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《アルマ》─観測者が見る夢─  作者: 無欄句カルタ
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第十八節 恐怖と不安と隣人と


 目を覚ます。窓が開いているのか、冷たい風が頬を撫でる。鉛のように重い体を起こす気にはなれなかった。思考は霞み、考えがまとまらない。ここは何処で、なぜここにいるのか。朧げな記憶を掘り返してみても答えは発掘できない。


「目が覚めたかい? この世界での初めての睡眠だね」


 降りかかる声がオルドのものだと認識するまでに数秒を要した。


「どこ、ここ」

「宿屋だよ。ツァルとヴェイルは無事討伐された。君はその顛末てんまつを見届ける前に気を失ったんだ。強制ログアウトの条件には当て嵌まらなかったからね、ドルスがここまで運んだ」

「そっか」


 覚えている。あの戦いのことだけは、覚えている。思考が、体が覚えて染みついている。興奮を、快楽を、愉悦を。染みて、入り込んで、侵されて、洗っても洗っても残り続ける真っ赤なケチャップ。

体が震えていた。欲望に塗りつぶされ本能のみが支配していた思考と体に理性が宿り、恐怖を呼び覚ます。自身をコントロールできなくなる恐怖。耳は身を隠すように折りたたまれ、体から熱が奪われていく。


「《死へ向かう抵抗(ヴィーダーシュタント)》、それが君が恐れているものの正体だよ」


 オルドは真っ直ぐルナシアを見ていた。無機質かつ無感情の冷えた視線。何を見ようと何を経験しようと変わることのない不変のものが、今は良い方向に作用していた。


「形のない恐怖には形を与えよう、理由のない不安には理由をつけよう。人間はそうやって進んできたんだ。間違った形や理由だって構わない。少し前まで科学で証明できなかった自然災害は神様の仕業だったんだからね」


 オルドは視線を数ミリも動かさない。海の色、その底の幾何学模様は常に主人を見据えている。口ではルナシアの選択を尊重しつつも、立ち止まることだけは許してくれない。


「恐怖や不安は君たち人間の隣人であったはずだ。科学が進み、神と決別し、多くを知りえた現代で人類は隣人と疎遠になった。でも、今も変わらず隣人はそこにいる。良好な関係を築き直すんだ、何度でも」

「隣人……築き直す……」


 ルナシアは心の内でオルドの言葉を反芻はんすうする。飲み込んでも吐き出して、何度も嚙み砕いて、ドロドロになって、自分が消化できるようになるまで、何度も何度も繰り返す。言葉が体の奥に沈んでいくのを、ただ待った。


「《死へ向かう抵抗(ヴィーダーシュタント)》は獣人系種族に共通する種族スキルだ。体力が危険域になっても『負けない』という強い意志が発現させる。一定時間ステータスを上昇させる効果がある反面、軽度の興奮状態を引き起こすんだけど、今回この興奮状態が極端に強く出た」


 もやのようにルナシアを蝕んでいた黒く重たい感情が一塊になっていく。無限に広がっていくかに思えたものが、出来上がりつつある器に押し込められていくのがわかる。霧が輪郭を持ち始める。


「原因は恐らく君の《過集中ハイパーフォーカス》にある。本来は分散して散っていく程度の興奮が、一点に纏まり強く出てしまったんだろうね。ツァルの熱線は覚えているかい? ちょうどあれと同じイメージだよ」


 ツァルは広範囲に分散させていた雷撃を収束し、威力と速度を上げた熱線として放った。その威力はルナシアが身をもって体感している。同じことが、意識せず感情という目に見えないもので起こった。恐怖の正体は、いつも自分自身の中にある。


「安心しろ、とは簡単に言えない。言っても意味がないからね。ただ気休めを言うなら《死へ向かう抵抗(ヴィーダーシュタント)》と《過集中ハイパーフォーカス》、この二つが揃わないと発生しないレアケースだとは言っておくよ。《過集中ハイパーフォーカス》のコントロールは難しいが、《死へ向かう抵抗(ヴィーダーシュタント)》の対策は容易だ。被弾を避ける、今までと何も変わらない。君の場合、そもそも危険域まで体力が残る可能性よりも即死する可能性の方が遥かに高いよ」


 確かにね、とルナシアは力なく苦笑した。


「私は、自分がコントロールできなくなるのが怖い。湧き上がる感情が、自分を知らない何かに変えてしまうのが怖い。変わった自分を、見られるのが怖い」


 怖くて怖くて、恐ろしい。


「私は作戦を無視して突っ込んだ。最初動けなかったことへの罪悪感がそうさせたなら、多分まだ許せた。でもそうじゃなかった。自分勝手な理由で、オルドまで置き去りにした。私は、もしかしたら、オルドを死なせてしまってたかもしれない」


 恐怖は形を得た。不安の正体も、話していくうちに判明した。正しく認識されたことで起こる感情の代謝が、ぽたぽたと、布団を濡らしていく。


「前にも言ったと思うけど、ボクは宿で再起動可能だ。君に比べれば耐久性もある。置き去りにしたことを悔いているなら、初めましての時に君に伝えた言葉を繰り返し君に送るよ」


 星空のような髪を持ち、美しく整ったオルドは、今でも不自然さを含んでいる。陶器のような肌は精巧な人形を思わせ、血の巡りが感じられない。性別は不明。背は小柄なルナシアよりもさらに小さい。澄んだ海のような瞳の奥には、幾何学模様が浮かんでいる。


出会った時から何も変わらず、そこに居る。変わらないという事実が、今は小さな灯りのように見えた。


「ルナシア、君はボクの同行にのみ拒否権がない。例え君がどう変わり、何度ボクを置いて走ろうとも、この世界にいる限り傍らに存在し続ける」


 オルドは椅子に座ったまま、立ち上がりもしていない。窓から入り込んでくる風に星空の髪を揺らし、それが何でもない当たり前のことのように言葉を紡ぐ。


「君がどれだけ変わっても、ボクは変わらない。ただ君の傍にいて、君のかまどの火を守り観測し続ける。それがボクの絶対不変の存在意義プログラムだ」

「そっか。それがオルドのEu(エウ) Zen(ゼーン)なんだね」

「なるほど、そういう考えもできるのか。君は面白いねルナシア。君の《ペナテス》になれたのは幸運だ」


 なにそれ、とクスクス小さく笑うルナシアの耳は立ち上がっていた。布団は揺れ、中では尻尾が小さく揺れている。


窓の外では、この世界の風が変わらず吹いていた。

感情は代謝によって正しく処理され、布団はもう乾いていた。

科学の進歩は多くをもたらし、しかし形のないものとの付き合い方を忘れさせました。

腰痛と、仲良くはできなくても、なんとか付き合っていかないとなって。

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