坂口安吾「文学のふるさと」解説
◆本文まとめ
①シャルル・ペローの童話「赤頭巾」
…「赤い頭巾をかぶっているので赤頭巾とよばれているかわいい少女が、いつものように森のおばあさんを訪ねてゆくと、狼がおばあさんに化けていて、赤頭巾をむしゃむしゃ食べてしまった、という話」。
・「全く、ただ、それだけの話」
・「童話というものには大概、教訓、モラル(道徳、倫理)、というものがあるもの」だが、「この童話には、それが全く欠けて」いる。「アモラル(不道徳、道徳を超えていること)である」
・「およそモラルというものがあって初めて成り立つような童話の中に、全然モラルのない作品が存在する。しかも三百年も引き続いてその生命を持ち、多くの子供や多くの大人の心の中に生きている──これは厳たる事実」
・「私は何か大人の寒々とした心で「赤頭巾」のむごたらしい美しさを感じ、それに打たれたようでした」
「愛くるしくて、心が優しくて、全て美徳ばかりで悪さというものが何もないかれんな少女が、森のおばあさんの病気を見舞いに行って、おばあさんに化けて寝ている狼にむしゃむしゃ食べられてしまう」場面で、「私たちはいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、しかし、思わず目を打たれて、ぷつんとちょん切られたむなしい余白に、非常に静かな、しかも透明な、一つの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか」
「その余白の中に繰り広げられ、私の目に染みる風景は、かれんな少女がただ狼にむしゃむしゃ食べられているという残酷ないやらしいような風景ですが、しかし、それが私の心を打つ打ち方は、若干やりきれなくて切ないものではあるにしても、決して、不潔とか、不透明というものではありません。何か、氷を抱き締めたような、切ない悲しさ、美しさ、であります」。
②「狂言」大名が太郎冠者を供に連れて寺詣でをする話
…「突然大名が寺の屋根の鬼瓦を見て泣きだしてしまうので、太郎冠者がその次第を尋ねますと、あの鬼瓦はいかにも自分の女房によく似ているので、見れば見るほど悲しい、と言って、ただ、泣くのです」。「全く、ただ、これだけの話」
・「この狂言にもモラル──あるいはモラルに相応する笑いの意味の設定がありません。お寺詣でに来て鬼瓦を見て女房を思い出して泣きだす、という、なるほど確かに滑稽で、いちおう笑わざるをえませんが、同時に、いきなり、突き放されずにもいられません」。
・「私は笑いながら、どうしてもおかしくなるじゃないか、いったい、どうすればいいのだ……という気持ちになり、鬼瓦を見て泣くというこの事実が、突き放された後の心の全てのものをさらいとって、平凡だの当然だのというものを超躍した驚くべき厳しさで襲いかかってくることに、いわば観念の眼を閉じるような(覚悟を決めて諦める)気持ちになるのでした。逃げるにも、逃げようがありません。それは、私たちがそれに気づいたときには、どうしても組み敷かれ(押さえつけられ)ずにはいられない性質のものであります。宿命などというものよりも、もっと重たい感じのする、のっぴきならぬ(避けられない)ものであります。これもまた、やっぱり我々のふるさとでしょうか」
〇「そこで私はこう思わずにはいられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、ということ、それは文学として成り立たないように思われるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのようでなければならぬ崖があって、そこでは、モラルがない、ということ自体がモラルなのだ、と」。
「モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というようなものは、このふるさとの上に立たなければならないものだと思うものです」。
③『伊勢物語』第六段
…「昔、ある男が女に懸想してしきりに口説いてみるのですが、女がうんと言いません。ようやく三年目に、それではいっしょになってもいいと女が言うようになったので、男は飛び立つばかりに喜び、早速駆け落ちすることになって二人は都を逃げ出したのです。芥の渡しという所を過ぎて野原へかかった頃には夜も更け、そのうえ雷が鳴り雨が降りだしました。男は女の手を引いて野原を一散に駆けだしたのですが、稲妻に照らされた草の葉の露を見て、女は手を引かれて走りながら、あれは何? と尋ねました。しかし男は焦っていて、返事をする暇もありません。ようやく一軒の荒れ果てた家を見つけたので、飛び込んで、女を押し入れの中へ入れ、鬼が来たら一刺しにしてくれようと槍を持って押し入れの前に頑張っていたのですが、それにもかかわらず鬼が来て、押し入れの中の女を食べてしまったのです。あいにくそのとき、荒々しい雷が鳴り響いたので、女の悲鳴も聞こえなかったのでした。夜が明けて、男は初めて女が既に鬼に殺されてしまったことに気づいたのです。そこで、白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを──つまり、草の葉の露を見てあれは何かと女が聞いたとき、露だと答えて、いっしょに消えてしまえばよかった──という歌を詠んで、泣いたという話です」
・「この物語には男が断腸の歌を詠んで泣いたという感情の付加があって、読者は突き放された思いをせずに済むのですが、しかし、これも、モラルを超えたところにある話の一つではありましょう」。
・「この物語では、三年も口説いてやっと思いがかなったところでまんまと鬼にさらわれてしまうという対照の巧妙さや、暗夜の曠野を手を引いて走りながら、草の葉の露を見て女があれは何と聞くけれども男はいちずに走ろうとして返事すらできない──この美しい情景を持ってきて、男の悲嘆と結び合わせる綾とし、この物語を宝石の美しさにまで仕上げています。
つまり、女を思う男の情熱が激しければ激しいほど、女が鬼に食われるというむごたらしさが生きるのだし、男と女の駆け落ちのさまが美しく迫るものであればあるほど、同様に、むごたらしさが生きるのであります。女が毒婦であったり、男の情熱がいいかげんなものであれば、このむごたらしさはありえません。また、草の葉の露を指してあれは何と女が聞くけれども男は返事の暇すらもないという一挿話がなければ、この物語の値打ちの大半は消えるものと思われます」。
〇「ただモラルがない、ただ突き放す、ということだけで簡単にこの凄然たる静かな美しさが生まれるものではないでしょう。ただモラルがない、突き放すというだけならば、我々は鬼や悪玉をのさばらせて、いくつの物語でも簡単に書くことができます。そういうものではありません。
この三つの物語が私たちに伝えてくれる宝石の冷たさのようなものは、何か、絶対の孤独──生存それ自体がはらんでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか」。
④筆者のまとめ
「この三つの物語には、どうにも救いようがなく、慰めようがありません」。
「それならば、生存の孤独とか我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
私は文学のふるさと、あるいは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる──私は、そうも思います。
アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々の揺り籠ではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……
だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています」。
◆感想
私はこの文章を読むといつも、坂口安吾の、文学、批評、人生に対する強く厳然とした覚悟を感じ、涙が出てくる。それは人間・人生の孤独の深さや救いの無さへの絶望ではない。人生や文学への真剣さ、冷徹さへの共感だ。
そうして、このような人の文学、批評を読みたいと思うし、信用できるとも思う。この覚悟は、夏目漱石にも同じものを感じる。
世の中・世界では、弱いものたちが差別され、排除され、命を失っている。その厳然とした現実があることは事実だ。事実としてそれは認識するが、もちろん肯定はしない。「文学のふるさと」から芽生える文学の力を、私も信じたい。
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