一章
諸事情ありまして以降の話を下げました。申し訳ありません。
唇がふれた。
驚くほど近くに他人の体温を感じて、透子は目を見張る。
乾いた感触と汗のにおいを残して、それは本当に一瞬で離れた。
見上げた先、息が触れるほど近くに、中学からの友人の初めて見る顔がある。
「…そういうことだから。考えといて」
何が、そういうことなのか。
茫然として立ちつくしたまま、透子は友人だと思っていた男が立ち去る背中を見送った。
◇
浦島透子と田中総司が初めて話したのは、中学校に入った年の夏だった。
委員会の当番で図書室に出向くと、カウンターにはいるはずの人がおらず、代わりに隣のクラスの少年が退屈そうな顔で頬杖をついていた。
「兄貴の代理。用事が出来たって、押しつけられた」
透子が来たことに気付いても、総司は顔を上げなかった。手塚治虫の漫画をぱらぱらめくりながらそれだけ告げてくる。
透子は戸惑いながらも頷くしかできなかった。
(先輩、用事なんだ…)
驚くほど沈んでいく気持ちを押しやって、カウンターに並んで座る。
その一瞬、隣の少年が漫画をめくる音が止まった気がした。
「え、何?」
「…なんでもねー」
何か間違えたかと少し不安になったのに、返ってきたのは不機嫌そうな声で一言だけ。
こちらを見ようともしない総司に少しムッとして、透子も彼から顔をそらして眉をしかめた。
(無愛想なやつ)
弟なのに、先輩とは随分違う。
彼の兄である田中恵一先輩は、真面目で優しい人柄と優秀な成績から、顔見知りの誰からも慕われ信頼される人だった。美術部の部長と図書委員長を兼任していて、透子は委員会の方の後輩である。
慣れない図書室の仕事で緊張する透子に優しく話しかけ、フォローしてくれる二つ年上の先輩に、透子はあっという間に恋をした。
先輩とは委員会の当番でくらいしか会えないから、今日だって楽しみにしていたというのに。
透子はちらりと隣をうかがった。
先輩とよく似た、しかし先輩よりずっときつい目をした少年が面倒くさそうに鉛筆を回している。漫画はもう読まないらしい。
(あーあ…)
せっかく先輩とお話できると思って来たのに実際はこれか、なんて思うと、中学一年生にして現実は甘くないと知った気分だ。今日は先生もいないから五時までずっと二人だけなのに、これじゃあちっとも楽しくない。
それどころか、気づまりですらある。
彼は一度も透子の方を見ていないし、しゃべるときだって不機嫌そうだ。先輩から代理を頼まれたのがよっぽど気に入らないらしい。
二人して黙ったまま、時間はのろのろと過ぎていった。
こういう日に限って、利用者は一人もやって来ない。明日は祝日で休みだから、みんな早々に帰ってしまったのだろうか。
ひとが来ないなら、と透子は鞄から楽譜を取り出した。透子が所属する合唱部の夏コンクールの課題曲だ。全国まで上がる大きなコンクールだが、学年全部で十三人しかいない合唱部だから一年生の透子も出場する。
「それ、」
膝の上に楽譜を広げると、総司が話しかけてきた。初めて目が合ったと思ったのに、それはすぐにそらされてしまう。
自分は漫画を読んでいたくせに、透子が楽譜を見るのは咎めようと言うのだろうか。
あからさまに顔をそらされたことに傷ついて、透子は総司を睨んだ。
「何よ、駄目なの?」
「…それ、最近歌ってるやつ?」
こちらを見ないまま、総司はぼそぼそとしゃべった。
言われた内容が意外で、透子はさっき感じた苛立ちをあっさり忘れてしまう。瞬きを二つする間、返す言葉が出てこなかった。
「…そうだけど。知ってるの?」
「まあ。聞こえてくるし」
俺、陸上部だから。
向こうを向いて話す総司の耳がなぜか赤い。北向きに造られた図書室は年中ひんやりしているが、夏だし、彼には暑いのかもしれなかった。
「陸上部って、どこで練習してるっけ」
「野球部の隣。校庭の左の方」
理科室のすぐ横だった。
四階の音楽室は吹奏楽部が使っているから、合唱部は一階の理科室で練習している。顧問が理科の先生で、教室を貸してくれているのだ。
(窓の向こうの、陸上部だったんだ)
やたら走ってるなと思ったら、そういう理由か。
窓越しとはいえ毎日隣で練習しているという総司に一気に親しみがわく。ちっともこちらを見ない少年に、透子は話しかけた。
「うちのお姉ちゃん、高跳びしてたんだ。田中くんは陸上って何してるの?」
「…短距離。浦島の姉ちゃんて、西高の浦島綾子だろ」
「あたしとお姉ちゃんの名前、知ってたんだ。なんで?」
びっくりして聞くと、総司はそっちだって知ってるじゃん、とムスッとした声で返した。
「あたしは、だって、…隣のクラスだし」
田中先輩の弟だし、と出かけた言葉は呑み込んだ。
本当は、初めて先輩と二人で委員会の当番になったときに弟がいると話してくれたから知っていた。
――――俺の弟ね、田中総司っていうんだ。四組なんだけど、浦島さんはあったことある?
先輩から聞かれた次の日、透子は四組の友達に辞書を借りに行くふりをして総司を見ていた。でも、さすがにそんなことを言うわけにもいかない。
透子が動揺したのには気づかない様子で、総司は俺も、とぼそぼそ告げた。
「浦島の姉ちゃんは、陸部の顧問が言ってた。県大で三位だったんだろ?」
「そうみたい。でも、高校ではやってないよ。日焼けするから嫌なんだって」
「もったいねー」
言葉とは反対にどうでもよさそうな口ぶりだった。
会話が途切れて、透子は楽譜に目を通す。ちら、と彼が視線を向けてまた戻した。
「…浦島はさ、陸上とか、やんねーの?」
「え?」
「や、岡セン…顧問が、なんか、妹だしって」
顔を向けると、総司はちょっと急ぐみたいに喋る。透子は少し困ったような気持ちで笑った。
「あたし、お姉ちゃんと違って運動も勉強もできないから。走るのとか、すごく苦手」
「…へえ」
「歌うの、好きだし」
本音を、なんでもない風に付け足した。
それだけでも、内心はすごくドキドキした。歌うのが好きなんて小さな子供みたい、と笑われそうで少し恥ずかしい。実際、姉に言った時にはちょっと可笑しそうな顔をされた。
「いいんじゃねーの」
こちらに顔を向けて、総司はそんなふうに返した。すぐに、今度はうつむいて視線をそらす。
「…浦島の声、いいと思う。勉強とか運動とか、出来なくても別にいいじゃん」
「あ、ありがとう…」
今日は総司の言葉にびっくりしてばかりだ、と思う。
それでも、そんな風に言われて悪い気はしなかった。
(先輩とは会えなかったけど、今日、図書室当番でよかったかも)
口元をほころばせた透子に、総司が顔を上げないまま「なあ」とまた声をかけてくる。
「合唱部ってさ、発表会とかすんの?」
「あ、うん。八月にコンクールがあるよ。あと、秋に吹奏と一緒に定期演奏会」
「コンクールって、今歌ってるやつ?」
「うん。課題曲」
「…聞きに行きたい。日にち教えて」
「え?」
ぼそぼそしゃべるから、聞き間違いをしたみたいだ。
耳を寄せると、いきなり顔を上げた総司と思いがけないくらい近くで目があった。
「合唱部の歌、けっこー好きだから聞きに行く。日にち教えて」
先輩とよく似た、先輩よりも少し幼くてきつい顔。
田中総司と初めて会話した日、透子は彼に夏コンクールのチケットを渡した。