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メモにあった住所まで隣人はバイクを飛ばした。
わかりにくい場所にこっそり存在する蔦のからまる地味なバー。
一応正面の扉を回って違う扉を見つけて開けると声が飛んで来た。
「樽そこに置かないでよ!」
隣人は眉間にシワを寄せた。すると角から40くらいのオヤジが顔を出して喚いた。
「人手がないんだから奥まで運んでもらわないとこっちも……って、ビールは?!」
「酒屋じゃないです」
「え?じゃ何、って、あ、君、あ、バイト?坂本の代わり?まじで?」
おおげさにオヤジが驚いて一歩下がったので、後ろでしばった髪が長いクセ毛であることがわかった。
「へ~!こりゃいいや!じゃ着替えてよ!」
胸の前で手を合わせて喜ぶオヤジが、自己紹介した。
「僕ここのオーナーで鈴山と言います。君、名前は?」
「原田です」
原田の背を押してオーナーがロッカールームのドアを開け、用意してある服のサイズを適当に探した。しかし原田は規定外サイズなので、シャツは2Lの袖をまくり、下は履いてきたジーンズで、カウンターを出ない仕事に終始することになった。
「今日は主に雑用ってことになるけど、徐々に仕事覚えていってね!きっと原田君、看板になるわ!」
不思議と徐々にオーナーの口調が、よれてきた。
「……長期のバイトとは聞いてないんですが」
「今日明日こなせたら長期なんか楽勝よ!」
「時給1500円と聞きましたが」
「え?!!」
両方の手の平を胸の前で広げて見せるという冗談のようなポーズでオーナーが驚いたところで、店の方からオーナーを呼ぶ声が聞こえた。それを聞いてオーナーは胸の前で音を立てて両手を合わせた。
「そうそう!それどころじゃない!ビールが来てないんだわ!さっそくだけど原田君、店内で洗い物してくれる?格好は今日はそれで構わないからね」
頼んだわよ!と原田の背を叩いてオーナーが出て行った。
1500円は乗せすぎたか、原田は頭の後ろを掻いた。
着替えてから適当にドアを開けてみると、通路の奥にカウンターが見え、そこから店内の一部が見えた。とりあえずそこにいるスタッフを小声で呼んで、作業の指示を頼んだ。
「え?坂本来ないの?客来てるのになぁ」
それを避けるために休んだんですよ、とは言わなかった。
原田は基本的に無口だ。
そのスタッフは忙しい中親切に色々教えてくれたので、その後はわりと自由に働けた。
洗い物はここ、オーダーはこれ、順番は右から、ストックは前から、レシピは棚の裏、難しいことはないけど雑用が多くてね。気付いたことやってくれればいいから。
洗い物をして野菜をむいて果物を切って盛り付け、空いた皿を受け取って洗う。
客と談笑しているバーテンたちの後ろでクルクルと動く原田の姿は、話し相手のいない客のいい暇潰しになっていた。
その原田に、長時間カウンターに居座っている髪の長い女性客が声を掛けた。
「あなた、坂本君の代わり?」
「はい」
「彼は今日来ないの?」
「来ません」
「家にもいないし携帯も切ってるのよね……」
ああ、この客が、と思ったもののやはり無口な原田は無表情に俯き、空いたグラスを洗い始めた。
「どこにいるか分からないの?」
客は怒り口調で声のボリュームを上げて原田に問う。
顔を上げずに上目遣いで原田が答える。
「申し訳ありません」
原田の強い視線に負けた客が目を逸らし、ため息をついた。