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《アルマ》─観測者が見る夢─  作者: 無欄句カルタ
天命

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第一節 赦しと選択の讃美歌


「……ねぇ、世界って、やさしくていいのかな?」


 《ALMA》の世界に降り立ったルナシアが、誰に問うでもなく言葉を漏らす。

風が、ふわりと彼女の髪を撫でた。

まるで、問いに応じるような、歓迎の手つきで。

鼻先をくすぐる草と土の匂いが、優しく彼女の胸を満たしていく。

それは単純な嗅覚ではなく、もっと深い場所の感覚。


 「痛くない」という感動だった。


痛くない。

ここでは、なにも刺してこない。


 ぴょん。もう一度、ぴょん。

ルナシアはその場で意味もなく跳ねた。

転がるように草むらに寝転んで、くすくす笑って尻尾を抱えた。

獣人系種族の特徴でもある尻尾は柔らかく、子どもの頃大好きだった毛布の匂いがした。

それが、天日干てんぴぼしされた布団に染み込んだ”ダニの死骸の匂い”だと知ったときは、少しだけ落ち込んだ。

けれど、今は──どうでもよかった。

今はただただ、心地よい。


「あは……なにこれ、ほんとに……」


 草の感触が肌を切り裂かない。

風が耳を焼かない。

葉擦はずれの音も、空の明るさも、誰ひとりとして彼女を傷つけてこない。

カッターの刃を走らせるだけで自身を切り刻んだ雷鳴も、ここにはなかった。

それは彼女にとって世界からの「ゆるし」のようだったが、それを敢えて言語化はしない。

ただ、そういう顔をしていた。

そういう声を漏らし、そういう風に転がっていた。

その姿を見られると少しだけ恥ずかしいかもしれない。


「誰も、いない、よね……? あは、あははははは、はーっはっはっはっ!!」


 恥ずかしそうに周りを見渡し、人の気配がないことをその最適化された感覚で確認してから、大きく笑った。

だが彼女はまだ知らない。

このエリアに他のプレイヤーはおろか、NPCすら存在し得ないことを。


 彼女が降り立ったのは森林エリア、

【サルタス・ウェニア】

三つの中からランダムに選ばれるアルマの初期エリアの中で最も優しいエリア。

ゲームにおけるスタート地点という情報は、予めノーナから聞いていた。


 ただし、視界の端に表示されている地名のフォントが微妙に滲んでいたり、優しいはずの風に時折混ざる微かなノイズも、どこか不明瞭だった。

本人内は、それを「デザイン」として受け入れてしまっている。

プレイヤーとしての注意力よりも、今は開放感が勝っていた。


【初期チュートリアル:起動中──】

【現在地点:サルタス・ウェニアF階層──F1:枝廊しろう

【目的:ほこらを探し、“忘れられた手紙”を届けてください】


 音声ガイドはない。

指示はすべて静かに画面に浮かび、また溶けて消えていく。


「F階層……って、なに?」


 ルナシアは首を傾げる。

ゲームに詳しい方ではないが、チュートリアルのようなものだろうとだけ辛うじて理解した。

だがこの《F階層》という表記は、本来初期地点で選ばれることはない。

本編ストーリーには存在しない異層エリアの名称だった。


 その事実に、ルナシアは──気づかない。

彼女はただ、表示された目的を目で追い、ふわりと尻尾を揺らしながら歩き始める。


「手紙って、なんだろ……アイテム欄……あ、これか」


 彼女の所持品には、すでに一枚の小さな紙片が登録されていた。


アイテム名:《投函とうかんされなかった手紙》

説明文:「誰かに宛てたはずなのに、出すタイミングを失ったまま手元に残された手紙」


「…………」


 ルナシアは、その手紙を実体化させ、そっと手に取ってみる。

その瞬間、心の奥で何かが、ふっときしんだ。

それは確かに重みを持っていた。

だがその重みは、単に《ALMA》が精密に再現した五感によるものだとは──どうしても思えなかった。


ゲームの演算では処理しきれない、何かの感触。

彼女は、その手紙をしばらく見つめ続けていた。

この手紙が、どこから来たのか。

誰が書いたのか。

何故、自分の手元にあるのか。

彼女はまだ、実感してはいない。

このゲームが、自身の行動と感情で姿を変えることを。

──けれど、深く考える前に、風がまた吹いた。


「……まぁ、いっか」


 ルナシアは尻尾をぽふ、と叩いて立ち上がる。

その柔らかな感触にふたたび笑みを零す。

大きな狐耳きつねみみがぴくりと揺れるたび、世界は穏やかに返事を返してくれる。

耳を揺らし、尻尾を振り、森を歩く。

土草は柔らかく、何故か裸足だった初期装備でも痛くはなかった。


 道の端に立つ、古びた木の柱。

二手ふたてに分かれた獣道。

案内板らしきものが彫られていたが、言語は滲み、意味を成してはいない。

道なりに進むべきか。

あるいは、逆らうべきか。


この世界には、チュートリアルでさえ「正解」がないらしい。

謎の案内板が指す方へと決め、もう一方の道と別れを告げる。


──さよならだけが、人生なのだ。


 ルナシアは一歩を踏み出す。

しっぽがふわりと跳ね、耳が森の囁きを聞き取る。

ほこらを探す旅の始まり。

それは、届かなかった想いを拾い集めるような旅。

彼女はまだ知らない。

この森が、地図に載らない“層のずれ”であることも。

このほこらが、本来は誰のためにも存在しない空間であることも。


 だが、それでよかった。

始まりに気づかないほど、穏やかに始まる物語は、きっと誰かを優しくしてくれる。

ルナシアはそう思っていた。

──そうあってほしいと静かに祈った。


 案内板に従った道を歩くルナシアを、ふたたび風が撫でる。

それはただの空気の流れではなく、世界そのものの呼吸のようだった。


広がる空と雲。

空の色が、溶けていく。

あお、というにはあまりに透き通っていて、

しろ、と呼ぶにはあまりに暖かい。

葉擦はずれの音が、歌っていた。

──「よく来たね」

確かにそう言われている気がした。


 一歩一歩を、噛み締める。

地面の感触が、痛くないことにまだ驚いている自分に、ふふ、と笑った。

尖っていた感覚のひとつひとつが、

まるで霧が晴れていくように、輪郭をゆるめていく。

耳に届く鳥の声は、

かつてはただのノイズだったはずなのに、

今は旋律だった。

木々の隙間から差し込む光は、白飛びするだけの視覚的刺激ではなく、祝福のような粒子だった。

ひゅ、と風が抜けて、狐耳きつねみみをぴくりと震わせる。

それは単なる反射ではない。

この世界が、彼女に触れてくることへの応答。


「……ここ、すごいな」


 言葉が、ふわりと宙に溶けていった。

草の上に座ってみる。

痛くない。

刺されない。

ただの草が、こんなにも優しい。


「世界って、こんなに……やさしかったっけ」


 彼女の過敏な感性は、世界をナイフに変えた。

何もかもが刃のように迫り、切り刻んできた。

なのにいま、世界はすべてを丸くして差し出してくる。

風。匂い。湿り気。遠くの葉音。

どれもが、讃美歌だった。

──まるで「わたし」をゆるすように。

狐の尻尾がふわりと揺れる。


 子どもの頃に好きだった毛布の匂い。

あれは、やっぱり死んだダニの匂いだったとしても。

それでも、彼女の記憶の中では「安心」だった。

今は、それに似た空気がこの森に漂っている。

何もかもが、まだ何も知らなかったころの、あの幸福に似ている。


雨音が音楽だったころ。

静寂が優しさだったころ。

言葉が色彩を持っていたころ。


ひとつ、またひとつと、忘れていた色が蘇っていく。

その足取りは、もう跳ねるようだった。

道の端には、名も知らぬ小花が咲いていた。

空を映したような水たまりに、雲が揺れていた。

立ち止まり、屈み込み、指でなぞって、水面を揺らす。

波紋が広がる。

その中央に、自分の顔が映った。


「……笑ってる」


 ルナシアは、今、自分が笑っていることに気づいた。

しかもそれは、演技ではない。

“楽しい”という感情から生まれた、本物の笑顔だった。

やがて、森が開ける。

歩みを進めるほどに、空気がほんの少し、濃くなるように感じた。

匂いも、音も、なにもかもが“重なって”いる。


 わずかな違和感。それでも、ほこらはそこにあった。

つるに抱かれ、石の輪郭も崩れかけた、古びたほこら

そこにあったのは、世界から少しだけこぼれ落ちた“静けさ”。

けれどそこには、言いようのない異質があった。

土と風と草とでできた世界のなかに、ぽつりと残された、歴史の名残。

それはまるで、誰かの記憶が石になったような──

世界のほころびを、黙って縫いとめるためだけに在り続けたような場所だった。

空間の温度すら違っていた。


光の粒子がほこらの周囲だけゆっくり流れ、風が、そこだけ避けて通っている。

世界がその存在をどう扱っていいか迷っているように。

だから、誰にも見つけられなかったのかもしれない。

それはきっと、見つけてほしいのではなく、見届けてほしい存在だった。

誰にも知られず、だけどずっと誰かを待っていた空間。


──まるで、彼女の胸の奥に、ずっと仕舞われていた手紙そのもののようだった。

忘れられ、でも、忘れたくなかった想いのかたち。

ルナシアは、ほこらの前に立ち、もう一度、手紙を取り出す。

投函とうかんされなかった手紙》


それは、青い空を綺麗だと思えた頃の彼女が、

誰かに伝えようとして、それでも出せなかったもの。

綺麗な世界が確かに在った、という証明。


 今の彼女は、それをようやく「届けよう」としている。

過去の自分から、今の自分へ。

あるいは、その誰でもない「誰か」へ。

ルナシアはそっと手を伸ばし、ほこらの裂け目に、手紙を滑り込ませる。

風が止まり、空気が澄む。

草木が静まり返り、

世界が彼女の選択を見届けたように、息をひそめた。


──光が、差し込む。

それはゆるしでもあり、始まりでもあり、

忘れていた感情たちがもう一度芽吹いていく、そんな瞬間だった。


【エラーを検知しました】


ルナシアの視界に、突然不穏なメッセージが浮かび上がる。

穏やかな瞬間、優しいこの世界に不釣り合いな、システムからの警告。


【侵入不能エリアにプレイヤーの存在を確認、プレイヤーデータを参照します】

【参照完了、プレイヤーネーム:ルナシア】

【チュートリアルクエストの進行不全を確認、修正します】


「あっ、え? 何これ……」


 次々と表示されるシステムからの警告にも似たメッセージに、ルナシアはようやく自身が置かれている状況に違和感を感じ始める。

そう、ここは異層いそう

異なる層。

通常、プレイヤーが立ち入ることのないエリアに、今彼女はいる。


【クエスト管理AIラルンダから上位AIユピテルにクエストの更新を申請します】

【許諾、クエストの更新を確認しました】

【未知の因子を確認、既存の《ペナテス》では測定不能】

【システムを更新、……完了。新規ペナテスとしNo.1001《オルド》を生成、プレイヤーへ譲渡します】


 まるで空間の織目おりめがほどけるように、光がそこに“形”を落とした。

人の形をしていたが、冷たく、機械的で、生気に欠けた“何か”。

それでも、不思議と、怖くはなかった。


「ハジメマシテ──はじめまして、ルナシア。ボクの名前はオルド。今日から君のガイドをしていくよ」


 星空のような髪を持ち、美しく整った“それ”は、どこか不自然さを含んでいた。

陶器のような肌は精巧な人形を思わせ、血の巡りが感じられない。

性別は不明。

背は小柄なルナシアよりもさらに小さい。

澄んだ海のような瞳の奥には、幾何学模様が浮かんでいる。


「えっと……。ごめん、誰だろう?」

「了。繰り返すね。ボクの名前はオルド。役目は君の旅路の補佐だ」


 二度目の口上を聞いて尚、戸惑っているルナシアにオルドが告げる。


「少し説明が必要だね。ボクたちは《ペナテス》と呼ばれる存在だ。君たち選ばれた1000人の漂流者1人につき1体与えられる。ボクたちの役目は君の旅路の補佐。戦闘の補助や旅を進める上での助言を主な役割としている」


 オルドは抑揚のない声で淡々と続ける。


「ボクはあくまで補助しかしない。君の選択に介入はしないし、何かを強制もしない。行うのはあくまで助言だけ。決めるのは君だ、ルナシア。強いて言うのであれば、君はボクの同行にのみ拒否権がない。じゃあ行こうか、ここは長居すべき場所でも、ないからね」


 そう言ってオルドはほこらの先の大樹へと向かう。


「No.1001《オルド》より座標の変更を申請、【サルタス・ウェニア】表層へ」


 オルドが呟くと、ほこらから小さな光が溢れ集まり一塊になっていく。

溢れた光は、やがて人一人通れるほどの大きさとなる。


「承認されたよ。さあ、行こうか。さっきも言ったけど、強制はしない。ここに残るという選択肢も、あるにはある」


 ルナシアは一瞬躊躇ちゅうちょする。

現状を飲み込めない、というのもあった。

しかしそれ以上に、ここから離れる、という行為に抵抗があった。

 ここは優しかった。

オルドは長居する場所ではないと言ったが、ルナシアにとってはいつまでもここに居たい気持ちもあったのだ。

自分を受け入れてくれたこの場所に。


 アナウンスの表示、オルドの言葉。

今のルナシアは、自分が何か通常ではない場所にいることを確かに理解している。

そしてそれ以上に、これから向かう先が、ここと同じような優しさに溢れていないのではという恐怖が、彼女の歩みを止めていた。

「別にいいじゃないか」

こんなに優しいなら、間違っていても構わないと思ってしまう。

それが、いちばん怖かった。

ルナシアが躊躇う様子を見て、オルドは静かに言った。


「……Eu(エウ) Zen(ゼーン)


 風が止まり、葉の音が消える。

「“く生きること”?」


「そう。ただ生きる、よりも、善く生きる。ソクラテスの言葉だよ」


 オルドの声色は至って凪いでいる。

足を止めるルナシアをなだめても、とがめてもいない。

だからこそ、その声はルナシアの心に落ちていく。


「“ただ生きることよりも、善く生きる”。立ち止まってもいい、迷ってもいい。強制はしない。ただ、その光は長くは保たない。次がある保証はない。選んで。君が、魂が、“善く”あれる方を」


 ただ求めていた。

棘のない場所を。

そしてここにあった。確かにあった。

ここが通常のエリアであれば迷わなかっただろう。

しかしここがそうではなく、これから行こうとしている場所が通常だと言うのなら。

そこも優しい世界であるという確証は、あるのだろうか。

さっきまで、あれだけ楽しかったのに。

確かにあった心踊る穏やかな時間が、今は遥か遠い過去のようにすら思えた。


それでも。

だとしても。


「“革命は、些細なものではない”」


ルナシアは、何かが変わることを期待してここに来た。

そしてその変化の片鱗は、既に示されている。

例え進んだ先に、その続きがなくとも。


「“されど、些細なものから革命は起こる”」


 オルドの瞳の奥の幾何学模様は、じっとルナシアを観測していた。


「ゲームでEu(エウ) Zen(ゼーン)を聞くとは思わなかったな」


 ルナシアは、そっと光に手を伸ばす。

──ああ、そういえば。こんなに眩しいのに、全然目が痛くないや。

光へと消えたルナシアを追ってオルドも光へと消えていく。

あとには一通の手紙が投函されたほこらだけがあった。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

私は親知らずを一度に二本、抜きました。

怖かったですが心にいつもソクラテスを飼っているので我慢できました。

皆様も善くあれる選択を。

歯医者はきちんと行きましょう。

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