第十七節 獣
「先生、決め時や。俺の残弾は限られとる、続けるか撤退か、もう待てんぞ」
ルナシアから離れた場所、そこにはオルドの祈りの歌は届かず、代わりに雷鳴が降り注ぐ。ルナシアの覚醒を知らない二人は選択を迫られていた。ドルスの《魂相》は価値あるものを消費し続ける。使えば使うほど無価値なものだけが残るその性質上、無駄に長引けば再戦時に不利になる。
「……撤退だ。ルナシアを確保して退くぞ」
ロギアが撤退を決めた数瞬後、背後から翡翠の牡鹿へと白銀の風が空間を裂く。抜き身の刃を携えた白銀の風は宙を舞う花弁が如く、点在する雷鳴を避けながら駆けた。その傍らには異形の梟。
放心状態から覚醒したルナシアが、翡翠の牡鹿の足元へ辿り着き刃を振るう。その数、三連。
《魂相》を持たず、威力が特別高いわけでもないその三連撃は、しかし確実にツァルの注意を惹くに至る。
崩壊しかけていた作戦が、今再び呼吸を始めた。
「……撤退か?」
ドルスの声にロギアは再び選択を迫られる。
ルナシアは明らかに無理をしている。過敏な感覚を持つ彼女が、ツァルの襲来により行動を止めたルナシアが、復帰後にあれだけの動きをして平気なわけがない。
撤退を選べば彼女は自分を責めるだろう。このまま続ければ、無理を強いることになるだろう。
どちらが彼女のためになるのか。
『Kiiiiiiiii!!!』
選択を阻むようにそれは天より現れた。
ツァルよりも一回り巨大な朱き翼獣。燕の形を借りた、朱き暴風ヴェイル。
天より降下し、視認可能な高度まで降りてきたヴェイルは仕掛けてくるでもなくただそこに滞留し、戦場を見下している。その静止には奇妙な重力があった。何もしないことが、何よりも重い威圧となって戦場に満ちていく。嵐の前の、あの凪に似た息苦しさ。
ツァルと対峙しているルナシアは、その接近に気づきながらも範囲を増す雷撃の対処で精一杯だった。気づけばツァルの角は四股まで分かれ猛攻は苛烈さを増している。接近を二人に知らせる余裕など、ありはしない。
「腹括れや先生。前回俺らを逃がしたことを学習しとる、それはわかっとるやろ? ルナシアが機能してる今やらな、次は何されるかわからん」
「わかっている。ルナシア! 作戦通り頼む!」
ロギアの声にルナシアからの返事はなく、戦闘の中で聞こえている保証もない。それでも確かに、ルナシアの耳がぴくりと反応していた。
「《風は此処に》」
ロギアの細剣に不可視の風が纏わりつく。《アリストテレスの庭園》に次ぐ二つ目の《魂相》。ロギアが静かに細剣を振るうと、不可視の風は明確な敵意となって戦場を俯瞰していたヴェイルを襲う。
『Kii!?』
「クソ、どうも慣れんな魔力の操作というのは」
「現実には存在しないものの一つやからなぁ。でも奴さんもようやくやる気みたいやで」
それまで上空で俯瞰するのみだったヴェイルが旋回を始めた。凪が終わる。その眼光は鋭く光り、虎視眈々と獲物を狩る機会をうかがっているようにも思える。細剣を握るロギアの手に力が入る。ツァルの角はすでに五股まで枝分かれしていた。雷撃はまだロギアたちの元まで及んでいないが、それでも範囲は着実に広がり、雷撃の量も数も増え続けている。回避を続けているルナシアの顔には確かな疲労の色が滲み出ている。
自分が選択したことだ。ルナシアが消耗していることも、負担が増えることも承知していた。撤退の判断を下す機会は確かにあった。それでも選ばなかった。
「大人として責任は取らねば、な」
細剣を握る手に、一層力が籠められる。
「ルナシア、向こうも攻撃を開始した。作戦は続行みたいだね」
「そう、だね!」
オルドと違いルナシアの耳にはロギアの意思が届いていたが、それを口にするだけの余裕はなかった。天狐族が如何に俊敏性に優れているとはいえ、これだけの猛攻。身体の疲労感もさることながら、脳の疲労がルナシアを苦しめる。時間が経つにつれて疲労は溜まる一方、雷撃の苛烈さは増し、より精密な判断を迫られる。人体の反応が可能な限り再現された仮初めの肉体に汗が滲む。至近距離での轟音と焼け焦げた臭いが、さらに精神を追い詰める。
「事前情報通りなら誰かが被弾しない限りヴェイルの攻撃は発生しない。ツァルの最大攻撃範囲が未知数な以上、できるだけロギアたちから離れるのが望ましい、できるかい?」
「そんなこと、言われても……っ!」
距離を取ろうとするルナシアの行く手を数多の雷撃が阻む。ツァルはただそこに立ち、翡翠の体躯を揺らすだけで攻撃も妨害も全てが完結していた。動かないことが暴力だった。存在することが、圧力だった。
「仕方ないね。下手に動いて被弾するより二人がヴェイルを撃破するのを待とう。────ルナシア避けろ!」
ツァルが見ていた。それまで揺らしていた体躯を止め、降りやまぬ雷撃の中で、ルナシアだけを見ていた。降り注ぐ雷鳴は鳴りやみ、五股に分かれた双角に収束し、束ねられた雷光が一条の閃光となって真っ直ぐルナシアを目掛けて放たれる。直線的で、高速で、容赦がない。
「熱っ!」
バランスを崩しながらも体を捻り、紙一重で直撃自体は回避した。しかし分散していた雷撃を収束した熱線は周囲を焼き焦がし、ルナシアの腹も例外なくその熱に焼かれた。
「大丈夫かい? 厄介だね。幸い直撃じゃなければスタンはないみたいだが、恐らく角の肥大化とともに威力もスピードも上がる。一定の溜め動作はあるみたいだ、見逃さないよう用心しよう」
「来るとわかってたら大丈夫だよ」
それでも熱線の余熱だけで体力はすでに危険域を示す赤色まで来ている。次はない。
『GURRRRRRRR……』
ツァルの角に再び雷撃が収束していく。その収束先は一つに止まらず、六つの光球へと流れ込んでいた。六つ。荘厳だった角は今や死神の指のように天を裂いている。
「走れルナシア、疲れているだろうが全速だ」
ルナシアは駆けだした。疲労は大きい。トップスピードは下がり続け、万全時の半分も出せてはいないだろう。それでも足を止めるわけにはいかなかった。その走り出しを崩すかのように進行方向へ最初の熱線が放たれ、急な方向転換を余儀なくされる。それがさらに負担を増加させ、スピードを落とさせる。六つの熱線は先ほどより威力もスピードもない代わりに、ルナシアの精神力を大きく削り取った。六つすべてが行く手を阻むように放たれ、すべて回避し終わる頃にはルナシアは大きく肩で息をしていた。
余裕は、もう微塵もなかった。
隣でオルドが声をかけているのが聞こえる。声は確かに空気を震わせ振動は鼓膜を揺らすのに、意味が脳に届かない。ツァルの雷鳴も、低い唸り声も、オルドの気遣う声も、もう聴き分けられない。
世界が飽和し、色が溶け合い、明度が失われていく。
自分が立っているのか、座っているのか、走り続けているのか。
全てが曖昧になっていく。
「ルナシア?」
回避に専念するため納刀されていた刀。それが気づけばルナシアの手に握られていた。
「ムカつくな。なんで逃げてるんだっけ」
独白は、もう台詞の形をしていない。思考の残骸が、口から零れている。
「この世界まで逃げてきて。自分で戦うって、決めて。なのになんで、また逃げてるんだ。ロギアたちがあの鳥を焼き鳥にするのを、待つ理由ってなんだ。私がお前の首を落とせば、すぐに終わるのに」
「……対象の観測を開始。種族スキルの発現を確認、でもこれは……」
「こっちは肉食で。そっちは、ただ少しデカくてピリピリするだけの、草食動物だろ」
言葉が短くなっていく。呼吸のように、ただ出てくる。
「なら、逃げるのも狩られるのも、私じゃない」
ルナシアは再び駆けだした。違ったのは、それが回避行動による疾走ではなかったこと。下がり続けていたトップスピードが息を吹き返したこと。そして無二のパートナーであるはずのオルドすら置き去りにしたこと。
刀を握った手に力が入る。
『GAAAAAAAAAAAAAAAA!!』
ツァルもすかさず攻撃態勢をとる。光球の数をさらに増やし、威力を落とすことで必要な溜め動作の短縮に成功する。戦いの中で学習し成長するのは人間の専売特許ではない。これまでの戦闘で、ツァルはルナシアに対しての最適解を導き出した。威力を捨てた速度と手数の波状攻撃。それこそが行き着いた答えであり、満点に近い解答でもあった。
一撃、ただそれだけで足りる。だがその一撃が、遠い。砂漠で見る蜃気楼のように、近くにあるはずの勝利に辿り着かない。どれだけ水を求めても、求めれば求めるほど、それは遠のく。
ルナシアは沈んでいく。深く、深く。思考を廃した独立した内面世界へと一歩一歩、歩みを進める。
嗚呼、世界のなんと単純なものか。世界には自分と敵しかいなくて、その他は単なる記号でしかなかったのだ。優しい風と木々が歌う讃美歌も、踏みしめるたびに感じる受容も、この世界に根付いて生きる小動物も。すべてが消えてなくなる。
思考を放棄した世界とは、こんなにも。
「自由だ」
感覚を、この研ぎ澄まされた感覚のすべてを、感情ではなく単なる情報として処理できる。何を感じるまでもなく、体が動く。
柵なんてなにもない。
ただ本能に従って走り抜ける姿は最早ヒトの姿を借りたケモノだ。それがなんだというのか。脳が焼けるように熱い。それがなんだというのか。
体はこんなにも軽い。羽なんかよりも。
「《死へ向かう抵抗》の発現条件は確かに満たされている。だがこれは……こんなもの、もはやシステムによる補助を逸脱している」
遂にツァルを射程圏内へと捉えたルナシアは、その巨躯の腹部に潜り込み刃を突き立てる。だが彼女の腕力はツァルの頑強さの前に弾き返され、小さな傷をつけるだけで精一杯だった。だが、それで充分でもある。
「これ続けてれば、いつかは死ぬでしょ」
そこには一人の観測者と二匹の獣。白銀の獣は、笑っていた。楽しそうに、不気味に、狂気に満ちた笑み。何かが剥がれ落ちて、残るべきものだけが残った顔。
たのしい。たのしいたのしいたのしいたのしい。タノシイ。
一方的に傷が増えていく。満身創痍であるはずの白銀の獣に、あと一撃、どんなに小さくても構わない一撃を当てる。そのためにツァルは攻撃を一点に集中させ、複数に分散させ、雷撃を降らせ、自身が持ちうるあらゆる手段を用いて反撃した。それでも傷は増え続けていく。赤く光った眼光のみが視界に映り、消えていく。
白銀が疾る。翡翠が砕ける。
さようなら、弱い私。こんにちは、強い私。
ルナシアの眼前には、死に体で立つこともままならない牡鹿が転がっている。自身の頑強さと狩人の非力さのせいで一思いに死ぬことも許されない。最期までルナシアに一撃を当てられぬまま、今はもう自身に降りかかる一太刀を待つのみとなったツァル。翡翠の毛並みは傷で荒れ放題となり、かつて荘厳だった姿とは似つかない。
「……?」
それでも、ツァルへの最後の一太刀が振り下ろされることはなかった。振り上げたままの凶刃は静止したまま。武器を持つ手は震え力が入らない。無いはずの心臓が早鐘を打ち続け脳が燃え上がり、対照的に四肢は熱を失っていく。あれだけ世界を置き去りに動き続けていた体が、今度は動き続ける世界から置き去りにされていく感覚。
動け。振り下ろせ。止めを刺せ。そう叫ぶ本能のみが辛うじてルナシアをこの場に立たせている。
『Kiiiiiiiii!!』
立ち尽くしたまま動けないルナシアと、同様に死を待つのみだったツァルのもとに朱き翼獣が飛来する。見ればヴェイルもかなりの深手だった。動きを止めたルナシアを無視し、巨大な鉤爪でツァルを鷲掴みにして逃走を図る。視界には走るロギアとドルスが映るが、このままでは恐らく間に合わないだろう。
自分だけだ。逃走を阻み、この二体の巨獣を討てるのは、今この場の自分だけなのだ。
動けと叫び続ける本能とは裏腹に、二体の巨獣はすでにルナシアの射程圏内から離れつつあった。
「────────────!!!!」
もはやそれは言葉として意味を持たない。
喉が、裂ける。
魂が、溢れ出す。
名前も、文法も、意味も、何もない。ただ存在そのものが溢れて、形を持てないまま空気を震わせる。
【《質料》が消費されます】
それは他の誰にも見えることのないシステムメッセージ。ただ一人、ルナシアの《ペナテス》であるオルドだけが感知する。
【《魂相》を形成。指向性の設定なし……上位AIユピテルが形成を行います。担当No.1001オルドの許諾を申請】
「君がそれを求めるならボクが拒む理由はない。見せてくれルナシア。理性の介入のない、純粋な魂から生まれた君の《卓越性》を。────No.1001オルドが申請を許諾、《魂相》の生成を許可する」
「GAAAAAAAAAAA────!!」
獣が咆哮をあげる。
最後の力を振り絞って振り抜かれた刃は、届くはずがなかった。距離がある。もう腕は上がらない。体は限界をとうに超えている。それでも刃は、空を割った。まるでこの世界の物理が、その一瞬だけ彼女の叫びに譲歩したように。
ヴェイルの足を、切りつけた。
「届かなかった願いや望み、叫び。それを届かせる《魂相》は、実に君らしいよルナシア」
ルナシアの一太刀でヴェイルはツァルを掴む力を失い、地面に叩きつけられたツァルは漸くその巨躯を大量の粒子へと変える。白く、静かに、消えた。バランスを崩したヴェイルも、駆け付けたロギアとドルスの攻撃により討伐は成功した。
すべてを見届ける前に、ルナシアの視界は閉ざされる。
「ルナシア!」
遠くでそんな声が聞こえた気がした。
ヴェイルはツァルの被弾ありきなのでツァル完封でヌルゲーです。
完封できたらね。




