
黄砂は写真を俺に渡してきた。受け取ると、アルバムの中に戻した。
「家にいなかったのは、偽名を使っているのと何か関係があるな」
「どんな関係があるん?」
「そうだな。例えば、偽名を使っているのが何者かにばれて、捕まる前に逃走したとかな。偽名を使っていることを知った何者かが誘拐したとも考えられるな」
「前者やとしたら、どこにおるんやろか。後者やとしたら、一刻も早く助けなあかん」
黄砂は俺の言葉に唸った。
「可能性としては後者の方が高いな」
「何でや恐妖?」
「カップラーメンのフタが開いたままテーブルの上に放置されていた。水の入っているやかんもガスコンロの上に放置されていた。まるで今から沸かして食べようとしているような感じだ。前者だとしたら、のんきすぎるな。よって、後者じゃないかと」
「なるほどな」
黄砂は頷いた。
「問題は誰が誘拐したのかだな。それが分かれば場所を特定できるかもしれない」
「でも、誘拐犯の手がかりなんてないし、誰か調べようがないで」
手がかりか。視線を動かすと、日記が目に入った。
俺は日記を手に取った。表紙には名前が漢字で書かれており、振り仮名がついていた。姫金菜紅と書かれている。これはそう読むのか。
日記を開き、最初のページへと視線を落とす。
二月十一日
学校が終わってから、私は咲ちゃんと遊びに出かけた。内容が薄っぺらくて寒気がするような別段しなくてもいいような会話をしながら。つまるところ無駄話なんだけどね。
咲ちゃんが唐突に足を止めた。見事なまでに美しい急ブレーキだった。思わず拍手喝采を送った。
それはさておき、前に向き直った。やっぱり、咲ちゃんのストーカーだ。
何で前にいるの。よくは知らないけど、こういうのって背後からつけてくるもんなんじゃないかな。前にいられると私たちがストーカーしてるみたいだよ。いや、そんなことないかな。
ストーカーは眼鏡をずっと押し上げている。疲れないのかな。というか何がしたいんだろう。
私は視線を動かした。今日はあの人は一緒に来ていないみたい。残念だな。
咲ちゃんの手を握って歩いた。大丈夫、怖くないよ、と語りかけながら。
あいつストーカーされてたのか。知らなかったな。あの人というのは誰のことだろうか。
俺は次の日の日付を見た。
二月十二日
私は昨日と違って、一人で遊びに出かけた。
舗装された道路を意味無く左右に身体を揺らしながら、歩いた。
あの人の歩いている姿が見えた。私は即座に駆け寄って、思いっきり抱きついた。
私はあの人に問いかけた。何で昨日はいなかったんですか、と。ごめん寝ていたんだ、とあの人は答えた。
二人でどこかに遊びに行かないかい、とあの人は言ってくれた。
私は頷いた。
あの人と過ごす時間はとても楽しい。
どうも日記を見ていると、菜紅はあの人のことが好きみたいだな。
二月十三日
今日は遊びに出かけずに家で過ごした。理由はただ何となくそういう気分だったからだ。
絨毯に寝転がって意味無く回転し、往復した。目が回って、気持ち悪かった。
起き上がろうとしたけど、うまくいかずに酔っ払った人みたいな動きをして転倒した。受身を取ることが出来ずにもろに背中を打ちつけた。背中を激痛が蠢く虫のように走り抜けた。
痛みで動けずにしばらくその体勢で無為な時間を過ごした。その間に頭に巡るのはあの人のこと。
初めて会った時、あの人は咲ちゃんに謝った。父が君に怖い思いをさせてごめん、と。あの人は何も悪くないのに。互いに名前を名乗って別れた。
痛みが引いてきたから、身体を起こした。
明日はバレンタインデー。あの人に渡すチョコを作ろう。
あの人はストーカーの子供か。娘か息子かは知らないが。チョコを渡そうとしているんだから、息子か。まあ、そんなことはどうでもいいが。
二月十四日
学校の帰り道を咲ちゃんと歩いていると、後ろから自動車が来て轢かれた。咲ちゃんが。自動車は逃走した。轢き逃げだ。
咲ちゃんの身体からドクドク、と血液が溢れて、道路を濡らした。咲ちゃんの顔からだんだん血の気が失われていく。
私は自分の服が血で汚れるのも構わずに咲ちゃんの身体にすがりついた。死なないで、と泣き叫んだ。お願いです神様、咲ちゃんを助けてください、と祈りながら。けれど、神様は私の願いを聞き届けてはくれず。
私は初めて見た。人間の生命活動が停止した瞬間を。
何で、死んじゃうの? やだよ、そんなの。もっと一緒にいたいよ。
咲ちゃん。
菜紅はあいつが死んだ瞬間を見ていたのか。悔しかっただろうな。そばにいながら助けることができなかったんだからな。無力な自分を呪ったりしたかもしれない。
二月十六日
今日は咲ちゃんのお通夜の日。
ひき逃げ犯は逮捕されたと冷流さんから聞いた。
私はあの光景を思い出して、震えた。涙が溢れてくる。手の甲に落ちていく。
冷流さんは俯き、涙を流していた。樂さんも涙を流していた。
お通夜が終わった後、私は冷流さんに抱きついた。何だか無性に誰かにすがりつきたかった。
冷流さんは優しく抱きしめ返してくれた。
さて、菜紅を誘拐した犯人は日記の中に出てきているだろうか。ストーカーは違うと思う。あいつのストーカーであって、菜紅のストーカーではないからな。あいつだけではなく、菜紅のストーカーでもある可能性は歪めないが。
あの人はどうだろうな。菜紅はあの人のことが好きみたいだが、あの人は菜紅のことが好きなのかどうか。仮に好きだとして誘拐した理由はなんだろうか。愛情が変にねじれて誘拐したとか。
まあ、もっとも可能性が高いのは樂と冷流だな。
樂からすれば孫の名を、冷流からすれば娘の名を名乗っているわけだからな。その理由が知りたくて誘拐したのかもしれない。
どうでもいいことだが、日記って感じがしないな。小説の地の文って感じだ。
何となく菜紅が偽名を使っている理由が分かった気がする。あくまで気がするってだけだがな。
「なあ、恐妖」
黄砂が話しかけてきた。
「何だ? 黄砂」
俺は日記から顔を上げた。
「犯人の目星ついたん? それかついてへん?」
「ああ、ついたな」
俺は確信を持って告げた。
「一体誰なんや?」
黄砂は身を乗り出して、聞いてきた。
「樂か冷流、あるいは共犯だな」
「え!」
黄砂は驚いていた。何で驚くんだ? これが一番ありえることだろう。
「……その二人が犯人と思った理由は何や?」
黄砂は声を震わせていた。信じたくないんだろうな。
「樂は滅火高等学校の校長だからな。全生徒の名簿ぐらいあるだろうし、それを見る機会があっただろう。日記に樂の名前があったし、二人は顔見知りだ。顔と名前が一致していないのに疑問を覚えたんだろう。しかもそれが孫の名とあればな。理由を知りたくて誘拐したんじゃないかと考えた。それが犯人と思った理由さ」
俺は語り終えると、黄砂を見た。
「その可能性は否定できひんな」
黄砂は手を口元にやって唸った。
「菜紅は樂と冷流の家か、滅火高等学校にいると思う」
俺は日記を閉じると、こたつの上に放り投げた。
「滅火高等学校は広いから探すの面倒くさいし、樂と冷流の家だけ捜す事にしよう。そこに確実にいるって体でな」
ドン、と音がした。黄砂がこたつを叩いた音だ。
「面倒いって何なん? 体ってどういうことやねん!」
黄砂は怒っていた。怒った顔も可愛いな。
「あ~はいはい。滅火高等学校も捜せばいいんだろ」
「適当すぎへん? 心配やないんか」
黄砂は俺の目をじっと見つめた。
「樂と冷流は危害を加えるようなタイプじゃないから大丈夫だろう。菜紅と遊んだりしてるかもしれないな」
「……そうやな」
「今日は早めに寝て、明日早起きして捜しに行くぞ、黄砂」
「おう」
黄砂はしっかりと頷いた。
感想頂けると嬉しいです。