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シューズボックスの上に置きっぱなしにしてある宇宙ステーションDS9のミニチュアモデル。
あの価値がわかる人間にはこれまで出会ったことがない。
「スタートレック?ああ、ミスタースポックが乗ってる宇宙船か」
これが最も好感触だった返事。
だからもう誰にも説明もせずに、埃にまみれて下駄箱の上。
坂本自身が忘れていた。
アメリカに旅行したときに買ってきた、日本では売っていない大型のモデルなのだ。
埃が積もっているとは言え、坂本の宝物の一つなのだ。
それを、
と、恐らく顔色が変わったのだろう。
隣人が言葉を足した。
「珍しいタイプですからね。無理ならしょうがないです」
「無理じゃない!わかった!持っていってくれ!」
速攻で坂本が切り返した。
大切なDS9も今この状況を打破できるなら惜しくは無い。
と、隣人の低い声を聞いた時には決意した。
そして直後には後悔した。
隣人が初めて笑顔を見せたからだ。
ほんの少し口角を上げて、ほんの少し目を細めた。
恐らくその表情は「してやったり」の笑顔に違いなく、してやられたのは坂本だ。
そしてほんの少しのその微妙な表情の変化は、男の坂本でも凍りつきそうな、痺れそうな男前で、こういう男はある種の女を非常に惹きつけることを坂本は知っている。
DS9をむざむざと奪い取られ、そして多分バーの客もこの男に取られる。
それを感覚的に察知して、坂本は後悔した。
ただもう話は展開しているし時間は過ぎる。
坂本の心中を慮る思いやりも余裕も誰一人持っていない。
隣人などは切れ長のつり目を柔らかく曲げて言った。
「先にDS9を渡してもらえますか。それ貰った後にバイトに出ますよ」
坂本は靴も履かずに隣人の部屋から出て隣の自分の部屋まで行き、ドアを郵便受けの下にある鍵で開けて入ろうとしたらドアガードがかけてあったため、再び隣人の部屋に戻ってまたベランダを伝って部屋に入ることになった。
バカ過ぎて自分が嫌だ。
クリスマスイブイブに足の裏を真っ黒にして、坂本は惨めな気分に陥った。
いやしかし、降って湧いたトラブルは上手い具合に解消したのだし、これから予定通りのデートじゃないか!
気分を奮い立たせて玄関まで行った。
しかし大切なDS9を両手で抱えた時には少し涙が出た。
大切なDS9を唇を噛み締めて、両手に乗せて渡した。
隣人はそれをそのまましばらく眺めて、最終的に眉間にシワを寄せて首を傾げた。
「汚い」
低く掠れる例の声で呟く。
ムカァっと腹の底から何か熱いものがこみ上げた。
しかしその坂本の気持ちにおかまいなく隣人はDS9に乗る埃に軽く息を吹きかけた。
それが不快じゃなかったのは、坂本に向けて吹かなかったからだ。
こんなことをありがたがっている自分はきっと今、相当辛いのだ。
こんなところ早く逃げ出そう。
その後手早くバーの地図を簡単に書いてオーナーの電話番号を教えて、坂本は涙を拭いてその部屋を飛び出した。
「どのあたり?」
隣人が手に持つメモを覗きこんで美男が呟く。
「今池」
美男を避けるように体を引いて、長身の隣人は電話をとってメモに書いてある番号を押した。
じきに始まった会話が初めての相手とは思えない短さで終わった。
「どしたの?断られた?」
美男が驚いて訊いたが、隣人は驚かれたことに驚いた。
「今すぐ来いって言われただけだ」
「短すぎない?」
「長話できるなら急ぎのバイトなんかいらないだろ」
ああ、と美男は納得した。
「だから今すぐ出る。お前も出て行け」
はいはい、と美男はアメリカ人のように肩をすくめた。
もう一度、隣人が美男を呼んだ。
「君島。明日は来るなよ」
「なんで?イブ、ヒマでしょ?」
「ヒマでもお前の顔は見たくない」
「そんな理由なら絶対来るよ」
隣人が怒鳴る前に、君島は部屋から飛び出した。