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いせこい

病弱な幼馴染のために部屋を明け渡せと言われたので、屋敷も夫も明け渡しました

作者: 住処
掲載日:2026/06/29

「マリアンヌ。リリエットのために、南の部屋を明け渡してほしい」


 夫のエリアスがそう言った時、私は手元の鍵束を一度だけ見下ろした。


 南の部屋。


 ああ、はいはい。つまり奥方の間である。


 暖炉の煙が逆流しにくく、冬でも日が入り、薬草を干すにも帳簿を読むにも都合がよい。ついでに言えば、結婚契約書にも私の使用する居室として明記されている部屋だ。そこを病弱な幼馴染に譲れというのだから、我が夫ながらなかなかいい根性をしている。


「リリエット様は客間ではいけませんの?」


「客間は北向きだ。彼女の身体には障る。君は丈夫だろう」


 丈夫。


 便利な言葉である。


 丈夫な女は寒い部屋で眠れるし、丈夫な女は夫が幼馴染につききりでも笑っていられるし、丈夫な女は屋敷の帳簿を夜更けまで直しても翌朝には何事もなかった顔で食卓に出られる。なるほど。丈夫ってすごいな。私、もしかして牛か何かか。


「それから、リリエットは長旅で疲れている。しばらく私も南の続き部屋で休む。彼女は昔から夜に咳き込むと不安がるから」


「まあ」


 いや、このまあは危険な音だった。


 この場合のまあは、淑女として最低限口から出してよい音を選んだ結果である。本音を言えば、へえ、妻の部屋の隣で幼馴染の夜の咳まで面倒を見るんですねこの人、であった。


「誤解しないでくれ。リリエットは妹のようなものだ」


 出た。妹のようなもの。


 社交界で男がこれを言う時、たいてい妹扱いで終わらない。妹なら義姉の部屋を奪わないし、夜中に既婚男性を呼ばないし、そもそも私の結婚式の日に倒れて夫を連れ去ったりしない。


 いやまあ、病弱なのは本当なのだろう。顔色は薄いし、手首も細い。だが病弱と無礼は別の問題だ。そこを混ぜると、だいたい周囲の女が割を食う。


「承知いたしました」


「分かってくれると思っていた」


 エリアスは露骨に安堵した。


 分かる。分かるとも。私はこの半年で、あなたが私に何を求めているかよく分かった。


 屋敷の使用人をまとめること。崩れていた台所の買い付けを整えること。滞っていた小作料の記録を読み直すこと。あなたの亡き母上の茶会名簿を復元すること。リリエット様のために医師へ紹介状を書くこと。そして笑顔で邪魔にならない場所へ退くこと。


 うん、なるほど。


 では退こう。


 盛大に。


「では南の部屋だけでは手狭でしょうから、屋敷もお譲りします」


「は?」


 おや、変な声が出ましたね旦那様。


「リリエット様は病弱でいらっしゃるのでしょう。階段も廊下も、使用人の動線も、台所の匂いも、すべてお気に召すよう整えた方がよろしいかと。私は持参金に基づく管理権を本日付で引き上げ、実家より派遣した家令と侍女も連れて出ます」


「待て。君は何を言っている」


「部屋を明け渡せとのことでしたので」


「部屋の話だ!」


「あら、私には同じことです」


 私は鍵束から銀の小鍵だけを外した。これは私物を入れた櫃の鍵で、残りは屋敷のものだ。倉庫、ワイン蔵、薬草室、帳簿棚、銀器室、客間、南の部屋。結婚してから私が一つずつ整理し、紛失分を作り直させた鍵である。


「屋敷は差し上げます。夫もどうぞ。私はどちらも、もう要りませんので」


「マリアンヌ!」


 怒鳴られても困る。


 怒鳴りたいのはこちらである。


 だが淑女なので怒鳴らない。淑女は怒鳴らず、契約書を持つ。素晴らしい。教育って大事だなあ。


 私は侍女のネリーを呼び、結婚契約書と持参金台帳と、ここ半年で私が作った冬支度の控えを荷箱へ入れさせた。エリアスは私の腕を掴もうとしたが、ネリーが間に入った。小柄な侍女なのに、その時だけは門番のような顔をしていた。


「奥様にお触れにならないでくださいませ」


「使用人風情が」


「その使用人風情の給金は、奥様の持参金から出ております」


 ネリー強い。


 うちの侍女、もしかして私より肝が据わっているのでは。


 私は少し感動しながら外套を羽織った。玄関広間には、ちょうどリリエットが青いショールをかけて立っていた。薄い唇を震わせ、今にも泣きそうな顔でこちらを見る。


「マリアンヌ様、私のせいで……」


「ええ」


 うっかり即答してしまった。


 リリエットが固まる。


 しまった。ここは、あなたのせいではありませんわ、と言う場面だったかもしれない。だが私は聖人の器を持ち合わせていない。あと寒い。北向きの部屋に移れと言われた直後に、病弱な幼馴染へ聖母の微笑みを向けられるほど人間ができていない。


「けれど、お望みの部屋は空きます。どうぞお大事に」


 私はそれだけ言って屋敷を出た。


 馬車に乗ると、胸の奥が遅れて痛み出した。


 エリアスを愛していたかと問われると、少し困る。政略結婚で始まった相手だ。燃えるような恋などなかった。だが、朝の食卓で向かい合う人として、冬の領地を一緒に越える人として、少しずつ信じようとはしていた。


 その少しずつが、南の部屋を明け渡せの一言で綺麗に折れた。あーあ。我ながら情けない。泣くほど大袈裟な傷と思っていなかったのに、馬車の窓に映る顔はきっちり泣きそうだった。


「奥様、行き先はご実家でよろしいのですか」


「いいえ。まずは聖堂裁判所へ」


「まあ」


 ネリーが目を丸くする。


「それから商会へ。屋敷への掛け売りは今日で止めます。冬越しの麦と薪は、まだ私名義の保管分があるでしょう」


「はい。旦那様名義の分は、正直申し上げて雀の涙です」


 雀に失礼な量だった記憶がある。


 エリアスは領主の仕事自体を嫌っていない。だが彼は、人が勝手に段取りを整えてくれる状態を仕事だと思っているところがあった。来客があれば茶が出て、客馬の飼葉があり、契約書は揃い、倉庫には冬の麦がある。当たり前に見えるように、誰かが毎日整えているだけだ。


 私が聖堂裁判所へ訴えを出すと、老いた書記官は契約書を読みながら眉を上げた。


「奥方の居室を未婚女性へ譲り、夫君もその続き部屋に入ると」


「はい。病弱な幼馴染の看病のためだそうです」


「ほう」


 書記官のほうがよほど怖い声を出した。


 その隣で、巡察官のギヨーム卿が帳簿をめくっていた。王都から領地監査に来ていた方で、古い伯爵家の嫡男でもあり、以前、エリアスが放置していた小作契約の修正で顔を合わせたことがある。


 灰色の瞳に、黒に近い髪。顔立ちは整っているのに甘さへ逃げず、口を結ぶと裁判所の石壁みたいに手強そうに見える。あれで王都の夫人方から茶会の招待状が山ほど届くというのだから、世の中は分かりやすい。ついでに言うと、本人はそれを全部書記官に回しているらしい。ひどい。招待した側の心を少し考えてあげてほしい。


「この屋敷の修繕費、薪の先買い、使用人の未払い給金、すべて夫人の持参金から出ているのですね」


「はい」


「領民への薬草代も?」


「それは私の母の遺産からです。冬咳が流行ると困りますので」


「困るのは領民ですか。それとも夫君の評判ですか」


 私は少し考えた。


「どちらもですわね」


 ギヨーム卿はそこで初めて、ほんの少し笑った。


「正直でよろしい。では、あなたの名で出しましょう。屋敷の管理権停止、持参金の保全、夫君による婚姻契約違反の審理申立て。あなたは怒りに任せて家を出た妻ではなく、契約に基づいて財産を守る当事者です」


 おお。


 何か急に賢そうに聞こえる。


 いや、実際賢いことをしたはずなのだが、本人の中身はわりと、もう知らん帰る、である。人間なんてそんなものだ。立派な決断の皮を剥けば、だいたい疲労と我慢の限界が入っている。


 それから十日ほどで、屋敷は見事に傾いた。


 物理的に屋根が傾いた話ではなく、建物もそこまで古びていない。だが内側は実に分かりやすく崩れた。


 まず台所が止まった。商会が掛け売りを止めたからである。次に暖炉が止まった。薪の在庫は私の保管分で、屋敷分は玄関用を数束残すだけだった。さらに使用人が半分消えた。給金が私の持参金から出ていると知った者から、そりゃそうだよねという顔で私の実家へ移った。


 そしてリリエットは南の部屋が寒いと言い出した。


 いや南の部屋で寒いなら北の部屋に移される予定だった私はどうなるのか。氷像か。


 エリアスは三日目に手紙を寄こした。戻ってくれ、誤解だ、リリエットは本当に弱い、君なら分かってくれると思った。分からん。幼い頃から守ってきた少女を放っておけなかったのだろう。そこだけなら、まだ話し合えたかもしれない。だが彼は私を妻として扱わず、屋敷を動かす便利な手として扱い、その手が邪魔になった瞬間に北の部屋へ置こうとした。


 聖堂裁判所の審理は、領主館の広間で公開された。領民、商会主、近隣の小領主、教会の助祭までが集まっている。私を屋敷から出した噂はもう広まっており、世間というものは本当に足が速い。馬より速い。怖い。


 エリアスは疲れた顔で立っていた。隣のリリエットは椅子に座り、青ざめている。あの人は本当に身体が弱いのだろう。だからこそ、自分のために誰が傷ついてもよいと学んでしまったのかもしれない。


 書記官が契約書を読み上げる。


 妻の持参金により屋敷を修繕したこと。


 南の部屋を奥方の居室と定めたこと。


 夫が妻の承諾なく未婚女性を同室区画へ入れたこと。


 妻が管理していた財産を、夫が自分のものとして扱おうとしたこと。


 淡々と並べられると、なかなか酷い。


 エリアスは何度も私を見た。


「マリアンヌ、私は君を追い出すつもりなどなかった。ただ、リリエットが苦しんでいて」


「ええ。ですから部屋も屋敷もお譲りしました」


「違う、言葉が足りなかっただけだ!」


「私を北の部屋へ移し、あなたはリリエット様の続き部屋で休む。商会との交渉と使用人の管理と冬越しの手配は、これまで通り私がする。あなたのお考えは、そういう意味だったのではありませんの?」


 エリアスが黙った。


 沈黙は便利だ。時々、下手な自白よりよく喋る。


 ギヨーム卿が一歩前へ出た。


 広間の空気が少し変わった。エリアスが声を荒らした時には咳払いをしていた商会主たちも、ギヨーム卿が立つと背筋を正す。王都の巡察印と伯爵家の名が同じ男の胸にあると、声を張らずとも人は黙るらしい。


「夫人が去った後、屋敷の薪、麦、薬草、給金の管理が止まりました。つまり屋敷は夫人の働きで維持されていた。夫君はそれを妻の義務と考え、対価も尊重も示さなかった。さらに婚姻の場に第三者を入れ、夫人の居場所を奪った。裁定は明らかでしょう」


 エリアスが唇を噛む。


「私は、彼女を愛していなかったわけでは」


 ああ、今それを言うのか。


 遅い。とても遅い。冬越しの麦を春に蒔こうとするくらい遅い。


「エリアス様」


 私は初めて、彼の名を夫ではなく一人の男として呼んだ。


「私も、あなたと穏やかに暮らせたらよいと思っておりました。でも私はもう、あなたの屋敷を動かすための丈夫な妻には戻りません」


 言い終えたら、胸の奥が少し軽くなった。


 裁定により、私の持参金は保全され、屋敷の管理権は一時的に聖堂預かりとなった。エリアスは商会への未払いと契約違反の賠償を負い、リリエットは親族の修道院へ移されることになった。病弱な彼女に厳しい処分は下らなかったが、既婚男性の居室区画へ入った件で社交界へ出る道はしばらく閉じる。


 まあ、命まで取る話でもあるまい。


 ただ、人の部屋を欲しがるなら、その部屋に付いている責任も見てからにしましょうね、という話である。


 審理の後、私は広間の外でギヨーム卿に呼び止められた。


 冬の弱い光が窓から差していて、彼の横顔にだけ妙に綺麗な陰が落ちていた。疲れているはずなのに背筋は少しも崩れず、手袋を外す指先まで落ち着いている。こういう人を前にすると、世の令嬢が扇で口元を隠す理由がよく分かる。私も扇があれば隠した。手元にあるのが訴状の控えで本当に惜しい。


「マリアンヌ夫人。しばらく王都へ戻るおつもりですか」


「実家に帰って、父に小言を聞かされる予定ですわ。たぶん三日ほど」


「三日で済むとは羨ましい」


「四日目には私が反撃しますので」


 ギヨーム卿が咳払いをした。笑ったのを誤魔化したらしい。真面目な顔をしているが、案外分かりやすい人だ。


「私の領地で、冬支度の管理役を探しています。正式な給金と住まいを用意します。もちろん、返事は急ぎません」


「私、離縁の裁定が終わったばかりですのよ」


「ですから仕事の話をしています」


 ああ。


 そういう順番で来るのか。


 まず安全。次に仕事。対価。尊重。その先は、私が選んでよい場所に置いておく。


 私は少しだけ目を伏せた。泣きそうになったから、ということにしておく。今日の私はわりと忙しい。怒ったり笑ったり、屋敷を手放したり、夫を手放したり、何なら新しい仕事まで拾いそうになっている。


「考えさせてくださいませ」


「もちろん」


「ただし、南向きの部屋があるなら少し前向きに考えます」


「日当たりのよい部屋を用意しましょう。あなたが誰かに明け渡す必要のない部屋を」


 その言葉は、求婚よりもずっと胸に残った。


 後日、私はギヨーム卿の領地へ移った。管理役として雇われ、帳簿を直し、冬越しの麦を数え、薬草庫を整えた。給金は期日に支払われ、私の意見は会議録に残された。


 南向きの部屋も、本当に用意されていた。


 朝になると机に光が落ちる。窓辺では薬草が乾き、ネリーが茶を淹れ、遠くの中庭でギヨーム卿が馬丁と何やら話している。仕立てのよい濃紺の上着も、磨かれた長靴も、彼が身につけると見せびらかしに見えない。ただ身分と余裕が静かにそこへ立っている、という感じになる。ずるい。とてもずるい。


 彼は時々こちらを見上げ、私に気づくと帽子に手を添える。


 うーん。


 あれは少しずるい。


 屋敷も夫も明け渡した私は、空っぽになったつもりでいた。だが実際には、余計なものを手放しただけだったらしい。


 私の手元には鍵がある。


 私の部屋の鍵。私の机の鍵。私の給金箱の鍵。


 そして、これから先の扉を開けるかどうかを、私自身が決めるための鍵である。


 病弱な幼馴染のために部屋を明け渡せと言われたので、屋敷も夫も明け渡しました。


 結果として、私はようやく、自分の居場所を手に入れたのである。


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