新婚旅行②
朝は、思ったより静かだった。
障子の向こうから、やわらかい光が滲んでいる。
昂汰が先に目を覚ます。
腕の中が、軽い。
一瞬だけ反射で手が動く。
(……おらん?)
次の瞬間、すぐ近くで小さな呼吸が聞こえた。
詩は、まだ寝ていた。
昨夜のままの体勢で、少しだけ丸くなっている。
浴衣の袖が少し乱れていて、髪もほどけかけている。
無防備すぎる朝。
昂汰はしばらく動けなかった。
詩が小さく息を吐く。
「……ん」
そのまま、昂汰の服の裾を掴む。
ふう、と一息つく。
「…もう知らん」
そう言って自分の腕の中に閉じ込める。
(俺のもんや)
しばらくして、詩のまぶたがゆっくり上がる。
「……あ」
状況理解に数秒。
「おはようございます……」
まだ声が寝てる。
敬語戻ってるのもまたややこしい。
昂汰は少しだけ笑う。
「おはよう」
詩はゆっくり瞬きして、状況を把握していく。
そして、当たり前みたいに昂汰の腕の中にいる事に気づく。
「起きるか…?」
優しい声に、甘えたくなって
イヤイヤと首を振る
そのまま、もぞもぞと
腕の中潜り込んで
自分の位置を探す様子に
頭の上から笑い声が落ちてくる
わたしだけの大好きな
この場所を
もう少し堪能したくて
土産物通りは、人が多かった。
観光客の笑い声と、紙袋の擦れる音。
詩は少し遅れて歩きながら、
ショーケースの中を見ていた。
(これ、持って帰れるかな)
そんなことを考えていた時だった。
前の方で、ざわつきが起きる。
「え、今のって…」
「早瀬だよな?」
「ほんとに本人?」
一瞬で空気が変わる。
詩が顔を上げるより先に、
人の流れがそっちに吸い寄せられていく。
昂汰の周りに、人が集まっていた。
見慣れた光景。
笑顔で対応して、軽く手を振って、
必要な距離だけで収めていく。
(あぁ…)
詩は少しだけ足を止める。
見慣れているはずなのに、
今日はどこか違って見えた。
隣にいるはずの人が、
一瞬だけ“遠くの人”になる。
観光客の一人が、
「一緒に写真いいですか?」と声をかける。
昂汰が軽く頷く。
その瞬間。
詩の胸の中に、言葉にならないものが落ちる。
さっきまで、隣にいたのに。
今は、囲まれている。
笑ってる。
ちゃんと仕事の顔。
それが分かるからこそ、
余計に。
詩は小さく視線を逸らす。
別に、何も悪くない。
いつも通り。
ただ、それだけ。
なのに。
気づいたら、
足がそっちに向いていた。
人の輪の外側で止まる。
そのまま、じっと見る。
昂汰の笑顔。
誰にでも向けられる、あの感じ。
(……今は)
喉の奥が、少しだけ詰まる。
「写真ありがとうございます」
「応援してます!」
「旅行ですか?」
相手をしながらさりげなく
キョロキョロと動いていた視線が
詩を捉えて
安心したように表情が緩む。
いつもなら。
それで満足なのに。
旅行中で、
少しだけ力が抜けてて、
隣にいる時間が長くて、
“いつもより近い”せいで。
胸の奥が、ちょっとだけもやっとする。
(……なんか)
(ちょっと嫌だな)
理由ははっきりしない。
でも、いつもの距離じゃないのは確かだった。
人だかりが少しずつほどけていく。
「ありがとうございましたー」
「また来てくださいね!」
背中にそんな声を浴びながら、昂汰はようやくその場から抜けた。
(……詩)
いない。
一瞬、間が空く。
(え)
さっきまで、確かにあそこにいた。
ちゃんと確認してた。
「うた…?」
返事はない。
視線を動かす。
通りの端。
店の影。
どこにもいない。
昂汰の表情から、余裕が一気に消える。
(どこ行った)
スマホを取り出す。
呼び出し音。
出ない。
もう一回。
出ない。
(は?)
一瞬、嫌な想像が頭をよぎる。
人混み。
観光地。
舌打ちして、歩き出す。
速い。
ほぼ走りに近い。
「詩!」
声が出る。
周りの人が振り返る。
でも詩はいない。
(ふざけんなよ)
焦りが、少しずつ苛立ちに変わる。
その頃。
詩は少し離れた石段に座っていた。
人混みから逃げたつもりだった。
さっきの光景が頭から離れない。
笑ってる昂汰。
囲まれてる昂汰。
当たり前の光景なのに。
(……私、何してるんだろ)
ただの仕事の延長だって分かってる。
分かってるのに。
勝手にモヤモヤして。
勝手に距離を取って。
(こんなの…面倒すぎる)
戻ろう。
ちゃんと普通にしよう。
そう決めて立ち上がる。
その瞬間。
スマホが震えていることに気づく。
着信。
昂汰さん。
何件も。
「……っ」
血の気が引く。
慌ててかけ直そうとしたとき。
「詩っ!!!」
声が飛ぶ。
さっきまで探してた足音が、そのまま距離を詰めてくる。
詩は振り向いた瞬間に、言葉が止まる。
(あ……)
昂汰の顔。
近い。
いつもの落ち着いた感じがない。
目が、明らかに焦ってる。
怒ってるというより、
“切れる直前のやつ”。
詩は反射で一歩下がる。
その瞬間。
彼の足が止まる。
「……は?」
一拍遅れて出た声。
低い。
詩の方に、空気が一段落ちる。
(やばい)
本能で思う。
もう一歩、無意識に後ずさる。
その動きが見えた瞬間。
昂汰の眉がぴくっと動く。
「いや待てや」
詩の肩が跳ねる。
「なんで下がんねん」
詩は答えられない。
ただ、空気が怖い。
周りの雑音だけが遠くなる。
「詩」
「……」
「なにしてん」
詩は小さく首を振る。
その瞬間。
昂汰の中の何かが切れる。
「……は?」
今度ははっきり怒りの音。
一気に距離を詰める。
詩の前で止まる。
逃げ道、ない距離。
詩は目を伏せる。
「ごめ…ごめんなさい……」
「謝れって言うてへん」
即答。
詩の肩がびくっとする。
昂汰は一回息を吐く。
でも全然収まってない。
「連絡出えへん」
「勝手にいなくなる」
「見つけたら逃げる」
一個ずつ、確認みたいに言う。
詩は小さくなるだけ。
「……なんで?」
低い声。
「なんで…?」
繰り返される言葉に
詩はやっと顔を上げる。
でもすぐ逸らす。
その反応見て、昂汰が一瞬黙る。
(……あかん)
(怖がらせてる)
って頭では分かってる。
でも体が追いつかない。
詩がまた一歩、さらに後ろに下がる。
その瞬間。
昂汰の表情が固まる。
「……は?」
今度は怒りじゃない。
完全に“理解できてない声”。
詩が自分から距離を取っていくことに、反応が遅れる。
昂汰の中で一回、思考が止まる。
(また、逃げた?)
その一言で、逆にスイッチが変わる。
怒りじゃなくて、焦りが上に来る。
「……ちょい待て」
声のトーンが少し変わる。
さっきより低くて、でも少しだけ柔らかい。
一歩、詰める。
詩は反射でまた後退りする。
それ見た瞬間。
昂汰の顔が一瞬だけ歪む。
「いや、ちゃう」
「そういうんちゃうやろ」
今度は詰めるんじゃなくて、手が出る。
詩の腕を掴む寸前で止めて、服の袖だけ軽く押さえる。
「逃げんなや」
声、少しだけ落ちる。
詩は固まる。
「怒ってへん」
「いや、怒ってるけど」
自分で矛盾してるの分かってる顔。
一瞬黙ってから、短く言う。
「でも今のは違う」
詩はまだ呼吸が浅い。
昂汰はそこでやっと気づく。
(あ、これ)
(ほんまに怖がらせた)
一回、息を吐く。
掴んでた袖の力を抜く。
でも離さない。
「……ごめん」
小さい声。
さっきまでの圧と真逆。
詩はすぐには動けない。
昂汰は少しだけ視線を落としてから、言い直す。
「…けど、心配してん…っ」
一回間。
詩がようやく少しだけ目を上げる。
「気ぃついたらおらんくなって」
「電話しても出ぇへん」
「…なにがあってん」
静かな声。
でも頭の中はぐちゃぐちゃのままで。
“隣にいたのに”
“みんなに囲まれてた”
“わたし、と”
“2人だけの”
…言えるわけない
けど。
向けられてた視線も
サインを書く手も
写真に収まる笑顔だって
(だって…だって…!)
「うた…」
「昂汰さんはわたしのなのに…っ」
重なった声。
一瞬、音が、消えた
「…は?」
「え…?」
声を出したのは2人同時で。
「ちょ、待て待て」
我に帰ったのか
真っ赤な顔で
少しずつ後退りを始める詩に
もう逃げられては敵わない
慌てて捕まえて。
「うた…」
口に手を当てて必死に首を振る
「…言ってない」
“なんにも言ってない”
「…へぇ」
昂汰の眉が動く。
口角がわかりやすく上がった。
「……うた」
詩、首振る。
「違う…」
「何が違うねん」
即返される。
「今の…」
「言ってない…!」
「うた」
「言ってない!」
半泣き。
昂汰、もう駄目。
口元押さえて横向く。
(あかん)
(可愛すぎて無理)
「……分かった分かった」
「もう言わへんから」
って言いながら、自分のキャップを深く被せて、人目から隠す事にする。
でも、手だけは絶対離さない。
むしろさっきより強く握る
「…甘いもんでも食うか」
“行きたい所あるって言うてたやん”
ぽつっと。
キャップの下から小さく声。
「…うん」
“行く…”
堪えきれない笑顔をなんとか
誤魔化して元の場所へ戻る
「昂汰さん」
「ん」
「ここ見てもいい」
「はいはい」
雑に返しながらも、ちゃんと付いていく。
その時だった。
「あれ?早瀬選手じゃないですか?」
声。
振り向くと、観光客らしきグループ。
一瞬で空気が変わる。
「あ、やっぱり!本物だ!」
ざわっと囲まれかける気配。
2人の足が止まる。
繋がれていた手が、後ろに引かれて
外そうとしている事に。
その手に力を込めて
ほんの少しだけ自分に寄せる。
前に出さないように。
でも、離さないように。
そして、軽く笑う。
「ごめん、今ちょっとプライベートなんで」
柔らかいけど、線は引いてる声。
「写真とかはまた今度で」
それだけ言って、もう一歩進む。
詩はそのまま、引っ張られる形で隣を歩く。
キャップの下、顔は見えない。
でも耳は全部聞いてる。
手が、離れなかった。
人混みを抜けた先、小さなカフェは観光通りから少し外れた場所にあった。
窓際の席。
外の緑がゆっくり揺れている。
昂汰はコーヒー、詩は甘い紅茶。
さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かだった。
詩はキャップのつばを少し上げて、ほっと息をつく。
「……落ち着くね」
「そうやな」
特に会話はない
でもずっとそこにある安心感。
その頃。
少し離れたテーブル。
スマホを向ける一人の客。
「え、やば……」
小さく声が漏れる。
カメラ越しに見えるのは、窓際のふたり。
自然に並んで座っているだけなのに、空気が違う。
詩が小さく笑っていること。
昂汰がそれを見て、ほんの少しだけ表情を緩めていること。
触れ合ってるわけではない。
なのに
(なにこの2人)
(この空気感、なに)
シャッターが静かに切られる。
もう一枚。
また一枚。
その日の夜。
SNS。
「え、これ本物?」
「早瀬じゃない?」
「隣の人……綺麗すぎない?」
「え、奥さん?」
「雰囲気やばすぎるんだけど」
投稿は一気に広がる。
でも写真の中のふたりは、まだその世界を知らない。
⸻
カフェの中。
詩は紅茶をひと口飲んで、
「美味しい」
と小さく言う。
昂汰はそれを見て、
「それ、甘すぎへん?」
「ちょうどいい」
そんなやりとりだけ。
その時だけは、本当にただの休日だった。
誰かに見られていることも知らずに。
世界のどこかで騒がれていることも知らずに。
ただふたりだけの速度で、ゆっくり時間が流れていた。
部屋に戻った頃には、外はもう暗くなっていた。
露天風呂上がりの熱が、まだ少し身体に残っている。
詩は洗面台の前で髪を乾かしていた。
鏡の中の自分と目が合うたび、
昼のことが勝手に蘇る。
(……なんであんなこと)
思い出した瞬間、
耳まで熱くなる。
「うわ……」
小さく呻く。
もう忘れてほしい。
いや無理。わかってる。
昂汰さん、絶対忘れない。
部屋のソファ。
昂汰はさっきから静かだった。
テレビはついてる。
でも見てない。
スマホも触ってるのに、
内容入ってない。
頭の中ずっと同じ。
(昂汰さんはわたしの)
思い出すたびに口元が緩みそうになる。
でも今それ出したら、
詩がほんまに逃げる。
だから耐えてる。
一応。
ふいに、ドライヤーの音が止まる。
静寂。
詩が戻ってきた
その瞬間。
昂汰がぽつっと言う。
「……俺、お前のなん?」
詩、固まる。
数秒。
完全停止。
「……え」
昂汰はソファにもたれたまま、
こっちを見てる。
昼みたいに笑ってない。
声も低い。
真面目なやつ。
詩の心臓が一気にうるさくなる。
「な、なに急に……」
「いや」
昂汰は視線を逸らさない。
「昼、言うてたやろ」
詩、死亡。
「あれはっ……」
「ん?」
「ちが、あれはその……!」
言葉が出てこない。
昂汰はゆっくり立ち上がる。
詩、一歩下がる。
今出てきた扉に背中が当たる。
もう、逃げ場がない
昂汰はそのまま近づいて、
詩の前で止まる。
近い。
風呂上がりの熱と、
昂汰の体温が混ざる距離。
「うた」
低い声。
詩、目が泳ぐ。
「俺は?」
「……っ」
「誰の」
詩の顔が一気に赤くなる。
「い、言わない……!」
「昼は言うたやん」
「だってあれは……!」
「勢い?」
意地悪く聞く。
詩、黙る。
昂汰はそこで少しだけ笑う。
でも次の瞬間、
その笑いがふっと消える。
代わりに出たのは、
昼間にはなかった声。
「……嬉しかってんけど」
詩の動きが止まる。
昂汰は視線を落とさない。
「めちゃくちゃ焦ったあとに」
「お前があんなん言うから」
少しだけ息を吐く。
「全部飛んだ」
その言い方が、
思ったよりずっと真っ直ぐで。
詩は何も返せなくなる。
昂汰は困ったみたいに笑う。
「ずるいやろ、お前」
「……」
「俺だけ毎回こんなんなん?」
詩は唇をきゅっと結ぶ。
でも次の瞬間、
小さく、小さく呟く。
「……昂汰さんも」
「ん?」
「昂汰さんも、ずるい」
昂汰の眉が少し上がる。
詩は視線を逸らしたまま続ける。
「わたしばっかり恥ずかしい」
「それはお前が急に爆弾落とすからやろ」
「昂汰さんだって……」
「俺なんやねん」
詩は少しだけ黙る。
それから観念したみたいに、
昂汰の服をちょっと掴む。
昼間みたいに無意識じゃない。
ちゃんと自分で。
「……いっぱい、好きって言う」
昂汰、止まる。
「優しいし」
「すぐ探してくれるし」
声がだんだん小さくなる。
「手、離さないし……」
“あれ、嬉しかった”
最後、ほとんど聞こえない。
でも昂汰には十分すぎるくらい聞こえてる。
(あかん)
ほんまに。
もう無理。
昂汰はそのまま詩を抱き寄せる。
勢いじゃない。
でも逃がさない抱き方。
詩が胸元で小さく息を飲む。
髪に顔を埋めたまま、
低く呟く。
「……次、またどっか行こ」
詩が少しだけ笑う。
「うん」
その返事だけで、
昂汰はまた駄目になる。
旅行なんか、
何回でも行くって思った。




